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第6章 終わらない悪夢

 

 京都市西京極池町近くの住宅街である。細い裏路地に沿ってゴミゴミとした街並みが続く。

 この辺には昭和の頃に造られた古いアパート類が多い。京都らしい古い寺院や格子造りの町家の間に、昭和の香りのするモルタルのアパートが顔を出したりする。

話は遡る。石動美音いしるぎ・みおねが二度目のシュアリングに挑む頃だ。

 京都市警の武藤警部補と高村刑事は、そのアパートを張り込んでいた。

「帰って来るんでしゃろか、やっこはん」

 高村は相棒の武藤に囁いた。

「まだ、尻に火ィついたことに気づかんさかい。そら、戻って来るやろな」

 武藤は缶コーヒーを飲み干しながら、アパートの二階の部屋を見つめて言った。

 その一時間ほど前、ふたりは西京極駅近くの雑居ビルにいた。30年近くは経っているだろうと思われる古い雑居ビルだ。

 中にはアニメスタジオやダンス教室。あやしげな占いの部屋などが間借りしている。

 目的のアイドル事務所もその一角にあった。「スターダスト・コンポレーション」というその事務所は、弱小のタレント事務所だ。タレント事務所とは言っても、テレビやラジオにタレント送り込む力があるわけでもない。商店街のイベントや大学の文化祭に、アイドルの卵を派遣するのがやっとといったところである。

 アイドル事務所というよりは、人材派遣事務所と表現したほうがいいかも知れない。

 それでも未来のアイドルを夢見る少女達は、そんな事務所にも一縷の望みを託しているのだろう。

 高村晋平刑事は事務所の中を見回した。

 そこは10畳ほどの狭い部屋で、三人の事務員が中央に向き合った机に向かっていた。扉の正面はブラインドの降りた窓で、その横の壁には数脚のロッカーといくつかのキャビネットが並んでいる。その向かいの壁にはガラス戸のはまった書庫が3つ程置かれており、残りの開いたスペースには一面華やかな所属タレントのポスターが貼られている。

 あの子の写真もあるのかな。と思って目で追うが、若い女の子はどれも同じ顔に見えてすぐには見つけられない。

「どちら様ですやろか?」

 只ならない雰囲気を察したのか、古参と見える中年の事務員が立ち上がった。

「こういうもんや。少し話を訊きたい」

 武藤刑事は手帳を見せて言った。

「ここに若林花葉わかばやし・かずはというアイドルが居るやろ」

「はあ?」

「今、どないなっとるか知っとるか?」

 なるほどというように、古参の事務員は頷いた。

「あの子、なんかやらかしましたか、刑事はん。いやね、うちとしてもホトホト困ってますんや。最近の若い子は我慢がきかんよって、あの子もここ二週間ばかり連絡が付きまへん。どこで何をしてはるんか」

「寝とるよ」

「なんでんねん?」

 耳を疑った。

「だから、眠ったまま目覚めん。もう一週間もや」

「一週間もって、そなアホな」

「心当たりはないんか?」

「そない言われたかて・・・」

「なあ、何も知らんと思うてんと違うやろな?」

 武藤は声を潜めた。さすがにそういう声になると迫力が増す。

「お前さんとこの事務所、業界ではええ噂を聴かへんで。アイドル事務所の陰に隠れて、結構えげつないこともしとるようやないか」

「勘弁して下さいよ、旦那。今、所長は留守なんですよ。変に嗅ぎ回られても迷惑なんどすねん」

 そう言って、机の引き出しから一枚の名刺を取り出した。

「若林のことなら、担当マネージャーの内村に任せてありますよって、そちらに当たって下さい。今日は非番ですよって、家に居るはずでんねん」

 それでふたりは、内村の自宅を張ることになったのだ。


 近所で聞き込みをすると、内村は休日のこの時間は必ずパチンコに行くという。そろそろ帰る時間だというので、アパート前で待つことにしたのだ。

 高村は近くのコンビニで菓子パンと缶コーヒーを買ってきた。

「先程言ってた、叩けばホコリみたいなことはなんでんねん?」

 高村はじっとアパートを注視している先輩刑事に訊いた。

「あの事務所には色々問題があってな、売れないタレントには相当な仕打ちをするそうや。中には騙されてAV業界に売られることもあるいう話やねん」

「ひどいでんな、タレントいうたかて未成年やないですか」

 武藤は頷いた。

「まあ、そうやな。生活保全課が動いているから、じき挙げられるやろ。いずれにしても、それはわしらの仕事やない。わしらの仕事は内村を確保することや。・・・おい、来たで」

