序章「沈む太陽」-1
祖父の訃報が入ったのは、蝉の声が幅を利かせ始めた、七月も半ばの話だった。
絵本作家をしていた祖父は、家族と離れて郊外の一軒家に暮らしていた。年に一度ある親戚の集まりにも顔を出さない人だったが、幼い頃は、よく遊びに行っていたのを覚えている。
久し振りに入った祖父の部屋は、どこか懐かしい顔料の匂いがした。
部屋に視線を這わせる。画材の散らかった机、足元に積まれた本、それに、山積みにされたゴミ箱。
けれど、部屋の端にある本棚だけが、いやに綺麗に整頓されているのが印象的だった。
「あー、もう、やっぱり散らかってるわね。これなら、ハウスクリーニングにでも頼むんだったわ」
背後から溜め息と共に聞こえたのは、姉の声だ。彼女は家中の窓を開けながら、不機嫌そうに眉根を寄せている。
誰に頼まれた訳でもないのに、祖父の家の片付けに名乗り出たのは、恐らく、親戚に対する見栄のようなものだろう。
それに巻き込まれる僕としては、たまったものじゃないが。
「カナタ、何ぼーっとしてんのよ。ほら、ゴミ袋。その辺りの要らなさそうなもの、全部放り込んじゃいなさい」
僕は生返事を一つ置いて、袋を受け取った。
市の指定ゴミ袋は薄くて安っぽく、それでいて割高だ。けれど、そのデザインだけは、評価が高い。これも確か、祖父が仕事で描いたものだ。
その袋が、今、祖父の仕事道具を捨てるために使われようとしているのだから、酷い皮肉だ。
とはいえ、感傷に浸っている暇はない。
姉の癇癪に振り回されぬよう、とにかく手についたものを袋に放り込んでいく。古い絵の具、手つかずの紙、窓辺に近い位置に置かれていた花瓶で、乾涸びていた花。
そして――積まれている本に手を伸ばそうとして。
「あ、そうだ、本は勝手に捨てちゃ駄目よ。たまに、高く売れるものがあるんだって」
「……うるさいなあ、姉ちゃん。そうしたら、自分で仕分けりゃいいじゃんか」
僕は思わず、苦言を呈した。
「あ、減らず口。あんた、私に逆らうっていうなら、来週の掃除当番、倍にするから」
「はあ? ちょっと待てって。それは、話が別じゃあ……」
「別じゃないわよ、はい、決定。それが嫌なら、早く手を動かしなさい」
ひとつ、息を吐く。
姉はいつもこうなのだ。県外の高校に通いたいからと、都内に住んでいる姉の家を下宿先に選んだのが間違いだった。
おかげで、貴重な休日にまでこんなことを手伝わされることになる。僕は重い体を引きずりながら、あらかた不要物を除けた机を拭くため、雑巾を探しに立ち上がった。
と、そこで姉と目が合う。肩ほどまでの髪を緩く巻いた彼女は、誰に見せるわけでも無いだろうに、薄く化粧をしているようだった。
どうせ、汚れるだろうに。なんでわざわざそんなことをするのか、僕にはわからない。
「なによ、何か用?」姉は不機嫌そうに眉を寄せた。
「……別に」僕は目を背ける。これ以上続けていれば、また、いちゃもんをつけられかねない。
バケツに水を張り、毛玉の浮いた雑巾を放り込む。滑らかな液体が、手のひらの熱を奪っていく。
「まったく、誰に似たのよ、あんた。すぐに姉ちゃんに口答えするんだから」
遠くで、姉が大げさに方をすくめるのが見えた。それをできるだけ視界に入れないようにしながら、指先で液体を弄んだ。
「こないだは、進路希望出してないって学校から電話があったし。姉ちゃん、びっくりしたんだから」
「……今は、関係ないだろ。別に、そのうち出すよ」
「そのうちって……あんた、もう、高校2年生の夏なのよ。先生にグチグチ言われるの、姉ちゃんなんだから」
「うるさいな、今はいいだろ、そんな話」
僕は苛立ちを、手の中の雑巾に込めた。手のひらの皮が捻れるような感覚、固く絞られたそれを指先で解してから、再び、仕事部屋に戻る。
そして、物を退けた机を拭き上げてから、ついでに窓の燦も拭くことにした。いつから掃除をしていなかったのか、分厚い埃が指先に集まる。
「……まあ、いいけどさ。部活も辞めちゃうし、友だちと出かけたりもしないし、姉としては、心配になるのよ」
余計なお世話だ、と言外に呟き、僕は再び、祖父の遺品と向き合うことにした。
祖父は作家としては有名だったらしい。よく知らないが、訃報が夕方のニュースで一度か二度、流れるくらいには名が知られていたようだ。
この絵筆も、絵の具も、年季が入った作業台も。何もかもが、死の間際まで作品を作り続けていた、その手のひらの熱を遺しているようだった。
それを、念入りに拭き取っていく。祖父の作品は昔読んだことがあるが、今はもうすっかり、足が遠のいてしまっていた。
ふと、絵筆の一つが目に留まった。祖父の名前が刻まれたそれには、どこか、懐かしさすら感じるはずなのに。それでも、心が冷めているような感覚は遠ざけられない。
――絵本なんて歳じゃない。
それを言い訳にするのが、格好いいと思った訳ではないが。
「あ、そうだ、カナタ。あんた、裏の倉庫を先にやってちょうだいよ」
不意に、姉に声をかけられる。
「裏の倉庫? 自分でやればいいじゃん」
「嫌よ、暑いし、埃っぽいし。それに、私は私でやることがあるの」
「なら、後回しでいいだろ、日が陰ってからで」
「そうもいかないの、粗大ごみは早めに業者が来るのよ。重いものだってあるんだから、男が頑張りなさいよ」
そんなの、僕だって御免に決まっている。いい加減に、と口にしようとして。
「……掃除当番」
ボソリと呟いた姉の言葉に、それを飲み込むことにした。
今日何度目かになる溜め息を一つ置いて、僕は玄関に向かうことにした。足取りが重いのは、暑さのせいだけではないだろう。
玄関のスポドリを持っていきなさい、と遠くから、姉の声が聞こえた気がした。
青いパッケージを掴み、しばらく見つめていれば、頭の奥の方から、嫌な記憶が滲み出してくる。