第3章 明けない夜
1
眼が覚めたとき、目の前に見知らぬ男の顔があった。
「気がついたかい、香夏子」
それで自分の名前が香夏子であることを認識した。
頭が割れるように痛い。
ここはどこ?
「いきなり倒れたから心配したんだ」
男の顔を見るうち、段々と思い出してきた。この人は私の彼氏だ。名前は、名前は・・・
やはり思い出せない。
上体を起こして、周囲を見渡す。見慣れたラウンジ。ソファーに横たえられている。
「大丈夫ですか、お嬢さん」
工藤という元刑事の男。
「すみません。大丈夫です」
「何かあったのか?」
彼が訊いた。
「人形が・・・」
「人形?」
首を回して壁際のチェストを見る。エーリッヒ・ケストナーはガラス戸の奥で静かに笑っている。
あの時、確かに人形が喋った気がしたのだ。それで私は気を失った。
人形は何と言ったのだっけ、何か大切なことを言ったような。
思い出せない。
「それより、文岳さんはどうなりました?」
工藤元刑事は黙って首を横に振った。
「残念ながら亡くなりました」
「絞殺らしい」
彼が言った。
「絞殺? 誰かに殺されたというの?」
「まだ、殺されたとは限らない。踏み台になるような椅子が、そばに転がっていたんだろ」
そう言ったのは小説家の宇津木という男だ。
「しかし、凶器となったひも状の物は、どこにも見付からなかったんですよね?」
大学教授の淀村が工藤さんを見た。
「そうです。彼が首を吊ったなら、カーテンレールに首を吊った紐が残っているはずです」
そんな馬鹿な。
私は心の中で叫んだ。
この豪雨の中、何者かがペンンションの中に入り込み、文岳さんを殺害したというのか? それとも・・・
「しかし、ひとつだけはっきりしたことがあります。それはブレーカーを落として停電を起こしたのは、時間的にいっても間違いなく篠澤夫妻であろうと言うことです」
「喜寿といっていたから、77歳ですよね。そんなご老人に、あの高い位置にあるブレーカーに手が届くのですか?」
「ご夫婦で協力すれば不可能ではないと思います。しかし・・・」
「そんなことをして、何の意味があるのかしら」
私は言った。
「その通りです。停電を起こしても何の意味もない」
「停電の間に何者かが忍び込んだんじゃないか。その誰かが文岳さんを殺したとか」
「停電を起こしても玄関の鍵が空いてなければ誰も入れません。もしも篠澤さんが誰かを引き入れたいなら、電気を消す前に玄関の鍵を外すべきです」
「その前に篠澤夫婦は消えてしまったんですものね」
「奥さん」
工藤さんが奥のソファで彩美を抱いて黙りこくっている静江婦人に声をかけた。
「2階に居た時、何かに気付かれませんでしたか?」
「・・・わたしは、何も知りません」
「本当ですか? 隣室で人が殺されたんですよ」
「おい、やめんか。君」
宇津木氏の言葉に、旦那の淀村教授が声を荒立てた。
「本当です。わたしは子供と一緒に寝込んでいたんです。皆さんが上がって来られるまで、何も気づきませんでした」
彩美ちゃんが、わっと泣き出した。かわいそう、私は無神経な小説家をにらみ付けた。
「いや、かえってそのほうが良かったのです。下手に気付いて騒ぎ出したら、あなた達の生命も危なかったかも知れません」
異様な空気が流れた。
誰もが口を閉ざした中で遠い雷鳴だけが、不気味に轟いていた。
「ところで、鵜ノ沢オーナーと奥様はどうしました」
ふと思い立って私は言った。
「奥様がどうしてもと言うので、亡くなったご子息のもとへ行きました。私は止めたのですが」
工藤さんが応えると、宇津木氏は苦い顔をした。
「おい、大丈夫か。まだ犯人がペンション内にいるかも知れないんだろ」
背筋にゾッとするものが流れた。彼の言う通り、文岳さんを殺した犯人がどこかに潜んでいるとしたら大変なことになる。
「いえ、それはないと思います。先程、オーナーと一緒に改めてペンション中を見て回りましたが、何も変わったものは見つかりませんでした。もしも誰かが入り込んだのなら、それなりの形跡というものが残るはずですが、そういう気配が一切感じられないのです」
「文岳君を殺した犯人も、篠澤夫婦と同じように消え失せたというわけか」
淀村教授が言った。
そうこうしている内に2階に上がったオーナー夫妻が戻って来た。
真っ青な顔をして、とんでもないことを言い出した。
「大変だ。文岳が、文岳の遺体が消えてしまった」
亡くなった文岳さんの遺体は、最初にそれを見つけた時、オーナーが窓際からベットの上に移動したという。現場保存を主張する工藤元刑事は反対したが、雨ざらしではあまりにも可愛そうだと泣いて押し切ったのだ。
