表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/82

序章「沈む太陽」-3

 ***



 僕には、嫌いな音が二つある。


 一つは、姉ちゃんの足音。

 決まって、平穏を乱しに来るから。


 もう一つは――学校の鐘の音。

 それは、始まりを告げる音だからだ。


 始まってしまえば、僕がいくら拒んでも、善悪の天秤の上に載せられてしまう。勤勉でなければ軽くなることもできない皿の上で、僕たちは息をしなければならない。


 けれど、生憎、僕は(えら)呼吸ではないのだ。だから――学校の水は僕には合わない。


「……そんな風に格好つけても、サボりの事実は消えないんじゃない?」


 そう、冷たく言い放ちながら、僕の隣に座る少女――英瑛梨香(はなぶさえりか)は手に持ったパンを一口、噛み千切った。


 ここは校舎の屋上。今頃、教室では一時間目の授業が始まっているのだろう。それを気にしていないのは、少なくとも、この場では、そんな話を持ち出す野暮もいない。


 僕と彼女は、そこを囲むように設置された金網に凭れ、並んで空を眺めていた。


 友人、というわけではない。

 恋人、まで踏み込むつもりもない。

 ただ、同じ場所を共有する仲間として、僕たちはただ、そこに在った。


「うるさいな、とにかく、こないだの休みはそれで散々だったんだ。少しくらい息抜きしたって、構わないだろ」


 からかわれたのが少しだけ悔しくて、僕は意識的に語気を強めた。彼女の方を見るのが何だか照れ臭くて、逸らすように手元の本に目を落とす。


「……それ、さっき話してた、お爺さんの家の本?」英が覗き込んでくる。

「なんだよ、見るなって。ちょっと気になって、持ってきただけだよ」


 結局、あの倉庫に価値のあるものは一つとして残されていなかった。

 大半が粗大ゴミとして業者に引き取って行かれ、最終的に残ったのは砂埃だけだ。けれど、この本はどうしてか、手放すことができなかった。


「ふうん、タイトルとかあるの?」

「無い。というか、完成する前に、爺ちゃんは死んじまったし」


 僕はパラパラと頁を飛ばし、最後の一枚――白紙のそれを掴み取る。


 爺ちゃんは、この先に何を書こうとしていたのだろうか。わからない。思い出せない。この物語を楽しんでいた時の、自分の気持ちすらも、もう迷子になってしまっているのだから。


「……もしかして、カナタ、後悔してるの?」

「……してない」僕は小さな嘘を吐いた。

「嘘、だって、目が泳いでるもん。カナタはすぐに顔に出るから、わかるよ」

「してないって、そんなの、今さら……」


 その先を口にすることはできなかった。言語化することのできない感情が、頬の内側を引っ張っている。


 だから、僕はそれを誤魔化すように立ち上がった。


「……どこに行くの?」


 英の言葉に、僕は「別に」とだけ返した。教室に戻らなければ、というのは方便で、これ以上彼女に、絵本のことを触れられたく無かったのが正直なところだ。


 いっそのこと、「絵本なんて」と笑ってくれたら楽だったのに。僕は底まで憎めぬまま、彼女に背を向けて歩き出した。



 体温未満の熱が滞留した廊下に降り立てば、すぐに不快な汗が頰を伝った。


 そろそろ、授業も終わる時間だ。辺りの教室からはガタガタと椅子を動かす音が聞こえ、ぞろぞろと、生徒たちが溢れ出してくるのが見える。


 ふと、僕の真横を、女子の一団が通り過ぎた。脱色した髪と、短く折ったスカートを個性と勘違いした、派手な連中だった。


「ねえ、あの子、今日もいるのかな?」

 不意に、耳元をそんな会話が掠める。


 一瞬だけ立ち止まろうとした足を、そのまま無理矢理に動かした。僕には、関係のないことだ。


 "あの子"というのが誰を指していたとしても。


 僕とその人物に、矢印の相関が生まれることはない。僕はどこまでも不干渉で、それ故に、遠巻きの静寂が約束されているのだ。


 教室まで歩いてきた僕は、無言で自分の席に向かう。授業が終わった後の喧騒は、僕の遅刻を咎めることもなく、ざわざわと続いている。


「あれ、カナタじゃん。遅くね?」


 ぽつり、クラスメイトのひとりが僕に視線を向けた。無視していればいいものを、舌打ちを抑えながら、僕は曖昧に笑う。


 ただ、それだけ。

 野次られるわけでも、からかわれるわけでもない。何も無い、空っぽの僕には、そんな価値すらもないのだ。


 ……だから、どこにも居場所が与えられなかった。


 この教室も、僕の居場所ではない。鰓呼吸ではない僕は、このコンクリート造りの水槽では生きていけないのだ。


 けれど、変わりたいとも思わない。だって、変わるのは痛いことだから。痛くて、辛くて、そして何よりも、痛々しい。


 僕はこのままでいい。

 透明人間のままで、いいのだ。


 と、そこで、ガラリと教室の扉が開いた。見れば、いい歳だというのに、短い髪を整髪料で逆立てた体育教師が、胸を反らせながら入ってくるところだった。


 彼は、その酒に焼けたのだかどうだか知らない、暗褐色の声を張り上げる。


「おい、来間! 戻ってきてるか!?」


 僕はため息とともに立ち上がる。どうやら、面倒事のようだ。


 大方、授業のサボりを咎められるのだろう。僕は諦めて立ち上がると、降伏の証として両手を半ばほどに掲げながら、教師の下へ歩いていく。


 ああ、息苦しい。

 そう、零すこともできないというのに。


 僕は歩きながら、もう一匹の魚のことを思った。

 けれど、すぐに頭から追い出した。だって僕たちは、違う生き物なのだから。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