序章「沈む太陽」-3
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僕には、嫌いな音が二つある。
一つは、姉ちゃんの足音。
決まって、平穏を乱しに来るから。
もう一つは――学校の鐘の音。
それは、始まりを告げる音だからだ。
始まってしまえば、僕がいくら拒んでも、善悪の天秤の上に載せられてしまう。勤勉でなければ軽くなることもできない皿の上で、僕たちは息をしなければならない。
けれど、生憎、僕は鰓呼吸ではないのだ。だから――学校の水は僕には合わない。
「……そんな風に格好つけても、サボりの事実は消えないんじゃない?」
そう、冷たく言い放ちながら、僕の隣に座る少女――英瑛梨香は手に持ったパンを一口、噛み千切った。
ここは校舎の屋上。今頃、教室では一時間目の授業が始まっているのだろう。それを気にしていないのは、少なくとも、この場では、そんな話を持ち出す野暮もいない。
僕と彼女は、そこを囲むように設置された金網に凭れ、並んで空を眺めていた。
友人、というわけではない。
恋人、まで踏み込むつもりもない。
ただ、同じ場所を共有する仲間として、僕たちはただ、そこに在った。
「うるさいな、とにかく、こないだの休みはそれで散々だったんだ。少しくらい息抜きしたって、構わないだろ」
からかわれたのが少しだけ悔しくて、僕は意識的に語気を強めた。彼女の方を見るのが何だか照れ臭くて、逸らすように手元の本に目を落とす。
「……それ、さっき話してた、お爺さんの家の本?」英が覗き込んでくる。
「なんだよ、見るなって。ちょっと気になって、持ってきただけだよ」
結局、あの倉庫に価値のあるものは一つとして残されていなかった。
大半が粗大ゴミとして業者に引き取って行かれ、最終的に残ったのは砂埃だけだ。けれど、この本はどうしてか、手放すことができなかった。
「ふうん、タイトルとかあるの?」
「無い。というか、完成する前に、爺ちゃんは死んじまったし」
僕はパラパラと頁を飛ばし、最後の一枚――白紙のそれを掴み取る。
爺ちゃんは、この先に何を書こうとしていたのだろうか。わからない。思い出せない。この物語を楽しんでいた時の、自分の気持ちすらも、もう迷子になってしまっているのだから。
「……もしかして、カナタ、後悔してるの?」
「……してない」僕は小さな嘘を吐いた。
「嘘、だって、目が泳いでるもん。カナタはすぐに顔に出るから、わかるよ」
「してないって、そんなの、今さら……」
その先を口にすることはできなかった。言語化することのできない感情が、頬の内側を引っ張っている。
だから、僕はそれを誤魔化すように立ち上がった。
「……どこに行くの?」
英の言葉に、僕は「別に」とだけ返した。教室に戻らなければ、というのは方便で、これ以上彼女に、絵本のことを触れられたく無かったのが正直なところだ。
いっそのこと、「絵本なんて」と笑ってくれたら楽だったのに。僕は底まで憎めぬまま、彼女に背を向けて歩き出した。
体温未満の熱が滞留した廊下に降り立てば、すぐに不快な汗が頰を伝った。
そろそろ、授業も終わる時間だ。辺りの教室からはガタガタと椅子を動かす音が聞こえ、ぞろぞろと、生徒たちが溢れ出してくるのが見える。
ふと、僕の真横を、女子の一団が通り過ぎた。脱色した髪と、短く折ったスカートを個性と勘違いした、派手な連中だった。
「ねえ、あの子、今日もいるのかな?」
不意に、耳元をそんな会話が掠める。
一瞬だけ立ち止まろうとした足を、そのまま無理矢理に動かした。僕には、関係のないことだ。
"あの子"というのが誰を指していたとしても。
僕とその人物に、矢印の相関が生まれることはない。僕はどこまでも不干渉で、それ故に、遠巻きの静寂が約束されているのだ。
教室まで歩いてきた僕は、無言で自分の席に向かう。授業が終わった後の喧騒は、僕の遅刻を咎めることもなく、ざわざわと続いている。
「あれ、カナタじゃん。遅くね?」
ぽつり、クラスメイトのひとりが僕に視線を向けた。無視していればいいものを、舌打ちを抑えながら、僕は曖昧に笑う。
ただ、それだけ。
野次られるわけでも、からかわれるわけでもない。何も無い、空っぽの僕には、そんな価値すらもないのだ。
……だから、どこにも居場所が与えられなかった。
この教室も、僕の居場所ではない。鰓呼吸ではない僕は、このコンクリート造りの水槽では生きていけないのだ。
けれど、変わりたいとも思わない。だって、変わるのは痛いことだから。痛くて、辛くて、そして何よりも、痛々しい。
僕はこのままでいい。
透明人間のままで、いいのだ。
と、そこで、ガラリと教室の扉が開いた。見れば、いい歳だというのに、短い髪を整髪料で逆立てた体育教師が、胸を反らせながら入ってくるところだった。
彼は、その酒に焼けたのだかどうだか知らない、暗褐色の声を張り上げる。
「おい、来間! 戻ってきてるか!?」
僕はため息とともに立ち上がる。どうやら、面倒事のようだ。
大方、授業のサボりを咎められるのだろう。僕は諦めて立ち上がると、降伏の証として両手を半ばほどに掲げながら、教師の下へ歩いていく。
ああ、息苦しい。
そう、零すこともできないというのに。
僕は歩きながら、もう一匹の魚のことを思った。
けれど、すぐに頭から追い出した。だって僕たちは、違う生き物なのだから。