 見ると咥えタバコの男が、カートンの入ったコンビニ袋をぶら下げて、歩いて来る所であった。

 内村である。

「行くで」

 ふたりの刑事は物陰から抜けて男に近づいた。

「内村さんですね」

「なんや、あんたら」

 内村は咥えタバコを吐き出して逃げる姿勢を取った。

「少し聴きたい・・・」

 ・・・ことがあるんや。の半分も言わないうちに、脱兎のごとく逃げ出した。

「野郎、逃げおったで!」

 武藤が叫んだ。それに呼応して高村が駆け出す。

 内村は人混みを掛き分け、自転車を蹴飛ばして疾走した。高村は必死でその後を追う。

 刑事ドラマなら、軽快なミュージックが流れている場面だ。

 表通りに飛び出すと、勢い余って車道に大きくはみ出す。危うく衝突しそうになった軽トラがけたたましいクラクションを鳴らした。

「待てえ、内村。待たんかい」

 高村が声を張り上げる。

「アホウ。待てと言われて待てるかい」

 こんな場面でもツッコミを忘れないのは関西人らしい。

 後ろを振り返って中指を立てた内村の面前に、いつの間にか武藤が回り込んでいた。素早く先回りしたらしい。

 ふたりの身体がすれ違う瞬間、内村の体が宙に舞った。

 彼には何が起きたか理解できなかったろう。気づいた時には内村の身体はアスファルトの地面に貼り付けられていた。

「見事なもんでんな。それが合気道ちゅうもんですか」

 ようやく追いついた高村は、息を切らせながら言った。

 武藤はそれに答えずに内村を起こした。

「おい、なんで逃げたんや」

「あんたらが追ってきたからやさかい」

「それだけやあるまい。何や後ろめたいことがあるからやないか」

 ふん。というように横を向く。

「まあ、ええ。ゆっくり話を聴かせてもらうさかい」

「話? 何の話や」

「若林花葉。知っちょるやろ?」

「若林・・・」

 内村の顔色が変わった。

「知らん。わしゃ、何も知らんで」

「だから署でゆっくり聴かせてもらう言うとるんや」

 武藤は高村が回して来た車に、内村の身体を押し込みながら言った。

「待て、待たんかい。言うから、みんな言うさかい。許してくれへんね」

 内村は最後まで見苦しく抵抗していた。



「全てお話します」

 と、彼は言った。

 高峰伸行。若林花葉に対するストーカー行為の疑いで拘留されている大学生である。

 中原警察署の取り調べ室だ。夕日が鉄格子の影を色濃く落としている。

 殺風景な部屋だ。

 部屋の中には参考人と向き合う小さなテーブルの他には、部屋の隅に置かれたパソコンデスクの他には何もない。パソコンデスクの前には、婦人警官のオペレーターが座っている。取り調べの記録を取るためだが、昔のように速記をする必要はない。取り調べディスクに仕掛けられた小型マイクとPCが、ふたりの会話を即座にテキストファィルに返還してくれるからだ。彼女の役目は、それが正しく変換されているかのチェックをするだけだ。

 同じくTVドラマに出てくるようなマジックミラーの覗き窓も、現在ではもはや存在しない。代わりに監視カメラが、取り調べの様子を逐一記録している。法律が変わり、取り調べの状況はすべて記録されることになったのだ。

 高峰伸行に向き合っているのは京都市警の佐々和義警部補49歳。ベテランと言われる部類刑事である。その隣にひっそり佇むのは中原署の若い伊藤刑事である。

「若林花葉に対するストーカー行為を認めるちゅうのかね」

「いえ、僕はやっていません」

「嘘をついてはいかんな。任意同行を認めた時、君は容疑を認めたはずやが」

「申し訳ありません。あの時は気が動転しとりました」

「彼女の父親からは、君に対する被害届が出されていたと思うが」

「それはお父さんの勘違いです。僕たちは・・・」

 高峰はそこで少し言い淀んだ。

「僕たちは?」

「・・・付き合うていました」

「ほう」

「嘘をつくんやないぞ」

 若い中原署の刑事が叫んだ。

「嘘やありません。僕たちは付き合うていたんです」

「付き合うていたからというて、ストーカーにならんとは限らへん」

「まあまあ」 

 若い刑事の勇み足を、佐々和義警部補が手をあげていなした。

「詳しく聞こうじゃないか。君たちはいつ頃から付き合いだしたんや?」

「彼女の家庭教師を務めるようになって4ヶ月くらい経った頃でしょうか、少し成績が上がったので彼女がえらい喜びましてね、褒美がほしい言いますねんで一緒にUSJに行ったのが最初です。その後内緒で付き合うようになりましたが3ヶ月目に彼女のお父さんにバレまして、それで家庭教師をクビになったんです」

「するとお父さんの言うような強制的な行為は?」

「誤解です。僕たちは純粋に愛し合っていたのです」

「彼女が妊娠していることは知っているね?」

「はい。申し訳ありません」

「君の子供だというのかね?」

「はい。間違いない思います」

「ふむ」

 佐々さん、こいつ嘘を付いていますよ。と、耳元に囁く伊藤刑事に言を無視して言葉を続けた。

「いずれにしても彼女は未成年やからな、淫行罪は免れんぞ」

「はい。覚悟しています」

 高峰は頭を下げた。

「君の言うことがほんまなら、他にストーカーがおることになるが、心当たりはあるんか?」

「それが・・・」

 高峰は言いにくそうに言い淀んだ。

「大石晃一。事件当夜、僕と一緒に居った友達です」

「彼か?」

「彼とは大学のサークルが一緒で、仲のいい友達なんですが、少しロリコン気味のところがあって、僕と一緒にいた花葉を気に入ったらしくストーカー行為に及んだと言ってました。僕らが付き合っていたことは知らなかったそうです。彼女からの相談を受けて、僕が諌めるように話をしたんです。それが事件の当日のことでした。少し言い争いになって、それは店の人も見ています」

「嘘をつくな。彼女の家の庭にあった靴跡はお前の物やったぞ」

 伊藤刑事が食い下がった。

「彼と一緒だったというサークルはバスケットボールのサークルで、揃いのバスケットシューズを使っているのです。彼とは靴のサイズも一緒なので間違えたのやないですか」

「間違えるか、そんなもん!」

「まあまあ」

 すっかり熱くなっている伊藤刑事を、ベテランの佐々警部補はなだめながら、

「彼女がアイドル事務所にスカウトされたのは、君と付き合う前かね、後かね?」

「後でした。アイドルは恋愛禁止やいうて、ひどく悩んでおりました」

「君はそれで納得したのかね?」

「はい。アイドルは彼女の夢やから、仕方ない思いました」

「あのアイドル事務所、スターダスト・コンポレーションいうんかい、その実情を知っておるのかい?」

「はい、彼女から聞かされました。内村とかいうマネージャーの男に、色々と理不尽な要求をされていると泣いていました」

 高峰は悔しそうに吐き捨てた。

 そんな高峰の表情を、佐々はじっと見つめていた。

「理不尽な要求とは?」

「とても口には出せないようなことです。勿論彼女は拒否した言うてます」

「そんなに嫌なら、辞めればええのに。そうは思はへんか?」

「お母さんが辞めさせてくれへん言うてました。あの家族は異常ですねん」

「異常?」

「はい。お母さんの涼子さんは、若い頃にはアイドルを目指して挫折したことがあったそうです。その夢を娘に託しているようで、花葉以上に熱心でした。母親のやることはキツ過ぎると、まあ引いた状態だったようでした。僕たちの関係を父親に話したのも彼女で、父親が僕をストーカー扱いしたのは、僕に対する嫉妬からやないかと思うてます」

「父親も異常いうのかな」

「そうですね。彼女の父親は父親は実の父ではなく、本当のお父さんと離婚してから母親と結婚した、いわいる義理の父親なんですが、その彼女を見る目つきが気になるんです」

「と、いうと?」

「時々娘をみる目やのうて、なんや女を見る目をすることがあるのです」

「ふむ」

「さっきも言いましたが、花葉の母親は若い頃アイドルを志したことがあったそうで、それなりに綺麗な人なんですが、付き合っている自分が言うのもなんですが、花葉はそれに輪をかけた美人なんで、父親いうても義理の父である若林さんは、良からぬ劣情を抱たんやないでしょうか。前に父親が僕をストーカー扱いしたのは、僕に対する嫉妬からや言うたのはそういうことですねん」

