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第5章 届かない叫び


 目を開いたとき高い天井が見えた。ホールのソファに寝かされていたのだ。

 頭が割れるように痛い。

「大丈夫か? 香夏子」

 ああ、そうか。それで自分の名前が桂木香夏子であることを知る。

 上から心配そうに覗き込んでいる男の人の顔。

「あなたは、誰?」

「何を言ってるんだ。俺だよ、俺」

 思い出せない。

「ごめん。記憶が混乱している」

「無理もありません。あれを見てしまったのですから」

 この人は工藤さん? 何故かそちらのほうは、すんなりと入って来る。

「淀村さんは、どうなりました?」

 少しずつ記憶が蘇りつつあった。

「残念ながら亡くなりました。済みません、私が付いていながら」

 工藤さんは頭を下げた。元刑事の自分がいながら、目の前で複数の殺人を許してしまった事を恥じているのだろう。

 私は身体を起こした。

「たくさん血が流れていましたが」

「凶器は厨房にあった包丁です。それでメッタ突きにされていました。死因は出血性のショック死でしょう」

「彩美ちゃんは? 彩美ちゃんはどうなりました?」

 突然、血だらけの彩美ちゃんの映像が蘇った。

「大丈夫です。彼女は傷ひとつ負ってはいません。いまは、オーナーの部屋で休んでいます。ただ、淀村婦人の取り乱し方のほうが激しくて、鵜ノ沢オーナーと奥さんが付いてくれてはいますが」

 そうだろうな、とぼんやり思う。夫が殺害され、その側に全身血だらけの娘が立っていたのだ、自分だって平静でいられるわけがない。

 その時閃光のように頭をかすめた事柄がある。

「犬が、黒い犬がいました」

「黒い犬?」

「はい。亡くなった淀村さんの側に立っていたのです。それで、その犬が何かを言って・・・、それで気を失ったのです」

「犬が何かを言った?」

「はい、何て言ったかは覚えていませんが。あれは犬ではないと思います。多分、犬の被り物をした人間です」

「桂木さん」

 工藤さんは真剣な顔で言った。

「今、大丈夫ですか? 出来れば少しお話をお聞きしたいのですが。もちろん精神的に無理というなら後でも結構なのですが」

「少し休んだほうがいいのではないか?」

 彼は反対したが、私は首を振った。

「いえ、大丈夫です。で、何を話せばいいのですか?」

「あなたが見たこと、聴いたことを全てです。出来れば時間列に沿って話していただければ有難い」

「はい。私は夜中に目が覚めました、多分午前3時くらいだと思います。そしたら、隣で寝ていたはずの彼、あなたの姿がなくて・・・あなた、どこに行っていたの?」

「それは違うよ。俺はどこにも行ってはいない。ずっとベットで眠っていた。君の悲鳴で目が覚めたんだ」

「そんなはずはないわ。確かにベットは空だった」

 私は激しく動揺した。そんなハズはない。ついつい語気も荒くなる。

「まあ、いいでしょう。それより話を進めましょう。それであなたは彼を捜して階下に降りたのですね?」

「はい。女の子の話し声が聴こえたので、多分彩美ちゃんだと思いました。こんな時間に何をしているんだろうと思って」

「話し声がした? 彼女は誰かと話をしていたのですか?」

「そうです。少しも怖がる様子はなく、むしろ楽しそうに笑っていました」

「その相手が、まさか?」

「そうです。あの黒い犬だったのです。そしてその足元には淀村さんが倒れていて、血がたくさん流れていて・・・」

 私は全身から血の気が失せる気がして、思わずフラリとよろめいた。その身体を彼氏が支えてくれた。

「大丈夫か? 少し休んだほうがいい」

「ううん、大丈夫。それであの黒い犬はどうしました?」

「私たちがあなたの叫び声を聴いて駆けつけた時には、その黒い犬は居ませんでした。庭に続くガラス戸が開いていたので、そこから外へ逃げたのでしょう。現場にいたのは、血だらけで事切れていた淀村教授と、気を失って倒れていたあなたと彩美ちゃんだけでした」

