三章『青の島』-6
『黄の島』で見た時には気が付かなかったが、人影は、かなり小柄に見えた。
見覚えのある汚れたローブのてっぺんは、僕の肩ほどまでの高さしかない。幼さを感じる声といい、もしかするとローブの中には、子供か……それとも、小柄な女性が隠れているのだろうか。
「……どこから入ったんだ? この部屋、入り口は――」
「それにいみがあるなら、答えるよ」
ピシャリ、と。
僕が様子見に放とうとした言葉は、途中で遮られた。当然、紡ごうとした言葉は時間稼ぎの、意味のないものであったため、僕は口を噤むことになる。
人影は、この雨だというのに、まるっきり濡れている様子が無かった。乾いたローブの表面は、むしろ、古びた紙のような乾燥感まで覚えさせるほどだ。
「じゃあ、質問を変えるぞ。誰なんだよ、あんた」
僕の問いかけに、人影はしばらく、こちらを見つめ返してきた。しかし、暗く隠れた瞳は愚か、その顔の輪郭すら拝むことは叶わない。
とすん。と、ベッドの上に腰を下ろす。暗い空間に舞った埃が、床に落ちる程度の間を置いてから。
「……カナタがわからないなら、だれでもないよ」
人影はどこか、呆れるような。或いは諦めるような調子で、そう口にした。
「僕がわからないならって、どういうことだよ。どこかで、会ったことがあるのか?」
「ある。し、こちらはきみのことをよく知ってるよ」
「何で知ってるんだよ、ストーカーとか、その類なのか?」
「違うよ」人影は首を振って。「カナタをストーキングする意味なんて、なにかあるの?」
確かに、僕には後をつけられるような価値はない。
ならどうして、僕のことを知っていて、どうして『黄の島』から、この島まで着いてきているのだろうか?
「……さっき、言っていたよな」
僕はひとまず、浮かんだ疑問を棚上げすることにした。どうせ、この人影は話すつもりもないのだろう。
それならば、いくら考えたところで無駄だ。優先すべきことは、他にある。
「僕が物語を曲げた……とかなんとか。それって、どういう意味なんだよ」
「ことばのままだよ。もう、物語は元のカタチにはもどらない。カナタのおじいちゃんが紡いだおはなしは、別のけつまつをもとめて、うごき出したんだ」
「……別の、結末?」僕の頭に、疑問符が浮かぶ。
「これも、ことばのまま。戦士アキレアをギセイにして、生きてしゅっこうできるエンディングはもう消えて、なにがこの先にあるのかは、もうわからなくなってしまった」
「……それが、何か悪いって言うのかよ」
アキレアがいなくなってしまう結末に、納得ができなかったから、僕らはこうして、別の道を探すことにしたのだ。
ならば、そんなことは言われなくてもわかっている。人影が口にした言葉は、一から十まで全て今更なことのように思えた。
「わるくはないよ」人影は、どこか悲しそうに。「でも、もっと思いださなきゃ。ねえ、絵本のこと。君のこと。そうしないと……」
そうしないと。
何が起こるというのだろうか?
「……物語のおしまいが、『めでたし、めでたし』でかざれなくなってしまう」
「ハッピーエンドじゃなくなるってことか? そんなの、元からそうじゃないか」
「ちがうよ。少なくとも、決まったゆきさきにバッドエンドはなかった、そのはずなんだ」
「……さっきから、まどろっこしいんだよ。」僕は苛立ちを覚えていた。「何が言いたいんだ?」
問いかけつつも、半分以上答えは出ているような気がしていた。人影の口にした情報を組み立てれば、自明の解答が浮かび上がってくる。
元の行先にバッドエンドはなく。
物語の筋は捻じ曲がり。
運命の形が、不確かに揺らいでいるのなら。
「もう、にげられないよ。このままじゃ、君のてからはまた、こぼれおちてしまう」
人影はそこで、ベッドから飛び降りた。そして、ゆっくりと窓辺に近寄り、そのまま窓を開いた。
未だに豪雨の止まぬ空から、風に乗って雨粒が吹き込んでくる。それすらも厭わず、細い足を窓枠に掛けて。
「お、おい、お前、何を――」
止める間もなく、人影は背中から、体を宙に投げ出した。
その景色には、見覚えがあるような気がした。夕暮れの空。柵越しの立ち姿。華奢な輪郭が、風に溶けるように――。
「――わすれないでね、カナタ」
人影は、枠の向こうに落ちていく。そのローブの端が見えなくなるまで、僕は動くことができないでいた。
まるで、いつかのように。
僕は、あの屋上で見た沈みゆく太陽に、いつまでも追いつけないというのだろうか――。
「……まさか、あいつは」
誰ともなく呟いて、僕は人影が落ちていった窓から下を覗いた。見えるのは、隣接する納屋の屋根だけ。人影はおろか、落下した形跡すら無いようだった。
細い身体。
僕と同じ、物語の外側にいる存在。
未だ、確信にはほど遠い。けれど、予感というには余りにも硬質な感覚が、胸の中に残り続けている。
そこまで考えたところで、扉が乱暴に開かれる音が聞こえた。振り返れば、アキレアが部屋に入ってくるところだった。
「おーい、カナタ! お前、まだ着替えてねえのかよ。皆、待ってんだぜ」
「あ、アキレア。お前、ノックもせずに入ってくるなっての……」
平静を装う。先の出来事は、黙っておいた方がいいような気がした。