「弟の蒼太君はどうかな?」

「蒼太君は、父親の連れ子で花葉とは血の継がりはありません。しかしふたりは非常に仲が良く、また僕ともよく気が合って色々悩みを話してくれました」

「どんな悩みなのかね?」

「主に父親と母親のことです。最近は花葉のアイドル活動を巡って、ふたりの間に喧嘩が絶えないそうです。父親はアイドル活動を辞めさせたいらしいのですが、母親があの様子やから日々口論が絶えなかったんやないですか」

 そして、改めて刑事の前に頭を下げた。

「刑事さん。どうか彼女の家族を殺した犯人を捕まえて下さい。あんな家族でも、彼女に取ってはかけがえのない家族なんです。それを目の前で殺されて彼女がどんな思いだったのか、思うだけで胸が苦しゅうなるんです。彼女のためにも一日でも早く、犯人を捕まえて下さい。お願いします」

 そう言って高峰は泣き伏すのであった。



 捜査本部が置かれていた、所轄の中原警察署では翌日の午後に捜査会議が行われていた。「若林家一家殺害事件」通称「眠り姫」事件の捜査会議である。

 壇上に座っているのは捜査本部長の京都市警大滝管理官。警視正である。

 その隣には中原署の中西所長と新崎警視が並んで、部下たちの報告を聞いている。手帳を開いて捜査状況を説明しているのは、京都市警の佐々刑事である。彼らの班はストーカーの高峰伸行の捜査を担当している。

「・・・と、いうことで、高峰は自らのストーカー疑惑を否認しています」

「しかし最初は認めていたのだろう」

 中西署長が聞きただした。

「はい。途中から証言を翻しました。高峰が言うにはストーカーは彼の大学の友人で、高峰は若林花葉に頼まれてその友人の説得にあたっていたそうです」

「友人ねえ」

「はい、大石晃一。高峰の大学の同級生で、事件当日一緒に酒を飲んでいたのも彼だったそうです。酒を酌み交わしながらストーカー行為を改めるよう説得していたそうですねん。普段はかなり仲がいいようです」

「しかし、花葉の親は高峰の仕業と思って被害届を出したんだろう?」

「そうです。まあ、結果的には間違いやったんやが、ふたりは密かに付き合っていたらしいです。それが親にバレて高峰は家庭教師をクビになったちゅうことですねん」

「なるほどな、それでその後生じたストーカー事件と関連付けて、高峰の仕業と決めつけたという訳か」

「高峰はそう説明しています」

「だが、一度は認めている」

 大滝本部長は納得しかねるようだ。

「友人を庇ったと言うてます。彼女があないなことになって混乱していたんでしょう。よく考えれば事件当日のアリバイはあるわけですから、別に庇う必要もないわけですからね」

「その友人、大石晃一だったか。彼はなんでストーカーなんかになったんだ」

「若林花葉は高峰の彼女ですから、よく三人で遊びに出掛けたというのです。当時、大石はふたりが付き合っていたことを知らなかったので、こっそり彼女に言い寄った事があったそうです。それで断られてストーカーになった。若林花葉は人目を引く美少女ですから、彼以外にも過去にストーカー被害を受けたこともあったそうです」

「裏は取ってあるのか?」

「はい。大石は認めています。事件の前日彼女の家に忍び込んだのも彼で、父親に見つかりそうになって慌てて逃げ出したと言うてました」

「庭の靴あとは高峰のものではなかったのか?」

「同じスニーカーを大石も持っています。学校ではふたりともバスケの同好会に属してまして、揃いのバッシューを持っているそうです」

「いずれにしてもアリバイは成立するわけだが、・・・ふたりが共謀したという可能性はないか」

「ふたり以外にも複数の目撃者はおるよって、それはないでしょう。それより若林花葉は妊娠しているようですが、そのお腹の子供は自分の子だと高峰伸行は主張しています」

「なるほど」

「しかし、その事実を認めるには少々問題があります。と、いうのは・・・」

「なにか問題があるようだね」

 新崎警視が口を開いた。

「そこから先は、私が説明いたします」

 そう言って立ち上がったのは、武藤警部補であった。

「京都市警の武藤です」

「君は確か芸能事務所スターダスト・コンポレーションの担当ではなかったかね」

 大滝が資料を見ながら言った。

「はい。事務所を中心に内部を洗いましたが、ええ噂は聞かれまへん。表向きはアイドル事務所ですが、そうして集めた未成年者をこっそりAV業界に流している噂もあります。その辺りは生活保全課ほうが探りを入れているようです」

「すると若林も?」

「いえ、全てがそうとは限らないのでしょう。見込みのある少女にはちゃんとアイドル活動をさせているようです。事務所としても当たればアイドルの方が、実入りがいいことは承知してますよって」

「つまり若林花葉は見込みがあった、と」

「はい。大手芸能プロダクションのアイドルグループに、参加することが決まっておったそうです。とはいうても容姿がええだけでは、今日びなかなか売り出すねんは難しいですよって、まあ色々と手は尽くしとるようですな」

「どういうことかな?」

「いわいる枕営業ちゅうことです」

「なるほど、それでか」

「はい。若林花葉のマネージャーという男にあたりましたが、彼女を言いくるめてそういう行為をさせたと証言しました。このマネージャー、名を内村いうんですが、彼女とはスカウトした当初からそういう関係にあったそうです。彼の常套手段みたいやったそうで、強引にでも肉体関係をもってしまえば、あとは言いなりやいうて」

「つまり若林花葉は、複数の男性と肉体関係にあったということか」

 新崎は苦い顔をして言った。

 16歳の少女が・・・、信じられないという表情だ。

「その事をご両親は知っていたのか?」

 大滝本部長が言った。同じ年頃の娘を持つ父親としては、いたたまれない気持ちなのであろう。

「少なくとも母親のほうは知っていたようですな」

 そう答えたのは中原署の初老の刑事であった。

「中原署の前島いいます。うちの班は若林家の交友関係をあたっています」

「報告したまえ」

「若林花葉の母親はいわいるステージママで、本人以上に彼女の芸能活動については積極的です。若い時はアイドル志願だったようで、自分の叶わなかった夢を娘に託したいという、まあ世間でよくある話ですが」