「あなたが駆けつけたとき、ガラス戸は開いていましたか?」

 工藤さんが訊いた。

「はい。カーテンが揺れていたので、ガラス戸は開いていたと思います」

「誰がガラス戸を開けたのですか?」

 彼氏が言った。工藤さんは難しい顔をした。

「もしかしたら、淀村さん自身かも知れません」

「まさか、自分が殺されるのにですか?」

「彼はそうは思わなかったのではないですか。それが意に反してあのような事になってしまった」

「普通、雨の夜に犬なんて入れませんよね。可愛いい子犬なら話は別ですが、人の背丈ほどもある大きな犬なんですよ」

「そうですね、私もそう思います」

「だったら・・・」

「何故彼が危険を冒してそれをしたのかは謎です。しかしガラス戸が空いていて、犬が中に入っていたというのは事実ですから」

 私はふと思い立ったことがあって聞いてみた。

「あのう、最初に駆けつけてくれたのは誰ですか?」

「俺が最初に駆けつけて、倒れている君たちを見付けたんだ。そのすぐ後に工藤さんがやってきて、オーナーの鵜ノ沢夫婦が駆けつけた。淀村さんの奥さんはぐっすり休んでいたらしく、半分寝ぼけながらやってきたが、倒れている夫と娘をみて急に取り乱し、オーナー夫妻が彩美ちゃんと自宅に連れて行った」

 彼氏がそう説明した。

「宇津木さんの奥さんはどうしました? 姿が見えないようですが」

 工藤さんと彼は顔を見合わせた。

「そういえば姿を見ていませんね。どうしたのでしょう?」

「あれだけの騒ぎに気づかないとも思えないが」

 私は急に不安になった。

「様子を見てきましょう」

 工藤さんと彼は慌ただしく階段を駆け上がって行った。

 役目が済んだから、消えたのだ。

 その言葉が頭の中に蘇る。

 なんだろう、これは。私はどこでこの言葉を耳にしたのだろう?

 そしてこれは、どういう意味なのだろう。



 2階の宇津木さんの部屋へ様子を見に行っていた、工藤さんと彼は暗い顔をして帰って来た。

「どうだった?」

 私はある予感に胸を震わせて聞いた。思った通り彼は首を振った。

「誰もいない。・・・消えてしまった」

「まだ、消えたとは限っていません。部屋に居なかったというだけで、建物内をすべて捜したわけではありません」

「そんなことを言っても、今までだって誰ひとり戻っては来なかったじゃないですか。みんな消えてしまうんだ」

 彼はパニックを起こして叫び出した。

「もう、たくさんだ。俺はいますぐ帰る」

「落ち着いて下さい。まだ、嵐は去ったわけではありません。今、山を降りることは出来ないんです」

 工藤さんは必死にパニックになった彼をなだめている。それを眺めながら、私はつい呟いてしまった。

「役目が済んだから、消えたんですね」

「えっ!?」

 彼と工藤さんの動きが停止した。

「いま、なんとおっしゃいました?」

「い、いえ。何でもないです」

 私は興奮の収まった彼の腕を取った。

「取り敢えずお部屋に帰りましょう。私の睡眠薬があるから、少し眠ったほうがいいわ。もうすぐ夜が明けるから、そうしたら山を降りましょう」

 彼を自分の部屋に送っていく私に、工藤さんは声をかけた。

「私は亡くなった淀村さんの遺体を見てきます。少し気になる事があるので。それから、落ち着いたら私の部屋に来てください。少しお話したいことがあります」

 最初は興奮気味だった彼も、精神安定剤を飲んだら少し落ち着いた。ガラス戸の外はまだ雨が降り続いている。もう午前5時近いというのに、依然夜は明ける気配を見せない。

 彼がウトウトし始めたので、そっと部屋を出る。

 工藤さんの部屋をノックすると、すぐにドアが開いた。

「すみません。ご足労いただいて」

「いえ、それよりどうでした?」

 工藤さんは首を振った。

「やはり、思った通りでした。淀村教授の遺体は跡形もなく消え失せていました」

「やっぱり」

「あなたもそう思っていたのですね。どうしてそう思ったのですか?」

「私の彼の言う通りこのペンションでは人が消えすぎます。篠澤夫妻と宇津木さんの奥さん。文岳さんと宇津木さん、そして今回は淀村さん。3人の人間と、3つの遺体が消え失せています。それも何処かへ姿をくらましたとか遺体を隠したとかではなく、文字通り消えてしまったという印象が強いのです」

