四章『黒の島』-7
「おい、カナタ、どこ行くんだよ!」
背後から、アキレアが問いかけてくる声が聞こえる。
それでも、僕は足を止めない。先程見かけた人影を追って、ひたすらに駆け続ける。
英瑛梨香。
数少ない僕の友人にして、この世界を訪れるきっかけになった人間だ。
僕がこの世界にいるのだ、彼女も来ている可能性が高いだろうとは踏んでいたが、まさか――。
――いや、半分ほど予想はできていた。
『青の島』でのやりとり、物語の外にいるかのような口振り。消去法で考えれば、彼女以外には有り得ない。
しかし、どこか舌足らずと言うか、声が幼いような気はした。無視できる程度の違和感ではあるが、ともかく、追いついてみればわかる話だ。
一心不乱に追いかけ、追いかけ、追いかけ――そんな鬼ごっこを十分ほど続けたところで、僕は足を止めた。
その背中に、息を切らせながらアキレアが追いついてくる。
「はあ、はあ……おい、急に駆け出したりして、どうかしたのかよ」
彼の問いかけに、僕は無言で目の前を指差した。
そこには、小さな一軒の家が建っている。広さにして四十坪ほど。小さな庭はあまり手入れされていないのか、雑草が生している。
「おい、カナタ……一体何があったんだ」
遅れて、後ろからエーデルとモネが駆けてくる。二人とも、着替えてきたのだろうか、既にいつも通りの服装に戻っていた。
二人が追いついてくるのを待ってから、僕は続ける。
「……ここ、僕の爺ちゃんの家なんだ」
そう、つい先日、掃除をしてきた祖父の家。
そして何より、この本を見つけたのもこの場所なのだ。
彼女は、この家の中に駆け込んでいった。一体、どうして英が僕の祖父の家に用などあるのだろうか……?
「微量ですが、魔力を感じます」モネが小さく口にする。「魔物というほどではありませんが、何かしら、超常の力を持つ存在がいるようです」
「超常の……そんなところに、あいつが……?」
僕の言葉に、エーデルが反応する。
「あいつとは……もしかして、前に聞いた?」
「ああ、英だ。あいつ、この島にいたんだ。それを追ってたら、ここに……」
僕はそのまま、自然に玄関の方に歩いていこうとした。
しかし、ふと過った考えが、その足を止める。
「……カナタさん、どうかしたんですか?」
モネが尋ねてくる。しかし、僕は即答できなかった。
祖父は、彼女らの――いや、この絵本の作者だ。つまり、この世界にとってはほとんど創造主とも言える存在なのだ。
僕の脳裏に過った疑問は至極シンプル――被造物たる彼女らが、祖父の部屋に踏み込んでもいいのだろうか?
「……いや、ここは、僕一人で行く」
懸念の霧は晴れない。なら、危ない橋は渡るべきじゃないだろう。
彼女らを連れて行くことで状況が複雑化する可能性はゼロではない。ならば、まずは僕が単独で様子を見てくるのが最良だ。
「いいのかよ、中には魔力が――」
「心配するなよ。慣れた爺ちゃんの家だから、何かあっても逃げてくるくらいはできるさ」
未だに険しい表情を崩さないアキレアに、そう曖昧な笑みを返してから、僕はドアノブを掴んだ。
玄関扉を開く。祖父の家は、僕たちが先日片付けに入った際に目にした、煩雑に散らかったままの状態でそこにあった。
埃の積もった靴箱。
玄関にまとめられたゴミの袋。
あちこちに積まれた本も、どこかで見覚えがある。
なのに、鼻先を掴むような黴の匂いがしないのが、唯一の差異と言えるだろうか。
「……英、いるのか?」
廊下の奥に響かせるようにして、呼びかけてみる。答えはない。総毛立つような緊張感が、足裏の感覚を鈍くする。
がさり、避けきることができずに、躓いた本の山が崩れる。
鈍くなる体の動きとは裏腹に、どこに向かうべきなのか、僕はもうわかっている気がした。
軋む廊下を進み、突き当たり。一番日当たりが悪い、奥まった部屋。
そこが、この家の心臓部。祖父がほとんどの時間を過ごしていた、アトリエだ――。
「……」僕は黙したまま、扉を見つめる。
傷も、染みも、木目や色合いも、何もかもが懐かしい記憶の中と同じだ。
ただ違うのは――そこに温度が介在しないこと。それだけで、この空間が偽りであると理解できてしまう。
この場に本物が無いというのなら。
先で待っているものがどんなものなのか。考えるまでもなく、答えが出ている。
ならば、もうそこに戸惑いはない。
あるとするのならば。
今、「あいつ」と相対して、どんな言葉をかけるべきなのかということだけだ。
「……行くぞ」僕は覚悟を決める。ドアノブを捻る。傷口が開くように、扉が口を開けた。
散らかった、祖父のアトリエ。
そこは、姉とともに片付けに入る前の、あの乱雑さを残したままだった。
今となってはもう、綺麗さっぱりと片付いてしまった、彼の生きた証が、ここには色濃く残っていた。
「やあ、カナタ。やっぱりこうなってしまったね」
そして、その部屋の中心。置かれた丸椅子に掛けながら、僕を侮るように見据える、小さな人影があった。
もう、この距離なら見間違えようもない。
英瑛梨香。
僕の、唯一の友人。
「お前には、聞きたいことがいくつもある」
一歩、距離を詰める。それでも彼我の間に隔絶があるように感じるのは、恐らく物理的なものではないだろう。
僕たちは精神的に、かけ離れている。それがプラスの意味を持つかマイナスの意味を持つかは、議論を持つまでもないだろうが。
「……そうだね、君とは、はなさなきゃいけない」
人影は、そこで首を振った。そして再び、フードに手を掛ける。
「でもね、それは今じゃない。今はまだ、それにふさわしい場所じゃないから」
どこか舌足らずな調子で口にすると、そのまま華奢な体躯は、ぐらりと傾いで――地面に落下していく。
咄嗟に、抱き留めんと手を伸ばす。けれど、それは間に合わず。その細い肩が床に激突する刹那。人影は悲しそうに微笑むのだった。
「――さいごの島でまってるよ、カナタ」
そう残して、ふわりと、ローブが落ちる。
人影は、溶けるように。或いは床面に染み込むようにして消えていった。
残されたのは、呆然とする僕と、贋作の部屋。困惑が残るまま、ひとまず立ち上がる。
皆を呼びに行かなければ。そう考えて、振り返った、その刹那。
「……っ、なんだよ、これ」
慄く、僕の背後。
そこに佇んでいたのは、絵本の中で見たのと同じ、怪しく光を照り返す『鏡』だった――。




