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序章「沈む太陽」-5

 ***



 祖父の遺した絵本には、題名がなかった。


 題する前に筆を置いてしまったのか、それとも、題名は頭の中にあったのだろうか。今となっては、それを問い質すこともできない。


 舞台は、広大な海原に、いくつかの島々が浮かぶ世界。亡国の姫は、気弱な魔法使いと豪快な戦士を伴につけ、国を復興するために、願いを叶えてくれるという、古代の『遺物』を探しに旅に出る。


 強大な敵、厄介な呪い、そして、仲間との別れを経て、遂に姫は、最後の島に辿り着くのだった――。

 ――と、いうところで、物語は途切れている。


 どちらかといえば児童向けの絵本ばかり描いていた祖父にしては珍しい、ファンタジーものとして仕上がっているのは、当時唯一の読者だった僕に合わせてのものだったのだろうか。


 どちらにせよ、物語が綴じられることは無かった。僕が手に取らなければ、きっとあのまま、業者に処分されていたのだろう。


 なら、僕がこの物語を手にしたことに、何か意味があるのだろうか?


「……くだらない」

 そこまで考えたところで、僕はそう結論付けた。


 放課後の、図書室だった。


 あの後、僕はまた絞られるのは御免だと、とりあえず形だけ授業に出席し、一番後ろの席に突っ伏せることにした。


 そうして、数時間をやり過ごせば、すぐに帰宅の鐘が鳴る。けれど、なんとなく家に帰りたくなかった僕は、その足で図書室に向かうことにしたのだ。


 目的は――図書室ですることなど、一つしか無いだろう。


 僕は開いていた絵本を閉じ、ため息を一つ。


 祖父とは、何年も没交渉だったのだ。今さら考えたところで、彼の思いを理解できるはずなどない。

 それに、そんなものを理解したところで、何かが変わるわけでもない。僕の窮屈な日常も、灰色の日々も、全て通常運行だ。


 ならば、いつまでも逃避はしていられないだろう。僕は荷物をまとめて、図書室を後にした。


 廊下に出れば、グラウンドから響いてきた運動部の掛け声が、遠くから響いてきた。


 僕以外に、ほとんど人の気配はない。厳密に言えば、教室の中に残っている生徒はいるのだろうが、わざわざ探してまで人に会いたいとは思わない。


 僕は鞄を肩に担いで、昇降口を目指す。かつかつと足音が廊下に伸びていく――。


「――ん?」

 不意に足を止めた。どこかから、他の足音も聞こえてきたのだ。


 まだ、誰か残っているのか。その足音を追いかけたのは、好奇心未満の衝動だった。


 かつ、かつ、かつ。


 落ち着いた二つの歩調が、重なることなく歩いていく。どうやら、向こうは屋上に向かおうとしているようだ。


 僕もそれに続く。どうせ、帰ったとしても、やることなどないのだ。少しくらい寄り道をしても構わないだろう。


 屋上に続く階段、窓から差し込む西日は、嫌と言うほどに僕の頬を焼いた。日が長くなっているからか、夕方も十八時を回ろうというのに、夜の藍色は迫ってこない。


 この先に、誰がいるのか。

 ほんの少しだけ、覗いて帰るつもりだった。面倒事に巻き込まれるのは御免だ、それに、あまり遅くなっては、また姉に小言を言われてしまう。


 錆の浮いたドアノブに手をかけ、ゆっくりと開く。頬を、吸い込まれた生ぬるい空気が撫でていって――。



 開けた視界の先に、誰かが立っていた。



 昼間よりも幾分穏やかになった日光は、僕の両目を一瞬だけ眩ませる。それは、じりじりと焼き付くような残光を残して、すぐに消えていった。


 帳の向こうに立っていたのは、見覚えのある後ろ姿だった。


「……英、か?」僕は恐る恐る口にする。


 目の前の彼女は驚きもしなかった。ただ、ゆっくりとこちらに振り返る。

 その目は、見たこともないほどに、昏い色を称えていた。


「……カナタ、どうして、ここにいるの?」


 問いかけてくる言葉にも、体温が籠もっていない。まるで、冷えたプラスチックのような。

 そうでなければ、死人のような声をしていた。


「どうしたもこうしたも、ちょっと見かけたから、様子を――」


 と、そこまで口にして、気が付く。


 彼女は、柵の向こうにいた。


 屋上を取り囲む、胸より少しだけ高い程度の鉄柵――その向こうに、侮るようにして、立っている。


「――おい、何してるんだよ。そこ、危ないだろ」


 僕は努めて平静を保とうとした。けれど、声の震えは抑えられない。頭の中がぐちゃぐちゃだった。英が、どうして。


 そんな狼狽を知ってか知らずか、彼女はくすりと笑う。


「ごめんね、気分の悪いもの、見せちゃって。でも、仕方ないからさ」

「仕方ないって、なんだよ。いいから、ふざけるのはやめろって」

「カナタさ、息苦しいって言ってたよね」


 英と僕の距離は、十歩かそこらだ。

 駆け出せば間に合う、かもしれない。けれど足が動かない。


「私も実はそうだったんだ、どこにいても、胸が詰まるようだったの」


 そう口にしながら笑う彼女の笑みは、まるで、水溶性のインクが流体に溶けていくかのような、どこか不気味なものだ。


 それが、寒気を走らせたから、僕はようやく、一歩を踏み出そうとして――。 



「――じゃあね、カナタ」



 ――ゆっくりと、夕景に投げ出されていく。


「――英っ!!」自分のものとは、思えないような声。


 そこに来てようやく、僕の役立たずの両足に力が入るようになった、思い切り地面を蹴って駆け出す。


 ぐんぐんと加速する景色。昼間に熱された空気も、今くらいの時間にはすっかりと冷め始めている。


 それを肺いっぱいに吸い込んで、僕は、目一杯に手を伸ばす。


 微かに、指先が手のひらに触れた。その瞬間を逃さぬよう、力強く握り込んで、彼女をこちら側に繋ぎ止める。


 ぐん、と腕の筋が突っ張る感覚。それと同時に、引き抜かれそうなほどに、肩の関節が引っ張られて――。



「――え?」



 そのまま、僕も落ちていく。



 重力を支えきることができず、物理法則の当然の帰結として、僕も彼女と同じように、焦げた夕景に投げ出される。


 目の前の英が、驚愕に目を見開いたのが見えた。

 どうして、と口が動く。それに、何事かを返す余裕もない。


 僕の懐から、絵本が零れ落ちた。落下に従い、パラパラと頁が捲られる。


 そして開かれた、始まりのページ。そうだ、この物語は、諸島を巡る船の中から始まるのだ。こんな、クソみたいな現実と違う、胸躍るような冒険の物語――。


 落ちてゆきながら、僕は異様なほどに呑気に、そんなことを考えていた。案外、死ぬときなんてのはそんなものなのかもしれない。


 頭の中を過るのは、姉ちゃんは遺されてどうなるだろうとか、クラスメイトは悲しむんだろうかとか、死んだ後の世界はあるんだろうかとか。


 どれも、どうでもいいことばかりだ。


 ゆっくりと落ちる絵本が、夕陽に重なって、輝いたような気がして――。



 ――そこで、僕の意識は、途切れた。




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