「そうですね。それで、あなたはあんなことをおっしゃったのですか?」

「あんなこと?」

「役目が済んだから、消えたのだ。そんな風に言ったと記憶していますが」

 ああ・・

 そういえばつい口にしてしまった。

「あれは、どういう意味ですか?」

「別に意味などは・・・。ただ、そんな言葉が頭に浮かんだのです」

「頭に浮かんだ?」

「気のせいかも知れません。誰かが耳元でそう囁いた気がしたのです。でも周囲を見ると誰もいない。だから多分そら耳かと思うのです」

「それは何時のことですか?」

「宇津木さんが亡くなられた後です。みんなでラウンジに集まっていたときです。何の前触れもなく、そんな言葉が聴こえたんです」

「そうですか」

 工藤さんは考え込んだ。

「失礼ですが、あなたは時々妙なことをおっしゃる。人形がしゃべったとか、犬がしゃべったとか」

「はい。そんな気がしたんです。済みません」

「いえ、謝ることではありません。コーヒーでも飲みますか? 食事の後で煎れたので、少し冷めているかとは思いますが」

 そう言って、工藤さんは携帯ポットからコーヒーを入れてくれた。

 確かに少しぬるくはなっているが、やはり暖かい飲み物はホッとする。

「私なりに今回の事件について考えてみたのですが、文岳君の事件、宇津木先生の事件、そして今回の淀村教授の事件にはいくつかの共通点があると思うのです」

 落ち着いたところで、工藤さんは語りだした。

「まずはあなた方の言う黒い犬です。3つの事件の直前にこの犬が目撃されています。特に2つめと3つめの事件では、この黒い犬は現場に姿を現しています」

「はい」

「それと3つの事件ともにガラス戸が開けられていました。外は台風並の嵐ですからね、通常ならガラス戸なんか開けないでしょう」

「ということは、どういうことですか?」

「誰かを導き入れたんでしょう」

 工藤さんは考えながら言った。

「って誰をですか?」

「例えば黒い犬を、です」

「まさか」

 私は驚いて目を見張った。

「淀村さんの時は先程もお話したように、彼が部屋に入れたとしか思えません」

「それは聞きましたが」

「第2の事件では宇津木先生は、ベランダに居る黒い犬を目撃しています。その時にはまだガラス戸は閉まったままだったはずです。そのあと事件が起こって、彩美ちゃんが部屋の中に居る黒い犬を見たときにはガラス戸は開いていました。つまり宇津木先生ご自身がガラス戸を開いて、黒い犬を中に招き入れたことになります」

「信じられません。なんでそんな事を?」

「それは、わかりません」

 工藤さんは難しい顔をした。

「しかし、最初の文岳さんの時は違います。私が見たときには黒い犬は、遥か丘の上に居ました。第一文岳さんも私も、庭先で篠澤夫妻の部屋のガラス戸が開いているのを確認しているんです」

 私は当時を思い出して言った。工藤さんも頷いて、

「そうですね、私も現場に居ましたから、わかります。ですから、ガラス戸を開けたのは別の人間です。ところでもう一つの共通点ですが、化粧台の小さな椅子が殺害現場の近くに落ちていました」

「椅子がですか?」

「普段は化粧台の前にある小さな椅子です。それが現場近くに移動していたのです」

「3件ともですか?」

「はい。もっとも淀村教授のときは化粧台の椅子ではなく、彩美ちゃんが食事を摂るときに座る小さな椅子ですが」

 私は記憶を探った。

 そういえば最初の文岳さんの時には、確かにカーテンの下に小さな椅子が転がっていた。それを足台にして首を吊ったのではないかというのが、宇津木さんの意見だった。その他のことは良くわからない。

「もうひとつ気に掛かるのが懐中時計です」

「懐中時計?」

「あなたが宇津木先生の殺人現場で発見した、彼の懐中時計です」

「ああ、あの失くしたという」

 私は思い出していた。確か宇津木さんがラウンジで失くしたという懐中時計が、彼の殺人現場に落ちていたのだ。どうしてそんな場所に落ちていたのか、私もずっと不思議に思っていた。

「これらの事実を照合すると、ある恐るべき結論に行き着くのです」

 そして工藤元刑事は、驚くべき推理を披露するのであった。

 