「それ自体は別に珍しい話ではないな」

「そうなんですが、母親の場合は思い入れが強すぎるというか少し異常で、どんな手段を使ってもという感じで、その積極性には事務所のほうが驚くほどだそうです」

「その話は、わたしも訊いています」

 武藤が口を挟んだ。

「内村の話では例の枕営業の件でも、マネージャーの内村よりも母親の方が乗り気で、というかそれを最初に提案したのが彼女だったそうです。その大手のアイドルグループに、どうしても参加させたかったようですな。娘の方はかなり抵抗したらしいんですが、結局母親に説得された形だったそうです」

「それは少しやりすぎだな。普通は止めさせる立場だろう」

「娘もそのことでは悩んでいるようで、学校の先生にも相談しています」

「その行為についてもか?」

「いえ、さすがにそこまでは話してないと思いますが、母親の要求があまりに過激すぎると、そのような相談を受けた言うてました」

「高峰からもそないな話は聴かれました」

 口を挟んだのは京都市警の佐々警部補である。

「彼女自身もアイドル活動自体には否定的ではないのですが、母親のやることがキツ過ぎると、まあ引いた状態だったようです」

「父親のほうはどうだったのだろう」

 そう聴いたのは新崎警視であった。

「若林慎太郎は花葉の実の父親ではなく、実父が離婚した後に母親の涼子と再婚したいわいる義理の父親だそうで、花葉のことは父というよりは男の目線で見ていたそうです」

 佐々が言った。

「高峰伸行の証言によるとですがね」

「担任も同様な相談を受けたと言っています。なんや家庭内でもセクハラ紛いな行為が行われていたと」

 中原署の飯田刑事も声を揃えた。

「いろいろと問題の多い家族のようだな。で、弟の蒼太はどうなんだ」

「姉弟の仲は良かったようで、蒼太君はお姉さんの相談というか、愚痴の聞き役みたいなところもあったようです。彼は年の割にしっかりした所があったようで」

「確か中学生だったな」

「はい。中学2年になります。アイドルの姉は彼の自慢でもあったようです。ただ、最近はそのアイドル活動を巡って両親の仲が悪くなっているのを憂いているようでした。学校の友達にも何度かその話をしています」

「母親のほうはアイドル活動に積極的だったのだろう?」

「はい。ただ父親の方は反対だったようで、毎日のように言い争いになっているようです」

「まあ、父親の気持ちも分からなくはないな」

「普通の父親ならそうですねんが、慎太郎の場合はある意味嫉妬のような気持ちで反対しとるようです。何や彼女を独り占めにしたいみたいな」

「花葉と蒼太は異母姉弟なんだろう?」

「そうです」

「ふむ」

 大滝管本部長は唸った。どうにも気分の悪い事件だ。

 事件の背景はある程度わかったが、肝心の犯人像がまるで浮かんで来ない。

「若林花葉の証言は、まだ取れそうにもないか?」

「目覚めの兆候は現れています。明日3度目のアタックをかける予定です。恐らくそれで、彼女は目覚めるでしょう」

 新崎警視は力強くそう言い切った。



「きやああああ」

 絶叫を上げて石動美音は飛び起きた。

 額に貼り付けた脳波計の電極が弾け飛ぶ。全身を只ならない量の冷や汗が濡らしている。早鐘のように高鳴る胸を抑えて、彼女は大きく喘いでいた。

「大丈夫ですか? 美音さん」

 部屋の扉が開いて数人の男達が飛び込んできた。先頭にいるのは高村刑事だった。

「大丈夫です」

 立ち上がろうとしたところ、眩暈に襲われフラリと倒れ込んだ。その身体をがっしりとした高村の腕が支えた。

「済みません」

 部屋の中には、隣室に詰めていた全ての人たちが集まっていた。高村刑事をはじめ、新崎警視、武藤警部補、石嶺医師。そして・・・再びベットに腰を下ろした美音の瞳は、最後に悠然と姿を現した摩生恭助まもう・きょうすけに向けられていた。

