四章『黒の島』-12
後方、数mにまで迫った破壊の波を感じながら、それでも、心穏やかだった。
だって、僕は仲間を信じているから。
だって、僕は彼女を信じているから――。
「――駄目っ!」
モネの悲痛な叫びが響く。魔女の眼は、再び人間の色を取り戻し、彼女は前のめり気味に駆け出す。
それは、僕を追い越し――背後から迫る、聖剣の光から庇うように、彼女は立ちはだかった。
眩い光と、モネの生み出した光弾が激突する。それは辺りの砂埃を激しく舞い上げ、ほんのひと時だけ、僕らの視界を奪う。
――それだけの隙があれば、十分だった。
「う、おおおおおおおっ!」
横合いで、咆哮が上がる。
砂埃のカーテンを引き裂いて現れたのは、赤みを帯びた肌と、逆立った髪。鬼と化したアキレアだった。
彼が振り抜いた一太刀が、鋭く、傍らを浮遊する『遺物』を切り裂く。人外の膂力によって打ち据えられた紙は、真っ二つに泣き別れ、そのまま力無く、床に落ちた。
「そんな……どう、して……」
モネが、その場に膝を着く。
先程までの凄まじい殺気は、最早、形を潜めており、纏う気配は、普段と変わらない、穏やかなものに戻っていた。
僕は肩の傷を押さえつつ、彼女に近付く。白く染まった髪は戻りきっておらず、透明感のある毛束が、いくつも風に揺れている。
「……モネ、その……ごめんな」
口を衝いて出たのは、そんな言葉だった。
「何で、謝るんですか。悪いのは、私なのに……」
涙を浮かべ、蹲りながらも、彼女はそう口にした。もう、恐ろしさも冷徹さもない。ただただ、その背中が痛ましい。
「何でだろうな。でも、今のお前には謝っておかなきゃいけない気がしたんだ」
何が正しいか、ではない。
僕の率直な気持ちを伝えようとしたら、この形になったというだけだ。
別れ。
そう、僕たちの旅は必ず別れで終わる。
どれだけ親交を深めようと。
どれだけ交友を交わそうと。
例え、それ以上の仲になったとしても。
僕たちは、違う世界を生きている。
なら、傷付けないように、踏み込まずにいるという選択肢もあったはずだ。なのに、僕は皆に歩み寄ってしまった。
だから、その責任は全て――僕自身にある。
「謝る、くらいならっ……!」モネの目には、再びいっぱいの涙が。「いなくならないでください。私たちと、ずっと一緒にいてください。いつまでもいつまでも、どんな関係でもいいから、ずっと……」
彼女の手が、僕の襟を縋るようにして掴む。
熱と重み、そしてもらい泣きを誘いそうな感情の発露を感じつつも、僕は、それを受け入れることができない。
「……駄目だ、駄目なんだよ、モネ」
僕はゆっくりと、彼女の手を離す。そうして、彼女の目をしっかりと見つめた。
紅玉のような瞳。色が変わってしまった髪は、どこか神聖さすらも感じさせるような、透明感のある白だ。
頬を幾重にも伝う涙の跡にまで目をやったところで、少しだけ、胸が痛む。それでも、僕は彼女からだけは目を背けてはいけなかった。
「僕は色々なものから逃げてきた。本当は目を背けちゃいけないものからも、自分のことを空っぽだなんて言って、逃れようとしてきたんだ」
今考えれば、そのどれもが逃避でしかない。
空っぽなら、満たさなければならなかった。
空っぽなら、描かなければならなかった。
それができるのは、僕自身だけだったというのに。
「だから、僕は現実に戻る。戻って、今までの分まで取り戻すんだ」
「……何を?」モネの瞳が、僕を睨む。
「さあな。でも、僕が逃げてきたものたちを、これ以上待たせちゃ駄目だと思うんだ」
この心は、まだ腐敗しきっていないのだと。そう、この世界が教えてくれたから。
僕は必ず、元の世界に帰らなければならない。帰って、臆病のツケを払うのだ。
「……勝手ですね、カナタさん」
そう口にする彼女は、どこか憑き物が落ちたような、そんな表情をしていた。
「本当に、勝手。この世界にやってきて、私たちの旅路に加わって、私たちの心を動かして、そのくせ、自己完結して帰っていくんですから」
「ああ、だから、そういうの全部まとめて、ごめんって」
「許しませんよ」彼女はそこで、悪戯っぽく笑う。「許しませんから、最後まで一緒にいてください。私たちの物語の終わりまで、あなたがこの世界で紡げる、物語の終わりまで」
僕は手を差し伸べる。
それを、細い彼女の指が掴む。
偽物の町の中でも、絵本の世界の中でも、その温度だけは作り物だとは思えなかった。
ならば、僕が信じるものはそれだけでいい。何もかもが不確かであるのなら、自分が触れられるものだけを標にしていけばいいのだから。
そうして、立ち上がった僕らの上に、ヒラリ。一枚の紙が降ってくる。
「ん……これは……」
手にとって、気が付く。それは絵本に使われる水彩紙だった。表面には何も描いていなかったものの、裏面にあったのは――。
「――爺ちゃんの、名前」
先程、アキレアに切り裂かれたはずだと言うのに、その紙には傷一つない。
それがただの紙切れでないことは、僕にもわかっている。『遺物』。僕らの旅の目的にして――ついにこれが、最後の一つだ。
「どうにか、落着ってところか」
アキレアが溜息を吐く。そして、心音がゆっくりとなだらかになっていくにつれ、赤みを帯びていた肌から、色が退いていく。
「ああ、そうだな。全く、私たちよりも大切なものがあるとは。妬けてしまうぞ」
からかうようにエーデルが言うのと同時、彼女の荷物から、何かが飛び出してきた。
それは今までに集めた『遺物』――絵筆とインク、そしてインク瓶だ。
インクに浸されたペンは、滑らかに紙の上を滑った。それは幾重にも線を引き、形作り、何かを紙面に描き出す。
「か、カナタさん、もしかして、これ……」
そう、目を見開くモネに、僕は確かに一度、頷いてから。
「ああ、これは、たぶん――」
そこに描かれたのは。
等高線と、ゴツゴツとした輪郭。複雑に引かれた線が表すのはきっと潮の流れで――。
「――最後の島へ向かうための、海図だ」




