5.
食事が終わり、章一は「おいしいです」と言うのがやっとだった。
「ありがとうございます」
と神田さんは言い、リンゴを取り出すと、くるくるとむき出し、切り分けて差し出し、その間、数人の人が章一たちの前を行き来することがあったが、章一はむしろ誇らしかった。
食事が終わると、二人でぼんやり座っていた。例年より気温の低い三月、と朝、母のラジオからの気象予報士の声を聞いていたが、ちっとも寒さを感じていなかった。
ふと、椅子に敷いた白い布の上に、黒袋があるのを見て、ぎょっとした。自分が持って来たおみやげのことをすっかり忘れていたのだ。
章一はえへんと咳払いすると、
「あの、これ…」
と神田さんに渡そうとした。
神田さんは一瞬固まり、
「まだ直接お受けすることはできません。どうぞここに置いて下さい」
というので、章一は二人の間の、今までお弁当のタッパが置いてあった所に袋を置いた。
「まあ」
と神田さんの目がハートになった。
「そうそう、先日もほしくず屋のギフトをいただき、ありがとうございました。ゴボウかりんとうは、我が家の好物でございます。また、万能かりんとうは複雑な味わいがあり、まさにいろいろな事態に直面した時の万能薬になりうる効果があると、実感いたしました」
と言い、袋を覗くと、
「ま、まあ」とポッと頬を赤らめた。
神田さんは食事の後に、まだマスクをしておらず、こんなに近く、はっきりと神田さんの顔を見るのは初めてのような気がした。その目は澄んでいて、唇はうすく、口元はきりりと引き締まっている。
章一はドギマギし、あまりじっと見つめてはいけないような気がした。だけれど、どうしても見たくなってしまう。
「この、ピ…、ン…。えっと…。も、も、桃色の…。あの、かりんとうは初めてでございます」
とえらく恥ずかしそうに言う。だが、その名前を見ると、
「あ、あ、まあ!」と言ったきり、章一の方をまじまじと見たので、二人はほぼ一分のあいだじっと見つめあってしまい、もう二人は二人とも固まってしまっていた。
このまま時が止まってしまってもいい、と章一は思った。
それにしても、ほしくず屋にこんなにファンが多いとはびっくりだった。そして、なんだかほしくず屋の近くに住んでいることさえ、誇らしく思えるのだった。
それからまた話が途切れてしまい、しばらくすると、
「何か、わたくしに申し付けることがございましたら、おっしゃって下さい」
と神田さんが言った。
「あ。あの…。吉田君が結婚するのは知っていると思いますが、結婚披露宴に神田さんも一緒に出席して欲しいというのです。できれば、住所を教えて下さい」
と章一が言った。
神田さんはしばし考え込んだ。そして、
「その日時はいつになりましょうか?」
と聞くので、章一はスケジュール表を確認して、
「六月二十四日の土曜日です」
ときっぱり言った。
するとまた神田さんは再びしばし考え込み、
「申し訳ございません。その日は大安でございますね。いえ、誤解なさらないで欲しいのですが、陰陽道や、六曜を気にしているわけではないのです。ただ、今は説明できない理由により、とにかくそのようなお祝い事には、わたくしはしばらく顔を出すことはできません。とにかく、まずこれをお読みください」
と、神田さんがさきほど言っていた、レポートの一部らしいものを二人の間に置いた。
「オンミョードー?」「ロクヨー?」その響きは章一にとっては意味不明だったが、なにか言葉の中に隠されている媚薬のような効果があり、章一は魔法に囚われたような状態だった。
「あ、あの…」
と章一はもじもじした。
「あの、結婚、あの…、ぼくたちの結婚のことは…?」
と言ったきり、なんだかそのまま神田さんを見つめ続けていることが苦しくなり、章一は下を向いてしまった。
「ご心配なさらぬよう。そのことはしっかりと考えております。では、その吉田様の婚礼の日に、私どもも婚礼をあげましょう。いかがですか?」
なんとまあ、ずいぶんはっきりとその答えを聞き、章一は、思わず
「はい」
と答えたが…、
「え? じゃあ、吉田君の結婚式の方は」
と困惑した。
「わたくしどもは、その日に婚姻届けを提出することにする。それでいかがでしょうか。こういうめでたいことは、重なるとさらにめでたいこととつながってまいりますので…」
と神田さんはにっこり笑った。
母が前に言った、「女神のような人」という言葉が思い出された。章一にとって、彼女はまぎれもない女神なのだ、という気がした。
「はい」
と章一は、神田さんの方に手を伸ばしそうになる衝動を抑え、静かに息を吐いた。
「良かった。六月なら、わたくしの身辺を整えますのに充分な時間がございます。その間に、少しずつ住江様との間を詰めてまいりたいと思います」
「はあ」
章一はとにかく、今、力が入らないような状態になっていた。と、神田さんが白い手袋をはめ、章一の手にその手を重ねた。
章一はぼ~っと、その手を見つめ、それから神田さんを見つめた。
「申し訳ございません。本日はここまででございます。どうぞ、ご承知下さいませ」
と神田さんの手に力が入り、さらに章一はぼ~っとなった。
「さ、今日はもうお開きにいたしましょう。駅までは、またテープを装着していただきます」
もう、章一は神田さんの言いなりである。でも、なんだか、今までに感じたことのない幸せの中にいた。
それから家まで帰る間、章一は完全にほんわかした世界にワープしていた。
駅に降り立つと、またほしくず屋のじいさんが外の掃除をしていた。なんなのだろうか? いつも店から外に出ていることは稀なのに…。一日外で掃除していたのであろうか?
じいさんは、目つきの悪い目を、ギロリと章一に投げかけながらも、また意味深な目くばせを送ってきた。