「先生、御無事でしたか」

「無事? 何の事かね」

「いえ、こちらのことです」

 美音はクスリと笑った。そうかあれは私のイメージ。でも、本物よりあちらのほうがちょっと格好いい。 

「まあ、思ったより元気で安心した。で、何が見えたね?」

「夢が、夢の世界が瓦解しました。彼女はもうすぐ目覚めます」

 そう言って美音は傍らに眠る花葉を見詰めた。

 彼女は変わらず安らかな寝息をたてている。

「わかった。シャワーを浴びたまえ。10分後に検証をはじめる」

 そう言うと摩生は相変わらずの表情で部屋を後にした。


「目覚めるということは、工藤が事件の謎を解いたということになるのか?」

 美音が席に着くなり摩生は切り出した。

 シャワーを浴びた直後のせいか美音の頬は微かに染まっている。

「はい。そうです」

 武藤と高村は顔を見合わせた。先日の実験に参加していないふたりには、彼らの言葉が理解できない。

 事件の謎? しかし所詮は夢の中の話ではないか。それが解けたとして、どれ程の事があるというのだろう。

「事件とは若林花葉の夢の中での殺人だな。それが解けた時、彼女が目覚めるという」

 新崎警視が念を押した。

「あくまで可能性の話だ。で、犯人は誰だったのだ?」

「淀村彩美。彩美ちゃんです」

 美音の言葉に一同息を飲んだ。

「それはない。6歳の子供ですよ」

 高村が呆れて言った。摩生はそんな彼をジロリと見やって、

「前にも言ったが、夢の中の登場人物に年齢性別は関係ない。問題はそれが現実社会の誰をイメージしているかだ」

「彩美ちゃんのイメージが、一家惨殺事件の犯人ということですか?」

「そうかも知れないし、そうではないかも知れない」

「彼女は犯人を見たのだろう。だったら夢の中の犯人も現実の犯人と同じなのが当然なんじゃないか」

 新崎は食い下がった。

「もちろんその可能性が一番高い。しかしそうではないと言い切ることも出来ない。そもそも彼女が犯人の顔を見ているとは限らないのだ」

「しかし・・・」

 新崎は言い淀んだ。そこまで言われては返す言葉がないのだ。

「夢の中で工藤元刑事はどのような結論に達したのだ?」

「はい」

 そこで美音は工藤の推理を話して聞かせた。

「なるほど、実に理路整然としている。彼女は実に理論的な性格のようだ」

「夢の中なんやから、なんでもありとちゃいますか」

 高村が口を挟んだ。

「そうではない。馬鹿者が見る夢はやはり馬鹿な夢だ。夢というのは覚醒時の情報の整理のことだ。何を記憶として残し何を削除するか、夢を見る者のセンスに掛かっている」

「はいはい。どうせ私は馬鹿な夢しか見まへんから」

 いじけた高村に美音は吹き出した。そんな彼女に摩生は再び向き直った。

「夢の中で工藤は彩美の正体について何か言ってなかったのか?」

「いえ、事件の謎を解くと彼は消えてしまいましたから。事件の謎を解くのが自分の役目だと言って」

「役目が済んだから消えたのか」

「はい。ただその後に摩生先生、先生のイメージが現れました」

「枕封じ、か」

「はい」

「何だ。その「枕封じ」というのは?」

 新崎が訊いた。

「不動明心法の技のひとつだ。敵に術を掛けられた時、それを打ち破る暗示を予め仕掛けておく、いわいる後催眠の一種だな」

「不動明心法?」

 何も知らない高村は首を捻った。武藤がそれに耳打ちをする。

「石動家に代々伝わる呪法のことや。石動家が石動家たる所以のことや」

「呪法って、現在の世の中にでっか?」

「呪法でまずければ催眠術の一種といってもええ。摩生先生は心理学的観点から心法を研究しとるんや」

 武藤の言葉に摩生は頷いた。

「いざという時の保険が僕とはね。で、君のイメージの中で僕は何て言ったのだ」

「淀村彩美は、高峰伸行だと」

「なるほど。それが君の意見という訳か」

 3度目のシュアリングをする前に、美音らは昨日の捜査会議のやり取りを聴かされていた。その中で特に印象に残ったのは、これまで花葉のストーカーだと思われていた高峰伸行が実は彼女の恋人であり、ストーカーから彼女を守ろうとしていた事実だった。

「多分私は無意識のうちに、高峰伸行が恋人である花葉さんを守ろうとしたのではないかと結論付けたのだと思います」

「それには多分に希望的観測が含まれているな」

「はい」

 美音は頷いた。

「で、肝心の花葉の反応はどうだった?」

「否定しました」

「否定とは言っても図星を指されての否定も有り得るが」

「いえ、あなたは間違っていると言ってましたから」

「つまり淀村彩美は高峰伸行ではないと」

「そうだな。高峰伸行には事件当日のアリバイがある」

 そう言ったのは新崎警視であった。

「ちなみに若林花葉のマネージャーの当夜のアリバイはどうかね? 事件の数日前に目撃されたという30代の男というのは、彼のことではないかと思うのだが」

 摩生は武藤刑事に尋ねた。

「ズバリでんな。連絡がとれんので様子を見に来た言うとりました。しかし私は別の理由があったと思っています」

「別の理由?」

「内村が花葉をスカウトした時、半ば強引に関係を結んだことを母親に知られたそうです」

「それは母親も相当怒ったろう」

「いえ、逆に脅迫された言うてました」

「脅迫?」

「きっちりアイドルにしないと告訴すると脅されたそうです。それで内村もえろう困っていたそうで」

「自業自得だろ。それにしても大した母親だな」

 摩生はあきれたように言った。

「そうでんな。母親としてはかなり異常のようですな」

「しかしそれは殺人の動機にはなりそうだな」

「いえ、内村にはアリバイがありました。最初は言い淀んでおったんですが、問い詰めたら当日は他のアイドル候補生とホテルに居たことを白状しました。全く懲りん男よって、いうても相手は未成年者なのですぐに生活保全課に引渡しましたが。まあ殺人罪で逮捕されるよりはましでしょう」

「最低ですね」

「なにを基準に最低と言ったかは解らんが、・・・」

「そのくだりは、以前にも聞いた」

 美音と摩生のやり取りに新崎がツッコミを入れた。

「他に気づいたことはないかね?」

 改めて美音に向き直る。

「そういえば、夢の中で花葉さんは彩美ちゃんを殺害しました。そして、それがすべて始まりだったと言いました」

「すべての始まり? 彼女はそう言ったのか?」

「はい。確かに」

 摩生は急に難しい顔をして黙り込んだ。

「他には?」

「君も知っているんだろう。そう言いました」

「それは桂木香夏子に言ったのか、それとも石動美音に言ったのか?」

「私だと思います。私のことを、君は何者なんだいと聞きましたから」

 摩生は再び考え込んだ。

「なるほど。そういうことか」

「何か解ったのか?」

 新崎が色めきたった。

「その前に武藤君、以前若林一家と蓼科との関連を調べてくれと依頼したことがあったが、覚えているかね」

「はい。5年前母親の涼子が慎太郎と再婚した当初、当時蓼科にあった慎太郎の別荘に一家で遊びに行ったことがあったようです。花葉はその旅行がとても楽しかったらしく、別荘の窓から見える女神湖がとても美しかったと、当時の日記にも記してます」

 武藤はメモ帳を見ながら言った。

「なるほど。その時の彼女の体験が、事件の舞台になったわけだな」

「それが事件と関係があるのか?」

「あるな。前に僕は花葉の心は明から闇へ、常に揺れ動いていると言ったことがあった」

「うむ。篠澤老人の失踪がそのスイッチだとか」

 新崎も頷く。

「正にその楽しい思い出が明の部分、蓼科の別荘なのだ。そして一転舞台は闇に変わる。つまりは家族の崩壊だ」

「と、言うことは?」

「僕らは間違えていたようだ。夢の中で死んだ文岳、宇津木、淀村の3人は彼女の一家ではない。彼女は家庭の崩壊を望んではいなかったのだ」

 そしてハッとしたようにモニターの中の画面を見詰めた。

「しまった。彼女が目覚めてしまった」

 珍しく摩生が動揺している。

 モニターの中に映っているのは、もぬけの殻になった花葉のベットであった。彼女は何時の間にか目覚め、そして何処かへ姿を消したのであった。

「いかん、急いで彼女を確保するのだ。僕の推理が正してれば、彼女は間違いなく」

 強い瞳で一同を見渡しながらこう言った。

「死を選ぶ」



 凍てつく夜風が騒いでいる。

 京都東警察病院西棟。屋上。更にその上、階段室の屋根の上だ。地上20mはある。

 若林花葉はその屋根の上に立って、夜風に髪をなびかせていた。屋上からは壁に架けれられた鉄製の梯子を使った。

「蒼太」

 流れ落ちるはずの涙は風に舞って散り散りになった。

 目が覚めたとき、彼女は見知らぬ部屋にいた。身体中にたくさんの電極を貼り付けられ、まるで実験体のようにベットに括り付けられていた。昔観たゾンビ映画のオープニングみたいだ。

