序章「沈む太陽」-2
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「……一年、来間花向です、よろしくお願いします」
そう名乗った僕のことを、顧問は「覇気がない」と一言で断じた。
入学して最初に入ったバスケ部を辞めたのは、それだけが理由ではなかったように思える。厳しい練習、人間関係、何もかもが合っていなかったのだ。
そんな言い訳を繰り返しながら、気付けば、様々な部活動に入退部を繰り返していた。
運動部も文化部も、興味のあることも無いことも。繰り返した末にわかったのは、どこにも僕の居場所など無いのだという、はっきりとした現実だった。
別に、漫画のような劇的な日々を求めたわけではない。
ただ、誌面の端に立つことを当たり前に許してくれるような、そんな、ぬるま湯であればよかったというのに――。
「――嫌なこと思い出しちまった」
姉の言っていた倉庫は、玄関を出て裏手に回ればすぐに見えてきた。
元々は白い塗料で塗られていたであろうトタン製の壁は、あちこちが剥げ、その部分を赤茶色の錆に喰われている。
暑さでぼやけた頭を、何度か振るう。そして、温くなったスポーツドリンクの封を切った。
朦朧とした思考は、熱中症の前触れだろうか。喉を潤す感覚は、口の中にわだかまった憂鬱を、姑息療法的に押し流してくれる。
そうして口元を拭ったなら、もう、目の前の現実に向き合わざるを得なかった。倉庫のあちこちには蔦が張り、周囲の雑草は腰ほどまで、その背を伸ばしている。
どうやら、祖父もあまりこの倉庫を手入れはしていなかったようだ。道理で、姉が来たがらなかった訳である。
僕は扉に手をかけ、力いっぱいに開く。あちこちが錆び、痛み、歪んだ扉は気持ちの悪い、何かを引っ掻くような音ともに口を開けた。
それと同時に、熱気が全身を絡め取る。倉庫の中は僅かに湿気があったようで、息をするだけでも重苦しいような空気が満ち満ちていた。
「……っ、くそっ」
悪態を一つ。まずは換気でもしなければ、やっていられない。
僕は近くの草むらから適当な石を拾ってきて、戸車の辺りに噛ませた。そして、倉庫の奥の方にあった小窓を開け、風が通るようにする。
そうしているうち、日光が差し込んだ倉庫の中身、その全容が見えるようになってきた。
冬用のタイヤ、除草剤のボトル、いつから放置されているのかもわからない、除雪用の塩化カルシウム――それら全てが埃を被り、セピア色に褪せている。
さて、どこから手を付けてみたものかと辺りを見回して、僕はそれを見つけることになる。
窓辺に、一冊の本が置かれていた。
赤い革張りのハードカバーには、不思議と埃も詰まっておらず、経年の傷や汚れこそあるものの、他のもののように、埃や塵にまみれてはいなかった。
「……なんだよ、これ」
当然、本が答え返すことはない。
どうせ、庫内の暑気が抜けるまで少し時間がかかる。僕は、近くにあったビール箱に腰掛け、誘蛾灯に誘われる羽虫のように不確かな軌道で手を伸ばし、本を開いてみた。
そして、頭の中で花開いた記憶に、思わず目を見開く。
「これ、爺ちゃんの本……昔読んだやつだ」
優しいタッチは、間違いなく祖父の絵だった。
古の秘宝の眠る島々を冒険する、姫様と仲間たちの物語。読んだのはずっと、ずっと昔だったはずだが、頁を捲る毎に、頭蓋の内側で、懐かしさが弾ける。
姫を守る、力自慢な亡国の騎士。
沢山の魔法を使えるのに、気弱な魔法使い。
そして、怪物たちにも果敢に挑みかかる、黄金の髪を持つ姫様――。
この話を書いてくれたのは、確か僕が小学生くらいの頃だろうか。何もかもが楽しく、輝いて見えた頃。
それは、暗中にいる自分からすれば、もう目を背けたくなるくらいに眩しいものだ。
「そういえば、この話の終わりって……」
思えば、これを最後まで読むことは無かった。この本は祖父が仕事の合間に描いてくれていたものだった。遊びに来るたび、新しい頁が追加されていて、心躍ったのを覚えている。
『もう、いいよ爺ちゃん。絵本とか、ダサいし』
そして、そう言い放ったのは、確かに自分だった。そこまでを思い出したところで、僕はパタリと本を閉じる。
丁度、中学に上がる頃だっただろうか。突っぱねるように言ったのは、見栄か、そうでなければ、『格好つけたい年頃』だったのかもしれない。
後になって考えてみれば、馬鹿なことをしたものだ。祖父のことを傷つけてしまっていたのかもしれないと、僅かに、胸の奥が痛んだ。
その時だった。
「かーなーたー! あんた、静かだけどちゃんとやってるんでしょうね!」
倉庫の外から響いてきたのは、姉の声だった。ざくざく、ざくざくと、乱暴な足音が近付いてくる。
僕は、慌てて立ち上がった。本を読んでいるところを見られたら、何を言われるかわからない。
「や、やってるよ、なんだよ姉ちゃん、疑って――」
そう、口にしながら倉庫を出ようとした、その瞬間。
かつん、と。
爪先に、何かが当たった。
それはもしかすると、辺りに積まれた物の一部だったのかもしれない。いや、間違いなくそうであったのだろう。
――すぐ横合いに積まれた荷物が、僕めがけて崩れてきたのだから。
「――っ、なっ……!」
僕は思い切り体を捻り、どうにか潰されぬように身を翻す。ドサドサと音を立てながら、真横に落下してきたそれらは、何に使うのかもわからないガラクタばかりだ。
「ちょっと、カナタ! あんた、何してるのよ……」
呆れたように、姉が肩を竦める。
蝉の声が、どこか他人事のように遠い。背負った地面は散々熱せられていたからか、汗だくのシャツ越しに、僕の背中を焦がしていく。
「い、てて……くそっ、なんなんだよ……」
悪態を吐きながら身を起こす。体の上に落ちてきた荷物を退けながら立ち上がれば、足首に僅かな痛みがあった。
変に捻ってしまったのか、それとも、荷物がぶつかってきた影響か。どうあれ、そこまでの怪我ではない。
むしろ、派手にひっくり返してしまったこれらを片付ける方が絶望的だ。幸いにして割れ物などは無かったみたいだが、微妙なバランスで崩れずに残った荷物たちを運び出すのは、容易ではないだろう。
どうやら、姉も同じ結論に至ったようだ。
「ああ、もう。少しでも作業を進めようと思ったけど、これじゃ駄目みたいね。まったく、余計なことしてくれるんだから……」
ため息を吐く彼女に、言いたいことはいくつもあった。けれど、それを口にするのが愚かであることは、よく知っている。
湧き上がってきた言葉を飲み込んで、僕は掃除を再開することにした。
懐に隠した、形見の絵本の存在を、彼女に明かすことはないままで。