一章『赤の島』-8
サンドワームは、僕たちを襲った位置から、そう離れない場所にいた。
獲物を見つけていないからか、その動きは酷く緩慢で、先程までの恐ろしさが嘘のようだった。
「カナタ、覚悟はいいな」エーデルが、僕に問いかけてくる。「今回の作戦で一番危ないのは、間違いなくお前だ。準備は……できているな?」
僕は、靴紐を固く結び直した。そして、静かに頷く。
「……ああ、始めてくれ」
僕の声を合図に、モネが杖を振るう。
彼女の杖先から迸った、派手な色の火花が、まるで流星のように飛んでいくと――そのまま、サンドワームの甲殻の手前で、パチパチと弾けた。
――途端。
「うわっ!」僕は驚愕に、思わず声を漏らしてしまう。
サンドワームが動き出し、地面が激しく脈動した。
それと同時に、僕も走り出す。
「おい、こっちだ、こっちに来い!」
両手いっぱいに抱えているのは、水辺で拾った丁度いい石ころだ。それを、怪物の鼻先に投げながら、僕は必死に走る。
背後から迫るサンドワームは、砂も熱気も、恐らくは僅かな動植物たちも全てを綯い交ぜにして飲み込んでいく。
捕まれば、どうなってしまうか。
わざわざ、言うまでもないだろう。
「――ちく、しょう……っ!」
後方から感じるプレッシャーに、思わず足を取られそうになる。
けれど、まだだ。まだ、僕が倒れるわけにはいかない。
「バスケ部の頃の、走り込みよりずっとマシだ……っ!」
少しでも、少しでも前へ。
もう、後悔はしたくないのだ。
あの時の屋上で、あともう一歩、もう一瞬だけ早く、手を掴めていたら、何か変わっていたのかもしれない。
なにより、もっと早く、彼女の下に駆けつけることができていたら、あんな風に別れを告げられることもなかったのかもしれない。
そんな、暗褐色の感情が僕を衝き動かす。
まだだ、あと少し、あと、少しだけ――!
「――っ!」
途端、視界がぐるりと回転する。
揺さぶられる三半規管が、砂に足を取られ、転んでしまったのだと、そう知らせてくる。
上体を起こして後方を振り返れば、猛然と迫る乱杭歯が、もう、すぐそこまで。
僕は目を閉じた。もし、この絵本の世界で死んでしまったらどうなるのだろうか?
元の世界に戻るのか、それとも、そのまま死んで、それっきりなのか。
考えても仕方がない。僕はただ、迫りくる衝撃に備え、身を固くして――。
「――よくやったな、カナタ!」
その声と共に、頬を暴風が駆け抜けていった。
薄っすらと目を開けてみれば、見えたのは大きな背中だった。構えた剣は、自らの何倍もの大きさがあるサンドワームの頭部を、悠然と受け止めている。
戦士アキレア。
絵本の中の英雄が、怪物の進行を食い止めていた。
「ふん、ただのガキかと思ったら、中々に根性があるじゃねえか。よくやったぜ、お前」
彼は振り返りもせずにそう言うと、そのまま押さえていた剣を振り抜いた。
人外の膂力から放たれた一撃に、思わず怪物がのけぞる。その隙を、彼は見逃しはしなかった。
「――モネ、今だっ!」
「は、はいっ!」
その号令と同時に、オアシスの水が立ち上がる。
まるで、目に見えぬ容器に入れられたかのように。或いは、それ自体が粘性を帯びているかのように、水は立ち上がり、そのまま、サンドワームに向けて飛んでいった。
そして、その指先が甲殻に触れると同時に、辺りにはもうもうと水蒸気が立ち込める。水が、体表の熱で気化したのだ。
瞬間、バキバキと乾いた音が響き渡る。
見れば、サンドワームの表面に亀裂が入っていた。
「よしっ!」僕は思わずガッツポーズを取る。
あいつは体表から、常に高温を放っている。ならば、それを急速に冷やしてやれば、甲殻には僅かながら脆い点が生まれる。
僕が介入しなかった、絵本本来の展開では、三日後の雨によって冷却は行われた。今回はそれを、モネの魔法によって行ったのだ。
甲殻さえ破れれば、その下にあるのは柔らかく蠢く剥き出しの肉だけ。間違いなく、今が好機だった。
「う、おおおおおおお!」
乾いた砂漠に雄叫びが響く。
近くの岩山から跳躍したエーデルは、サンドワームに飛びかかりながら、大きく剣を振り上げた。
それは、沈みゆく太陽と同化するようにして輝き、眩い軌跡を描いて振り抜かれる。
光を纏う、聖剣による一太刀が放たれる。
「い、けええええええ!」
それは誰の叫び声だったのか、振り下ろされた剣は、怪物の胴を真っ二つに斬り裂いた。
同時に、怪物は苦悶の叫びを上げる。頭側と尾側の体をびたんびたんと何度も跳ねさせ、辺りに砂を撒き散らした。
けれど、それも少しの間だけ。
やがて、その身はぴたりと沈黙し、僅かな痙攣を残して、動かなくなった。
「……やった、のか?」
僕は問いかける、が、誰も動かない。
これ以上の策はない。もし、これでも倒せなければ、もう――。
「――ああ、やったさ」
エーデルが答えると同時に、切り離された巨体が、急速に炭化したかのように黒ずんだ。
そして、その端からパラパラと解け、塵となって宙空に溶けていく。
そこまでを見届けてから、彼女らは武器を収めた。どうやら、上手く行ったようだった。
そんな様を眺めていた僕の肩に軽い衝撃、振り返れば、歯を剥き出して笑うアキレアの姿があった。
「へへ、お前、やるな。ただのコソドロかと思ってたら、中々に根性があるじゃねえの」
「……そりゃ、どーも」
僕は相槌を打ちながら、怪物の死体に視線を向けていた。
――こいつは、倒したはずだ。
なら、『遺物』は、一体どこに――。
そう、思考するが早いか。
「……! カナタ、『遺物』だ!」
エーデルが声を張る。見れば、消えゆく怪物の残骸の中に、眩い光を放つ何かが落ちているのが見えた。
僕はそれに駆け寄り、光の中を覗き込む。
『遺物』は、絵本の中でも詳しい描写がされていなかった。キラキラと輝く、貴重なお宝、であることは間違いないのだが――。
「――は?」
それを目にした僕は、思わずそう言葉を漏らしていた。
これが。
これが、『遺物』?
「カナタ、どうかしたのか?」
声をかけてきたアキレアに返事もできぬまま、僕はそれを見つめている。
だって、そこにあったのは。
今は亡き、祖父の使っていたペンだったのだから。