 蒼太。

 目覚めた彼女が最初に思ったことはそれであった。

 蒼太に会わねばならない。

 彼女は起き上がった。

 ブチブチと音を立てて電極が剥がれ落ちていく。立ち上がった左の肘に痛みが走った。点滴が外れて血が滴った。

 蒼太に会わねばならない。

 扉を開けて外に出た。階段を捜す。

 上に上に。・・・

 蒼太に会うには出来るだけ上に行かねばならない。

 屋上に上がると、凍り付くような夜風が頬をなぶる。瞬き始めた街の明かりが涙を誘う。

 もっと上に。

 肘から流れる血に滑りながら梯子を登る。

「蒼太、もうじき行くからね」

 唇に微笑を浮かべたとき、その声が聴こえたのだ。

「そこまでだな。若林花葉君」

 下を見下ろすと悪魔が立っていた。

 細面の顔。短く揃えた髪。鋭い眼光。彼女はその顔を知っていた。

「摩生・・・恭助さん?」

「ほう」

 摩生は破顔した。

「非常に興味深い。君は僕の顔を認識しているのか。最も純粋な意味では、それは僕ではないがね」

 続いて数人の男たちが屋上に姿を現した。

「花葉君、辞めるんだ。すぐに降りなさい」

「命を無駄にするんじゃない」

「君はまだ若い。いくらでもやり直しは利く」

 男たちは口々に常識的なセリフを口にした。何を言っているのだろう。

 命を無駄にする? やり直しは利く?

 蒼太はもう死んだ。死んだ命は戻らない。やり直しなんか出来っこない。

 男たちの内の最も若い男が、屋根に上がる梯子に取り付いた。彼女は悲鳴をあげた。

「来ないで! 飛ぶわよ」

「ふん」

 男たちの中で只ひとり、一言も発せず興味深そうに事態を見守っていた悪魔が口を開いた。

「ひとつ確認したい。君が殺害したのは、若林蒼太ひとりだ。お父さんとお母さんは蒼太君が殺した。間違いはないね?」

「私が殺したも一緒よ」

「まるで違うな。君が両親を殺したとするなら、蒼太君を殺す動機がなくなる」

「先生」

 若い男が悲鳴をあげた。

「なんてことを言うんですか」

「僕はただ真実が知りたいだけだ。あの夜、君たちの家族に何が起こった?」

 花葉は天を仰いだ。

「知らない、何も知らない。私が蒼太を殺した。生きてはいられない」

 彼女の上体がゆらりと揺れた。バランスを崩して宙を泳いだ。

 一同は思わず目を塞いだ。

 奇跡が起きたのは、正にその直後だった。

「よしなさい」

 凛とした女性の声が響いた。優しさの中に力強い芯を秘めた声であった。何者にも逆らえないパワーを有した声であった。

「あなたはもう、動くことは出来ません」

 屋根の上から斜めの状態で落ちかかった花葉の身体は、不自然な形のままピタリと静止した。そのまま、ゆっくりゆっくり元に戻っていく。

 信じられない光景であった。

 振り向くと、最後尾に石動美音が立っていた。

「不動明心法」

 唖然とした表情で武藤刑事が呟いた。

「あれが、噂に聴く心法ちゅうやつでっか?」

 高村が訊いた。

「そうや。行動を支配する、石動家の呪法や」

「花葉さん」

 美音はやさしい声で呼びかけた。

「あなたは自ら死を選ぶことは出来ません。さあ、降りていらっしゃい」

 花葉はがっくりと膝をついた。

「香夏子? あなたは香夏子さんなの?」

「そうよ、私はあなたの味方。何も心配することはないわ」

 花葉は深いため息をつくと、ゆるゆると梯子を降りてきた。

 まるで人形のようなカクカクとした動きで降りてきた花葉は、美音の前に立つとふわりと意識を失った。その身体を石嶺医師がガッシリと支える。

「よくやった。石動君」

 摩生が肩を叩く。美音は頷いて、

「大丈夫でしょうか? 花葉さんは」

「意識を失っただけです。大丈夫です」

 脈を取りながら石嶺医師が応えた。

「取り敢えず下に運びましょう。手を貸して下さい」

 武藤と高村が手を貸して、3人掛りで花葉の身体を病室まで運んでいく。それを見送って、美音は摩生に話しかけた。

「本当でしょうか? 花葉さんが弟の蒼太君を殺害したというのは」

「本人がそう言っている。まあ、間違いはないだろう」

「何故そんなことを?」

「花葉君は弟がご両親を殺害するのを止めたかったのだろう。しかしそれは叶わなかった、だから彼を殺すしかなかったのだ」

「蒼太君は何故ご両親を殺害したのですか?」

「それはこれからの尋問に掛かっているな」

「お願いがあります」

 美音は摩生の目を見て言った。

「その役目を私にやらせてもらえませんか?」

「君に?」

「はい。ふたりきりで話がしたいのです」

「しかし、それは警察が決めることだぞ」

「お願いします」

 強い口調で美音は言った。こうなると梃子でも動かない性格を摩生は知っていた。

 やれやれという表情を摩生はした。

「解った。僕から話してみよう」

「有難うございます」

 美音は晴れ晴れとした表情で言った。



 石動美音は病室の窓から瞬く街の灯りを眺めていた。窓ガラスは鏡のように、ベットで眠る若林花葉の姿を夜の街に映している。

 部屋の中には他には誰もいない。花葉と美音のふたりきりだ。

 それは美音の望んだことであった。摩生恭助が美音の心情を汲んで、新崎警視に進言してくれたのである。他の皆は別室でモニターによる監視を続けているであろうことを美音は知っていた。