 工藤さんは自分の腕時計を外すと床に置いた。

「ふと見ると失くしたと思っていた時計が、こんな風に床に落ちていたらあなたならどうしますか?」

「それは、・・・あらこんな所に落ちていたの、と思って拾います」

 私は床にしゃがみ込んで時計を拾った。

「そうやってしゃがんだ時に、頭の上に鉄瓶が落ちて来たらどうします?」

「あっ」

 私は思わず工藤さんの顔を見上げた。その時私には工藤さんのいう「恐ろしい結論」に、ぼんやりとながら想像が付いてしまったのだ。

「そう。我々は40キロもある凶器で人を殴り殺せる人間は、相当な力持ちでなければならないと無意識に思っていました。しかしこうして頭の上に落とすだけなら、例えば力の弱い少女でも可能です」

「しかし、そうは言っても届かなければ、落とすことも出来ません」

「そこで化粧台の椅子が登場するのです。あれに乗れば6歳の少女にも鉄瓶に手が届くでしょう」

「それでは懐中時計を置いたのも」

「おそらく彼女の仕業でしょう。ラウンジに置き忘れていた時計を隠したのもそうです。もっとも最初からそう考えてのことかどうかはわかりませんが」

 私は呆然となった。

「まさか、彩美ちゃんが。・・・信じられない」

「そう考えてみると、最初の文岳君の事件の時、篠澤夫妻の部屋のガラス戸を開けられたのは、彼女と彼女のお母さんしかいないのです」

「しかし彼女の力で、大人の文岳さんの首を絞められるとは思いません」

「多分カーテンを凶器に使ったのでしょう。カーテンの片方はカーテンレールに固定されていますから、単純に半分の力で絞めることができます。彼女は化粧台の椅子に乗って、ガラス戸の外を見つめている文岳さんの首にカーテンの片方を巻き付けます。そして椅子から飛び降りれば、彼女の体重の倍の力で首を絞めることが出来るのです。彼女の体重を20キロと仮定すれば、約40キロの力です。これなら十分絞め殺すことは可能でしょう」

「それでは第3の事件も?」

「凶器の包丁は厨房にあります。第1第2の事件よりも方法としてはイージーでしょう」

「そういうことを言っているんじゃありません」

 思わず大きな声がでた。

「第3の事件の被害者は、彼女のお父さんなんですよ。そうではなくとも何で6歳の女の子が、初対面の大人をふたりも、そして自分の父親まで殺さなければならないのですか?」

 工藤さんはその表情に苦悩の色を浮かべた。

「あなたのおっしゃる通りです。私だってこんな結論は信じられない。皆さんの言う通り、例の黒い犬の覆面を被った人間がこっそりペンションに忍び込み、3人を殺害したと結論づけるのが最も簡単です。しかしそれでは辻褄の合わないこともある」

 私は頷くしかなかった。

「最初の事件、あなたが犬の人物を目撃した時、その人物は遥か丘の彼方に居ました。その直後発生した事件に、あの犬の人物が間に合ったとは思えません。また第2第3の事件では、被害者がわざわざ犬の人物を部屋に招き入れていますが、なんでそんな事をしたのか理由がわかりません」

「しかし、だとしたらあの犬の被り物をした人間はなんだというのです? それに消えた3つの遺体や篠澤夫婦、宇津木さんの奥さんはどうして失踪したのでしょう? あれも彩美ちゃんの仕業とおっしゃるのですか?」

「そう。問題はそこです」

 工藤さんは力強く言った。

「3つの殺人と時を同じくして起こった3つの行方不明事件、そして遺体消失事件。これだけはどう考えても解りませんでした。失踪したというより文字通り消え失せてしまったとしか言い様がないのです。私の長い刑事時代を振り返っても、これほど完璧な失踪はありませんでした。しかし何となくモヤモヤしたものが残るのも事実でした。真相が目の前に見えているのに、それがハッキリとはしない。そんなもどかしい思いです。そんな私に天啓を与えてくれたのが、あなたの何気ない一言でした」

「わたし? 私、何か言いました?」

 私は首を捻った。心当たりはない。

「ほら、言ったじゃないですか。役目が済んだから、消えたのですねって」

「ああ、でもあれは・・・」

「そうです。そうなんですよ。彼らは役目が済んだから消えたのです。行方不明になったとか、どこかに隠されたとかいうのではなく、文字通り消えて無くなってしまったんです」

