四章『黒の島』-13
「……本当にここにいたんですね、カナタさん」
不意にかけられた声に振り返れば、そこに立っていたのは、白髪の魔法使いだった。
『遺物』を巡る戦いから数時間。僕たちは早々と『黒の島』を後にすることにした。
現実世界を模した町には、食糧や飲み水の類が残されていなかった。となれば、元々の予定通りここで補給をすることはできない。ごく短い滞在時間で去る以外のことはできなかったのだ。
留まることができる、僅かな猶予時間。どう過ごすか迷った僕は――祖父のアトリエを訪れていた。
モネの熱線のせいで、僅かに床板は焦げていたものの、それ以外に目立った損傷は見られなかった。僕のよく知る、そして、忘れかけていた、嗄れた背中の居場所だ。
その中心――部屋の全てを見渡せる位置に腰掛けながら、彼女に話しかけられるまで、僕はぼんやりと思索に耽っていた。
「……ああ、モネか。ごめん、ちょっと考えごとをしててさ。そろそろ出航の時間なのか?」
「ええ、そうです。姫様が、きっとここにいるはずだから呼んでこいって」
僕は思わず苦笑する。余計な気を回されたものだ。
きっと、彼女なりに気を遣ったのだろう。モネの思い、僕の残り時間。それらを全て考えての行動だというのはわかるが……。
「……」
「……」
僕らは、ただ無言の間をそこに置いた。
そもそもが、互いに口下手なのだ。だからこんな風に場を用意されたとしても、そんなに都合良く話せるわけがない。
しばらくの気まずい空白、先に破ったのは、モネの方だった。
「……かっ、カナタさん。ここで、一体何を?」
所々詰まりながらも、彼女は問いかけてきた。僕も、少しだけ会話が始まったことに安堵しつつ、返すことにする。
「ああ、ちょっと、爺ちゃんのことを思い出してたんだ。こないだ、死んじまったからさ」
「……そう、でしたか。お祖父様とは、仲が良かったんですか?」
僕は、その問いに関しては曖昧に首を振って誤魔化すことにした。
仲が良かったか、悪かったか。その線引きができるほど、僕は祖父と気持ちを通わせることができなかった。
肉親の情は、あったと思う。
子供というだけで可愛がられていた節も、あったと思う。
本来であれば、自立した情操を手に入れた後に彼と築くべきだったあれやこれを、僕は全て放棄してしまっていた。
だから、わからない。彼との関係をどう表すべきなのかが、靄に包まれたように。
「……でも、確かに、言葉は遺っている」
頭の中に響くように。
胸の中で繰り返すように。
ただ、自由たれと。そう、嗄れた声が遺り続けている。それだけが、今の僕が持ち得る、祖父との思い出の欠片だった。
「そ、それだけでも、十分だと思います」
モネは慰めるように、そう口にした。
「私は、自分の両親のことを覚えていません。祖父も、ほかの親戚も、皆、私が幼い頃に、国同士の争いに巻き込まれて、いなくなってしまいました」
彼女は精一杯に声を張る。
僕としても、初めて聞く話だった。絵本の中には、彼女らの過去の話など、一つとして出てこない。だから、思わず耳を傾けてしまう。
「顔も覚えてないんです。声も、体温も、言葉の一つだって。だから、たった一つでも思い出の欠片があるのなら――それは、その人が生きていた証になるんじゃないかって」
「……たとえ、その言葉の意味を、贈られた側が半分も理解できていなくても?」
「いいんですよ、それでも。だって、カナタさんにはまだこれから、いくらでもそれを読み解く時間があるじゃないですか」
読み解く時間。
本当に、そんなものが残されているのだろうか。
夕映えの背景。
自由落下の感触。
頬を撫でる風。
現実世界に戻った僕がどうなっているのか。もしかすると、ほんの一呼吸程度の時間しか残っていないかもしれない。
……たとえ、そうだったとしても。
「……ああ、そうだな。僕は、最後の息を吐き出すまで、きっとその言葉の意味を追い求めなきゃいけないんだ」
頭蓋骨の中で何を描くのか。
僕はまだ決めていない。何を描きたいのか、それすらも見つかっていない。
だから、ここからは。
どれだけ怖くても、それを見つけるための旅路を行かなければならないのだ。
僕は一歩、祖父の机に歩み寄る。幾重にも刻まれた傷、インクの跡、恐らくは彼の汗や皮脂によってついたであろう、黒ずんだ跡は、右手の形を象るかのようだ。
それを、なぞる。温度はない。もう、祖父は死んでしまったのだから、そこには何も残っていない。
「……お祖父様は、何をしていた方だったんですか? 見たことない道具が、沢山ありますが……」
「絵本作家……絵物語を描いていたんだ、いくつもの素晴らしい話を、あの人は紡いでいた」
口にしながら、ふと思う。
そんな彼の世界に、僕が落ちてきたのは偶然なのだろうか?
もしかすると、何か大きな意味が――あるいは、大きな意図があるのではないかと、そう、勘繰ってしまう。
例えば――そう、祖父の、最期のお節介だとか。
「……流石にそれは、締まらなさすぎるか」
呟いたところで、どこからともなく、響いてくる声があった。
「おーい、カナタぁ、モネぇ! 出航の準備ができたぜ!」
恐らく、家の外でそう叫んでいるのは、アキレアだろう。どうやら、タイムリミットが訪れたようだ。
「……んじゃ、行くとするか」
「ええ、行きましょう」
僕は、祖父のアトリエに背を向ける。
懐かしき、思い出の場所に別れを告げる。
ばいばい、爺ちゃん。
そう、言外に隠しながら。




