序章「沈む太陽」-4
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昼休みの教室は、酷く濁り切っていた。
飛び交う言葉には、これっぽっちも興味が湧かない。音楽、芸能、ゲームや流行りのインフルエンサーがどうとか、飽きもせず、大量生産の話題は続いていく。
僕には、そこに参画する意思も、持ち合わせた話もない。だから、ここでこうしていればいいのだ。
「おい、来間、起きろよ」
不意に、誰かが僕の体を揺さぶった。顔を上げてみれば、すぐに仏頂面と目があった。
確か、彼は学級委員の……なんという名前だったか。もう数ヶ月は同じ箱の中で過ごしている彼のことすらも曖昧な僕は、とりあえず、不満を視線に乗せることにした。
「……何だよ、僕に、何か用か」
僕の言葉に、溜め息を一つ。よく見れば彼は、小脇に紙の束を抱えているようだった。
そして、その上から一枚を手に取ると、僕の正面に突きつけてくる。
「何だも何もあるか、進路希望、クラスで出していないのは君だけだ」
今度は、僕が溜め息を吐く番だ。
そういえば、この間姉ちゃんもそんな話をしていた。もしかすると、この学級委員が先生に告げ口したことで、連絡が行ってしまったのかもしれない。
そう考えると、ひどく煩わしく思えてくるが――一旦、ここは飲み込むとしよう。
「……進路なんて、決まってない。決まってないものを、出すことなんてできないだろ」
「進路が? もう、夏だっていうのにか?」
「夏だっていうのにだよ、僕にはなりたいものなんて、これっぽっちもない」
信じられない、とでも言いたげなトーンの彼に、僕は苛立ちを返した。
レールから外れずに生きているくせに、レールにも乗れない人間のことを見下しているように思えたからだ。
それを知ってか知らずか、学級委員は続ける。
「……君、将来やりたいこととかないのか?」
「ない」
「なりたいものは? 目指している人とか」
「ないし、いない」
素っ気なく返しながら、僕は自分の気持ちが黒ずんでいくのを感じていた。
口にすればするほど、自分が空っぽであることを再確認させられるような、そんな気がしたからだ。
進学――学びたいことなんてない。
就職――働いていける自信なんてない。
けれど、もう幾ばくもしないうちに、僕たちはどちらかの道に進むことを強いられる。
選ばなければ、待っているのは落伍者のレッテルだ。そんな不条理な話が、まるで当たり前のようにまかり通っている。
成人圧。
僕らは何者かにならなければならない。
なれなければ、どうなるのだろうか?
「……何かあるだろう。興味のあることとか、子供の頃、目指していたものとか」
語気が弱くなっているのは、僕と話しても無駄だと思い始めたのか。それとも、僕のような生半な存在と接して、熱が冷めてしまったのか。
興味のあること、と言われた僕は、ふと、懐にある絵本が目に入った。
別に、こいつだって真面目な答えを期待しているわけではないだろう。だったら目一杯に、からかってやろう。
「絵本作家、なんてどうだ?」
僕の口角は上がっていただろう。意地の悪い形に、或いは、維持の難い形に。
一瞬だけ、彼の眉が何かを言いたげに吊り上がった。しかし、すぐに力が抜ける。いよいよ、こいつと話しても無駄だと、わかってもらえたのだろう。
「……君は」彼はそこで、しばらく目を泳がせて。「いや、もう、いい」
とだけ口にして、僕の席から去っていった。
その目が、まるで得体のしれないようなものを見るような目であったことに、今更触れる必要はないだろう。
彼が去ったのを確認してから、僕は席を立った。どうやら、彼と言い合ったのは失敗だったようだ。僕の方に向けられた視線のいくつかが、不快な色に淀んでいた。
だから、これは半ば逃げ出す、という表現の方が正しいのかもしれない。好奇の目に食い荒らされる前に、僕はリノリウムの廊下に逃げ出した。
或いは、それは単なる息継ぎだったのかもしれないが。
教室を出て、しばらく歩く。屋上も、この時間は昼食を摂るハイキング気分の連中で賑わってしまっているはずだ。
どこか、一人になれるところはないだろうか、と彷徨う僕は、あるものを見つける。
廊下の向こうを、英が歩いていた。
しかし、彼女は何故か、ずぶ濡れだった。その薄い茶色の髪から雫を滴らせ、体に張り付いた制服は、僅かに肌色を透かしている。
雨など降っていない。
プールに水も張っていない。
ならば、何故。
一瞬だけ、駆け寄ろうとした。けれど、足はそこで留まった。
駆け寄って、どんな言葉をかければいいのだ。僕は何も持ち合わせていない。
傍観者であると、自分の立ち位置を決めるのならば、僕はそこから踏み込んではいけない。
それが、傷つかない生き方のコツなのだ。
単に、生き方に気付かないコツなのかもしれないが。
視線を上げれば、窓の向こうに校庭の大時計が目に入った。昼休みもそろそろ終わる、午後の授業もサボってしまおうか、なんて、ぼんやり考えながら、僕は宛のない散歩を続けるのだった。