「工藤さん」

 工藤さんは何かに取り憑かれたように喋っている。あのどんな事態に陥っても常に冷静沈着な工藤さんが。私は少し怖くなった。

「篠澤夫婦の役目は電気のブレーカーを落とすことでした。それが済んだから消えたのです。消えた3人は殺されることが役目でした。宇津木婦人の役目は何だったのかは解りませんが、いずれにしてもそれが済んだから消えたのでしょう」

「工藤さん。大丈夫ですか?」

私は驚いて工藤さんの顔を見詰めた。こんなにも取り乱した工藤さんは初めてだ。

 工藤さんはふうっとひとつ大きな息を吐いた。

「大丈夫です。自分がどれほど荒唐無稽な事を言っているかはよく判っていますから」

 そして工藤さんは私の顔を見つめながら、まるで怪談噺でもするかのように声を潜めた。

「桂木さん。実は誰にも言ってはいないのですが、私は警察を呼びに麓の街に降りる時に、とんでもないものを見たのです。いや、正確には見なかったといったほうがいい」

「何のことです?」

 背筋に冷たいものが走った。

「私は車で女神湖の湖畔の街に向かって山を降りていました。私はペンションのオーナーとは昔からの知り合いだったので、このペンションには何度も来ています。今日のように嵐の夜に山を降りたこともあります。でも、それにしても湖畔の灯りは何時も見えていました。山沿いの道を走る車の灯りもです。しかし今日、いや正確には昨夜だけはいくら走っても一向にそれらしい灯りは見えて来なかったのです」

「・・・」

「私は次第にとんでもなく恐ろしい考えに支配されるようになりました。女神湖の湖畔の街は消えて無くなってしまったのではないか。いや、湖畔の街だけではなく、この世界が私たちのこのペンション以外すべて無くなってしまったのではないか。いや、そうではない。最初からなかったんじゃないかとそんな風に思えてならなかったのです」

「工藤さん、それは思い過ごしです。世界は無くなりはしません」

「そして、あの橋の所。流された橋のところで私は見たのです。いや、見なかったのです。何故なら何もなかったからです。川の向こうは木も岩も草も何もなく、ただただ永遠に続く暗闇だけが広がっていたのです。それを見た時、私は気が狂いそうになりました。恐怖の叫びを上げて無我夢中で戻って来たのです」

 工藤さんは当時の記憶が蘇ったのか、真っ青な顔をして一気に捲したてた。

 あまりの事に私には言葉がなかった。工藤さんの言うことはあまりに異常で、到底信じられない。しかし彼の表情から、彼が決して冗談を言っているのでないことだけはよく分かった。

「桂木さん。私の役目は恐らくこの事件を解くことでしょう。この事件を解決した時、私は消えて無くなってしまうかも知れない。しかし、あなたは違う。何故かは解りませんが、あなたは私たちとは違うような気がします。多分、あなたは消えてしまうことはないでしょう。この世界でのあなたの役目が何であるかは解りませんが・・・」

 その時だった。

 ガラガラ、ガシャーン!!

 もの凄い雷鳴と共に閃光がひらめいた。近くの大木が落雷によって炎を上げながら真っ二つに避けた。

 同時に室内の明かりが消えた。

「きゃあ」

 私は思わず声をあげた。

 まだ、雷はゴロゴロ鳴っている。

「またブレーカーでしょうか?」

「いや多分、落雷による停電でしょう。ちょっと見てきます」

 立ち上がる気配がする。

「あ、私も行きます」

 置いてきぼりにされては敵わない。手探りでドアを探して外に出る。

 吹き抜けのホールは部屋の中に比べて、少しは明るかった。窓のカーテンが開け放たれているからだ。雷光がダイレクトに入って来る。

 ホールの食堂には部屋で寝ているはずの彼氏がいた。

 前を進んでいたはずの工藤さんの姿はどこにも見えない。

 まさか、消えてしまった?

「やあ、香夏子」

 彼が階上を見上げながら言った。

「君は何者なんだい?」

「何を言っているのあなた。それより工藤さんを見なかった? 先に出たはずなんだけど」

「工藤さんはもういない。仕事は終わったからね。君のお陰なんだ、感謝しているよ」

 何を言っているんだろう。

「やっと分かった。思い出したんだよ、誰がみんなを殺したのか」

 彼は解らない言葉を抑揚のない声で綴っている。私はそれを聴きながら階段を降りて行った。

 するとそれまで身体の陰になって判らなかったが、彼の足元に小さな人影がうずくまっているのが見えた。

 彩美ちゃん?

