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閑話3-『■■■との思い出』

「カナタ、君にとってこの景色は、何に見える?」


 そう、祖父が問いかけてきたのは、いつのことだっただろうか。まだ彼の下を頻繁に訪れていた頃だから、小学生かそこらの時分だったと思う。


 僕はそれを、祖父のアトリエに満たされた一杯の絵本と向き合いながら聞いていた。


「このけしき? どれのこと?」


 本から顔を上げて応える。当時の僕には、問いかけの意図を察する力などなく、もしかすると、読書の邪魔をされたと少し憤ってすらいたかもしれない。


 そんな僕に、祖父は笑顔を返しつつ、一枚の紙を見せてくる。それが今、描いている絵本の一頁であろうことは、幼い僕でもわかった。


 描かれていたのは、見る限り大きな空と海、そして、その正面に位置する大きな空白だった。


 首を傾げ、近付いてみたり、遠ざかってみたり。それでも、変わったものなど一つも見えてこなくて。


「そら、うみ、えーっと、まっしろ!」


 素直に答えた。本当にそれしか見えなかったから。

 けれど、祖父はそれを聞いて、少しだけ残念そうに笑った。


 彼は次に、その水分が飛び始めた指で中心付近を指差す。そこは、大きな空白の浮かぶ場所だった。


「それなら、ここには何があると思う?」

「なんにもないよ、なんにもかいてないもん」

「そう、何も描いていない」祖父はそう口にすると、筆を執りながら。「ならば、質問を変えよう。カナタはこの空白に何を浮かべたいと思う?」


 幼い僕は、紙面を見つめる。まるでそこに、大人たちが隠してきた真実めいたものがあるのではないかと、そう、疑るかのように。


「んーと、じゃあね……おおきな、くじらさん!」

「ほう、いいねえ、でも鯨さんは眠っているよ」

「なんで? あさになったら、おきればいいのに」

「鯨は眠るものだからだ。たった一度、命を使う瞬間までね」


 あんなに大きな体なのに、と、幼心に思ったのを覚えている。


 夢想する。白く、どっしりとした巨大な鯨が、海原の端から端まで届くような(いびき)をかいている。


 その上で、自分も寝ていることができたらどれだけ気持ちいいだろうか、なんて。


「……カナタ、この世で忘れちゃいけないものなんてのは、そのくらいしかないんだよ」


 祖父の声は、ひどく嗄れて聞こえた。瞳には憂いが満ち、それでも、口角だけを緩めることは止めようとしなかった。


 きっと、彼自身も恐れていたのだろう。


 それが、自分という存在の途絶に対する恐怖か、それとも、もっとキラキラとしたものを手放してしまうことへの恐怖か。彼の気持ちだけは、僕にも全くわからない。


「カナタ、私はね。いつでも自分の中にキャンバスを持っているんだ」

「キャンバス? それって、なに?」

「強いて言うのなら、自由、だろうな。描く自由、作る自由、歩む自由、浮かべる自由。引き裂くのさえ、自由なんだ」


 自由。


 この言葉の意味を、僕はずっと測りかねている。

 僕の人生には、自由など無いように思えた。何もやりたいことなど、やれることなどなく、流されるがままに生きてきた。


 そんな僕の未来を、見抜いていたわけではないだろうが、祖父は首を傾げる僕を、慈しむように見つめていた。


「人は、生まれながらに自由だ。けれど、いつかはそれを手放さなければならなくなる。大人になるということは、そういうことだ」

「……おとなになるのは、かなしいことなの?」


 大人になるということは、失うことだ。


 純粋な感性を、曇りなき瞳を、輝く可能性の全てを手放して、僕らは階段を上っていく。


 そんな悲劇的な現実を、彼は簡単に否定した。


「大人になることは、悲しいことでも辛いことでもない。ただ、自由でなくなることは、少しだけ辛いかもしれんな」


 悲しくもなく、辛くもなく。

 それでも、自由を手放すことに痛みが伴うというのなら。


 彼は一体、どれだけの痛みを越えてきたのだろう。

 どれだけの痛みに耐えてきたのだろう。


「だから、我々は忘れてはいかんのだ。いつでも、人間は自由であるということを。頭蓋骨の中では、どんなものでも、描けるということを――」


 ――いつ、いつまでも思い出す。

 これだけは忘れてはいけないから。


 この言葉の中でだけ、まだ、彼は生きているのだから。


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