 窓ガラスの奥で花葉が寝返りを打つのが分かった。目を覚まそうとしているのだろう。

 美音は枕元に駆け寄ってその手を取った。冷たい、氷のような手であった。

「香夏子さん」

 花葉が薄ら目を開いた。美音はやさしい微笑を浮かべて頷いた。

「不思議ね。あなたは夢の中の人だと思っていたわ」

「そうよ。あなたと私は同じ夢を見ていたの」

「え?」

 花葉はベットの上に起き上がった。

「あなたは1週間も眠り続けていたのよ。私はあなたを救うために、あなたの夢に入ったの」

「私の夢に? そんな事が出来るん?」

「私は石動家の人間だから」

「石動家?」

 もちろん花葉にもその意味は判っている。

「お腹の中の赤ちゃん、大丈夫?」

 無意識にお腹を抑えている花葉を見ながら言った。

「あ、うん。まだ良く判らへん」

「高峰伸行さんの子供なのね。彼を愛していたの?」

「うん。彼は優しかった。私を守ってくれたんよ」

 花葉の瞳に薄ら涙が浮かんでいた。

「・・・話してくれるわね」

 花葉は小さく頷いた。

「私のお母さん私くらいの時、アイドルになりたかったの。せやから自然に私もアイドルを目指したんよ。お母さんが喜んでくれたから。それでも前は貧乏やったから大した活動は出来んかったけど、お金持ちのいまのお父さんと再婚して、お母さんのアイドル活動にも熱が入ってきたわ。それはもう、本人の私が驚くくらい」

 花葉は小さく笑った。

「お母さん、よほどあなたをアイドルにしたかったんだ」

「でもね、アイドルなんて簡単になれるもんやないわ。可愛い子は世の中に一杯いるし、私も小さい頃から何度もオーデションを受けてきたけど一回も受からへんかった。大学の受験が近づいて、私はアイドルを諦めた。高峰さんと出会うたのもその一因やけど、そんな折り今の事務所にスカウトされたんよ」

「スターダスト・コンポーレーションね」

「私よりお母さんの方が舞い上がった。これが最後のチャンスや、頑張りなさいと言ってくれた。私も最後のチャンスに賭けようと思った。でもね、世の中そんなに甘くはおへんのよね。大人達はお金のことしか考えない。夢を見るのもお金になるかどうか、ただそれだけや。気づいた時には遅すぎたわ」

「そうね、そうかも知れない」

「お父さんは最初から反対していたわ。だから家の中は始終言い争いが絶えへんかった。私も蒼太もそんな家が嫌でならんかった」

「弟さんとは仲が良かったの?」

「蒼太は私がアイドルをやってることが自慢だったらしいの。だから私も頑張り過ぎたところもあったのよね」

「お父さんはどうだったの?」

「お父さんは優しい人やった。でも、時折すごく怖い顔をすることがあったわ。あの日・・・」

 花葉はそこで口を閉ざした。これ以上話して良いものか迷っているようだ。

「あの日?」

 美音が重ねて訊いた。花葉は意を決したように再び口を開いた。

「あの日、お父さんにバレたの。私が大手のアイドルグループに参加するために男の人と寝たことに。お父さんは凄く怒ったわ。お前、何てことをしたんだって、お母さんを激しくなじった。あんただって何よ、自分の娘をいやらしい目で見て。売り言葉に買い言葉って言うの。ふたりが大喧嘩をしている声を聴いて、私はベットで震えていた。多分、隣で蒼太も同じ気持ちだったはずよ」

 もはや美音に返す言葉はない。ただ無言で頷いている。

「その夜、私がベットで眠っていると、突然お父さんがやって来た。父さんはひどく酔っているようやった。真っ赤な顔をして、俺はお前のことがずっと好きだったんやて、そう言ったの。他の男に取られるくらいなら俺がお前を抱いてやるって、私は悲鳴を上げたわ。そこへお母さんが鬼の形相で飛び込んで来て、もうあとは修羅場。私は頭から布団を被って震えていたから、後はどうなったかよくは知らない。気が付いた時、家の中は妙に静まり返っていた。私は恐る恐る両親の部屋へ向かったわ、そこで私が見たものは・・・」

 花葉は悲鳴をあげた。美音に背を向け震えだした。

「怖い、怖い、怖い」

「大丈夫」

 美音はその背に手を当てた。悪寒のような震えが掌を伝ってくる。

 彼女は目を閉じて、その震えに自分の波長を合わせた。やがて花葉の震えは静かに治まっていった。

「何も怖いことはないわ」

「あなたって不思議ね」

 花葉は驚いて美音の顔を見詰めた。

「心法って言うのよ」

「そう。これが石動家の呪法なん?」

「お陰で散々な目に会ってきたけどね。でも私、石動の家に生まれたことを恨んではいない。そのお陰で沢山の人達に出会うことが出来たし。あなただってそう。高峰さんだって居るし、これからも沢山の素晴らしい人達に出会うことが出来るの」

「そうね」

 花葉は自分のお腹を抑えて言った。

「何を見たの? あの部屋で」

「血で真っ赤やった」

 花葉は意を決したように言った。

「ラウンジで淀村教授が亡くなった時と同じね」

 美音は夢の中の光景を思い出していた。あれは現実の殺人を模したものだったのだ。

 花葉は頷いて、

「ベットの上は血の海で、その中にお父さんとお母さんが重なるように倒れていて・・・・、私はお母さんを抱き起こして、大声をあげて・・・。そしたら、そしたら、ねえ・・・」

「花葉さんもういいよ。もういいから」

「もうひとつの泣き声が聴こえたの。蒼太だった。私は蒼太は部屋に駆けつけた・・・」

 花葉は取り憑かれたように話を続けた。

「蒼太は血に染まった包丁を握って泣いていた。俺が俺がと、うわごとのように呟いていた。私には何が起こったのか、咄嗟には理解出来なかった。でも大変な事が起きたのやいうことは解った。大人は汚いと蒼太は泣きながら言ったわ。自分も大人になったら、いつかは親父のようにお姉ちゃんを襲ってしまうと、そない言うの。蒼太は自分の首に紐を巻いて、殺してくれと泣きながら頼むの。だから私は、だから私は・・・」

「花葉さん」

「みんなみんな、私のせいなの。私がいなければ、お父さんもお母さんも蒼太も、みんな不幸にならなくて済んだの。私がみんなを殺したのよ」

 花葉は美音の胸にわっと泣き崩れた。

「違うわ、花葉さん。あなたのせいじゃない」

 そしてその背を撫でながら、優しい声で子守唄のようにこう言った。

「お眠りなさい、花葉さん。今度はあなたは怖い夢を見ない。目が覚めた時、あなたはすべてを忘れている。苦しみも悲しみもすべてを心の奥底にしまって、新しい人生を生きていくのよ」