 ぐったりと倒れて動かない。首には深紅の帯が巻かれている。

「彩美ちゃん? あなた、何をしたの?」

「何って、見た通りだよ。彼女を殺したんだ、それが全ての始まりなんだ。君だって知っているんだろ」

 雷鳴が轟いた。

 稲光の中、黒い人影が現れた。黒い犬の覆面を被った人物。

 私は恐怖の悲鳴をあげた。



 その黒い犬はホールの食堂にわだかまる闇の中から、忽然と湧いて出たようであった。あるいは闇が凝縮して生じたもののようにも感じられる。

 深い闇の中に光る黄色い瞳。漆黒の身体。鋭い牙の生えた口腔から除く真っ赤な舌。大人の背丈ほどもある巨大な犬は後ろ足で立っている。長い尻尾を両足の間から覗かせて、ゆっくりゆっくり階段に近づいていく。

 振り返っても頼りの工藤さんはもう居ない。私は再び悲鳴を上げた。

 雷鳴が轟き、稲光がふたりの姿を浮き上がらせた。

 すると突然、犬の歩みが止まった。小首を傾けて、不思議そうに私の顔を見つめる。

「大丈夫かね、石動君」

 不意に犬が言った。私は思わず後ろを振り向いた。自分の名前を呼ばれたとは思わなかったからだ。

「君のことだよ石動美音いしるぎ・みおね君。いや、ここでは桂木香夏子君だったか」

 そう言いながら、男は犬の被り物を脱ぎ捨てた。

 細面の顔。短く揃えた髪。鋭い眼光。男はどこに隠していたのか、銀縁のメガネを掛けると、興味深そうに周囲を見回した。

「なるほど、非常に興味深い」

 知らない顔だ。しかし何故か懐かしい感じがした。その顔を眺めていると、自然に涙が溢れてくる。

「あんたは何者だ? あんたなんか知らないぞ」

 彼が犬の着ぐるみを着た男に問いかけた。

「ほう。君がそうか」

 男は初めて彼の存在に気づいたかのように、彼のほうを振り向いた。

「僕の名前は摩生恭助まもう・きょうすけ、行動心理学者だ。そして、そこの石動美音の指導教授でもある」

「摩生? 石動? 知らないぞ、そんな名前。俺は知らない」

「失敬。君の名づけた名前は桂木香夏子だったが、実は石動美音というのが彼女の本当の名前だ」

 そうだ石動美音、それが私の名前だった。桂木香夏子などでは決してない。

 私の心は感動で震えていた。

「だから、お前は誰なんだ?」

 彼は焦れて怒鳴った。

「僕はこの石動君の創ったイメージだ。彼女が危機に陥った時、またはパニックに襲われた時、僕が現れるように予めプログラミングされている。いいか、ここは重要だぞ。僕はあくまで彼女のイメージであり、モデルとなる人物はいるにしても決して本人ではない」

 摩生という男は何故かそんなことに拘った。

 難しい顔をして主張oはしても、首から下が犬の着ぐるみではまるで格好がつかない。本人もそれを意識しているのだろう。

 こんな場合にも係わらず、思わず和んでしまった。

「これは彼女の創った安全装置なのだ。他人の夢に潜るということは、それはそれで中々危険なことでもあるのだよ。だからいざという時に、自分の味方となる人物を登場させる暗示をかけて置く。確か「枕封じ」という技だったと思う」

「他人の夢?」

「そうだよ、これは君の夢なんだ」

 摩生先生は彼に言った。

「1週間前、君の家族は何者かに殺害され、君ひとりが生き残った。それから君はずっと眠り続けているんだ」

「では、あんたは夢の外から来たとでも言うのか?」

「それは違うな。さっきも言ったが、僕は彼女の創ったイメージに過ぎない。工藤氏やそこの彩美ちゃんと一緒だ。外から来たのは、この石動君ひとりだけだ。つまり、これは彼女の夢でもある。悪夢を共有する者ドリーム・シュアラー。それが石動美音だ」

 ああ、そうだ。

 私はすべてを思い出していた。

 この人は摩生恭助准教授。私の最も信頼する人物だ。だから最悪の危機に陥った時、彼が助けに現れるよう予め暗示をかけて置いたのだ。

 その暗示をかける行為こそが、石動家が「呪われた一族」であることの証でもあるのだ。

「他人の夢に入れるのは彼女の特殊能力だが、他人の夢の中で自由に動けるのは彼女の身につけた技術なんだ」

 摩生先生は言った。

 不動明心法ふどうみょうしんぽう

 暗示によって敵の動きを封じる武術の一種である。闘いの最中にかける催眠術の一種と言っても過言ではない。

 私はその暗示の技術を使って、自分自身に術をかけたのだった。自己催眠である。

「枕封じ」というその技は、本来敵に精神的な攻撃を受けた際に自動的に働き、敵のかけた術を打ち払う技である。私はその技術を応用し、夢の中に摩生恭助を出現させたのだ。

「すると、あの黒い犬の正体は先生ですか?」

 私は摩生先生に声を掛けた。

「いや、それは違うな。あれは彼の創った恐怖の象徴だ。君はそのイメージに僕のイメージを重ね合わせ、そのイメージを乗っ取ったんだ。恐るべきは不動明心法の暗示の力だ」

 風雨が強くなった。建物が大きく揺れる。

 彼が激しく動揺しているのだ。

「お前たちは何者なのだ。何をしにやって来た?」

「だから、彼女は君を救いに来たのだよ」

 摩生先生は彼の方を向いて言った。

「あんな悪夢を永遠に見続けるなんて、可哀想すぎると彼女は言ったのだ。そして必ず目覚めさせて見せると。だから君は救われるべきなのだ。そうだろう、若林花葉わかばやし・かずは君」

 雷鳴が轟いた。

 彼はガックリと膝をついた。

「わたしは、・・・わたしは救われないわ」

 彼の言葉使いが変わった。見るとその容姿も少しづつ変化しているようだ。

「私は取り返しのつかないことをしたの」

 若林花葉の言葉で言った。

「分かっている。しかし取り返しのつかない事はない。やり直すには、君は十分に若い」

「私は人を殺したのよ!」

 花葉が叫ぶと同時に轟音を上げて風雨が吹き荒れた。ペンションの壁がビリビリと震える。

「先生」

 私は思わず摩生先生にしがみ付いた。

「なるほど。つまり淀村彩美は高峰伸行のイメージというわけか」

「高峰さん?」

「君のストーカーだった男だ」

「違う。あなたは間違っている」

「そうだな。彼はストーカーではない。僕は間違っている」

 泣いている。空が轟音をたてて泣いている。

「ひとつ確認したい。ストーカーは別の男で、彼は君を守ろうとした。間違いはないね」

「高峰さんは私を守ってくれた。そうよ、彼は私の代わりに・・・」

「ご両親を殺害した。違うかね?」

「違うわ。まるで、違う」

 花葉は髪を振り乱して叫んだ。

 暴風が激しく壁を叩き、ガラス戸が砕け散った。

 摩生先生の表情に初めて動揺が感じられた。

「では、誰だ? 誰が君の代りにご両親を殺した? まさか・・」

「殺す。それ以上言うと、あなたを殺すわ!」

 表をあげた花葉の顔は、牙を向いた黒い犬の顔になっていた。

「先生」

 私は声をあげた。

 轟音をあげて天井がめくれ上がった。壁が剥がれて、パラパラと舞い落ちた。剥がれた壁の向こうは、ただ永遠の暗闇が広がっているばかりであった。崩れ落ちた屋根や外壁が滝のように落ちてくる。

「大変です。夢の世界が崩れます」

「問題はない。彼女が目覚めようとしているだけだ」

 摩生先生は崩れ落ちる天井を見上げながら言った。

「大丈夫なんですか?」

「僕は単なるイメージだ。心配する必要はない」

「先生はそうでも、私の意識は実体と繋がっています。ある程度のダメージは残ります」

「なるほど」

 焦れったくなるほど落ち着いた仕草で腕時計を確認する。

「さて、そろそろ時間だ。帰るとするか、石動君」

 ふわりと身体が浮いた。その瞬間、私の意識は身体を離れ、無限の空間に吸い込まれて行った。

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