 気がつくと花葉は、安らかな顔をして眠りについていた。

「終わったな」

 振り向くと、何時の間にか摩生が後ろに立っていた。

「はい。終わりました。そしてここからまた始まるのです」

 美音は摩生を見上げて微笑んだ。



 京都タワーの見える高層ホテルの最上階、有名フランスレストランにふたりは居た。

 高村晋平と石動美音である。

 今日の美音は薄い紫のカシミヤのセーター、ボタニカル柄のスカートにブラウンのブーツ。ベージュのウィンターコートは隣の席の背もたれにあずけた。

 いつのもの白と黒一辺倒の出立ちとは段違いである。

「お洒落をしてしまいました」

 待ち合わせ場所に現れた美音は恥ずかしそうに言ったものだ。

 高村は緊張して、何度もナイフを床に落とした。

 その度に美音はクスクス笑って、

「だから無理せんでええのんに」

「いいや、いけまへん。美音さんにはここでのうてはあきまへんねん」

「そうかな。私は前のお店のほうが好きやけどな」

 はっとしたように高村は顔をあげる。

「はい?」

 小首をかしげる美音の表情が可愛らしい。

「もう一度いうて下さい」

「だから、前のほうが好き・・・って何言わせるんですか」

 美音は真っ赤になった。あわてて話題を変える。

「で、事件のほうはどうなりました?」

「美音さんのお陰で、花葉さんもすっかり落ち着いて、淡々と取り調べに応じています。お腹の中の子供も無事ですねん」

「その子供について高峰さんは何と言っています?」

「子供が生まれたら、自分が引き取って育てたいと。いずれは花葉さんと結婚したいと言うてました。もちろん、花葉さんが望めばの話なんやろけど」

「そうですか」

「まあ、良かったではないですか」

「そうですね・・・」

 何故か美音は浮かない顔をしている。

「で、結局、夢の中で殺された3人は誰の象徴だったんですやろ?」

「摩生先生の話では、最初の文岳さんはストーカーの大石さん。二人目の宇津木さんは、マネージャーの内村さん。そして最後の淀村教授はお父さんの慎太郎氏ということらしいです。花葉さんは自分を辱めた3人を、深層意識の元で殺したいほど憎んでいたのですわ」

「彩美ちゃんは若林蒼太君ですね」

「そうだと言ってました」

「蒼太君はなんで両親を殺したんやろ?」

「さあ、お姉さんを苦しめる両親に我慢ならなかったのでしょう。子供らしい正義感からやと思います。そこまで追い込まれてしまった彼は、本当に可愛そうだと思います」

「彼はお姉さんを異性として意識してたんやろか」

「私には判らしまへん。憧れの存在だったとは思いますけど」

 美音は窓の外の闇を見詰めた。

「ねえ、高村さん。高村さんはどう思います? 何で花葉さんは蒼太君を殺してしまったのか?」

 今度は美音が聞いた。高村は自分が試されているような気になって言葉に詰まった。

「さあ、僕にはわからへん」

「私ね、こう思うんです。花葉さんは結局、自分自身を消してしまいたかったんじゃないかって。すべてを自分自身の責任と思い込み、一緒に持って行ってしまいたかった。でも、蒼太君に先を越されてしまったんですね。だから花葉さんにとっては、蒼太君は自分自身も一緒だったんです。つまり彼女にとって蒼太君を殺すことは、自分自身を殺すことに他ならない」

「彼女は自殺をしたかったんですか?」

 美音は考え込みながら言った。

「自殺とは少し違うと思います。彼女は文字通り消え失せてしまいたかったんじゃないですか」

「ああ、それであのペンションでは、やたらと人が消えたんですね」

 美音は頷いた。

「消えてしまいたいと願う彼女の願望が、無意識のうちに夢の中に現れたのでしょうね」

「やっぱり、彩美ちゃんは花葉さん自身やったんですね」

「そう思います。彩美ちゃんのパジャマが血で汚れていたのがその証拠です」

「でも、香夏子さんの彼氏さんも花葉さんやったんでしょう。それっておかしくはないですか?」

「夢の中では同じ人物が名前を変えて、複数現れることも珍しくはないそうです。そもそもが花葉さんの夢ですからね、登場人物のすべてが花葉さんと言っても過言ではありません」

「あなた以外は、ですよね」

「そうですね」

「結局あなたの存在が彼女の夢を破壊して、彼女を目覚めさせたということですか?」

「摩生先生が仰るには、夢の整合性が失われたということになるそうです」

「彼女は彼女なりに自分の気持ちにケリをつけたのでしょうね」

「そうだと嬉しいです」

「悲しい事件でしたね」

「はい」

 美音は下を向いて呟いた。

「この事件の発端って、アイドル願望ではないですか。煌びやかな存在。人々から注目され、羨望の眼差しを受けながら生きていく。・・・そういう人生って、私よくわからないのです」

「うらやましいとは思わへんのですか?」

「まさか。私・・私たち一族は昔から人々に差別され、虐げられて生きてきました。なるべく目立たないようにそればかりを考えて、陰に隠れるようにして生きて来たのです。人々から注目されることがどれほど恐ろしいことか、私たちは骨の髄まで知っているのです」

「そうなんですか」

「だから、花葉さんやお母さんの気持ちが、私にはまるでわからしまへんのです」

「それはそれで悲しいことかも知れませんね」

「そうですわね」

 美音はクスリと笑った。

「え、何です?」

「いえね、私の弟の話なんですけど」

「弟さん、いらしたのですか?」

「弟いうか妹いうか」

「はい?」

「父と大喧嘩をして、家を飛び出して、今はたぶん東京です」

「はあ」

「弟は変わっているんです。石動の人間なのに妙に目立ちたがり屋で、こんな生活は嫌だ俺は東京に出てビックになるんやて。それで大喧嘩。思い出したら可笑しくって」

「それくらいの男子には普通の感覚ですよ」

「そうでよすね。私たちのほうが変わっているんです」

 そんなことはないですよ。そう言おうとしてやめにした。

 美音はうっとりと目を閉じて呟いた。

「ええですね。高村さんは」

「え?」

「暖かな音楽に包まれているような気がします」

「そんな、人をジュークボックスみたいに」

「あ、雪」

 美音は何気なく窓の外を眺めて、ハッとしたように目を輝かせた。

 しんしんと降り始めた今年初めての雪が、京都の夜空を白く染めていた。


                                        

                                             完

ありがとうございました。自分にとって初めての長編推理小説、ようやく完結しました。摩生恭助と石動美音の活躍する物語は、またいずれ続編として書きたいと思います。出来ればシリーズ化出来ればいいのですが。・・・物語の中に登場する「心法」は御門将介シリーズとして「星空文庫」のほうに発表してますので、良ければ「星空文庫 香月鐘二郎」で検索してください。では、また別の作品でお目に掛かりましょう。

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