それではせめて現場の写真だけは撮っておくということで、工藤さんも納得した。
その写真は、今も工藤さんの携帯に収まっている。
しかし、いま行ってみるとベットの中はもぬけの空で、彼の遺体はどこからも見つからないという。
またまた人が消え失せた。
このペンションではやたらと人が消え失せる。
2
文岳さんの遺体が消失した件は、ペンション内の人々の不安を掻き立てるには十分であった。
「取り敢えず、もう一度ペンション内を捜索してみましょう」
工藤元刑事の提案にも積極的に賛同する者は少なかった。結局、私と彼とが工藤さんに従って邸内を探索したが結果は同じであった。
「どういうことでしょう? 一度ならず二度までも」
彼の問いかけにも黙り込んだままだ。
「こうしていても埒はあきません。死人が出た以上、警察に連絡をして来てもらうしかありません」
ラウンジに戻った工藤さんは携帯を取り出した。
最初からそうすれば良かったのに。私はちょっと思ったが、電話器に向かう工藤さんの顔はみるみる暗くなった。
「通じません。圏外になっているようですが」
「ああ、この周辺は電波の継がりが悪いようです。普段はそんなことはないのですが、今日のように嵐になると途端に入りが悪くなるのです。ホールに固定電話がありますから、そちらでかけたら如何ですか?」
オーナーの鵜ノ沢が言った。
と、いう訳で食堂のあるホールに戻って固定電話を耳にあてた。クラッシックタイプの装飾電話だ。
工藤さんは首を振って、すぐに受話器を戻した。
「通じていません。電話線が切れているようです」
「嵐で切れたのでしょうか?」
「あるいは、誰かが切ったのかも知れん」
宇津木氏の言に一同言葉を失った。
「そうとは限りません。ペンション内に誰も居ないのは確認済みです。鵜ノ沢オーナーの言う通り、嵐で切れたのかも知れません」
「そんなこと判るものか。事実、人が亡くなっているんだ」
宇津木氏が叫ぶように言った。
みんなが言葉を失っていた。心の中ではみな同じことを思っているはずだ。
「わかりました。私が直接ふもとまで降りて、警察を呼んで来ましょう」
「この嵐の中をですか?」
「それより他に方法がありません」
工藤さんは上着を取って準備を始めた。
「僕の車を使って下さい。4駆ですから」
「ありがとう」
彼の投げた車のキーを空中で受け取ると、部屋を出て行った。
「僕も行きましょうか?」
「いえ、君はお嬢さんに付いていて下さい。それと、皆さんに出来るだけひとりにならないようにお伝え下さい」
「工藤さん、気を付けて下さい」
私の言葉に頷くと、工藤元刑事は嵐の外へ飛び出して行った。
しばらくすると、ディーゼル独特のエンジン音が聴こえ、雨しぶきを巻き上げてヘッドライトが闇の向こうに消えていった。
「まさか、工藤さんまで消えてしまうってことは有り得ないよな」
後ろ姿を見送って、彼がポツリとつぶやいた。
私はまた、言いようのない不安を感じていた。
ラウンジに戻ると、すでにそこには誰もいなくなっていた。ひとり残っていた鵜ノ沢オーナーに尋ねると、皆それぞれの部屋に戻ったという。
「私も自宅に戻ります、妻がすっかり塞ぎ込んでしまったので、ついていたいのです。何かありましたら呼んで下さい」
そう言って自宅エリアに戻って行った。
仕方がないので、私たちも自分の部屋に戻ることにした。
時計の針はもう午後10時を回っていた。
私はベットに腰を降ろして、窓の外を眺める彼をボンヤリ眺めていた。
ここに来る前は、彼の姿を遠くから眺めただけで、私の胸は早鐘のように鳴ったものだ。彼にドライブとお泊り旅行に誘われて、子供のように舞い上がった。それがどうだろう。現在は何も感じない。
色々な事が有り過ぎた。
頭の奥がジンジンと痛い。
「ねえ、香夏子はどう思う?」
「え?」
窓の外を眺めながら彼が言う。
「やはり、誰かが忍び込んでいると思うか?」
「さあ、解らないわ」
「もしそうでなければ、僕らの中に殺人者がいることになる」
私はハッとした。そんなことは考えもしなかった。
「そいつは文岳さんを殺しただけじゃない。篠澤夫婦をも殺したかも知れないんだぜ」
「何でそんなことを言うの? 篠澤夫婦が行方不明になった時、他の全員は食堂に居たのよ」
「なにもあのとき殺したとは限らない。何か事情があって、一時的に姿を隠した夫妻をあとで殺害したのかも」
「文岳さんの時もみんなは一緒だったわ」
「そうでもない。半分は庭にいたし、ペンションの中の人たちだってずっと一緒だったとは限らない。事実、淀村さんの親子は自分の部屋に戻っていたしね」
「静江さんが殺したというの? あなたおかしいわよ」
窓の外を見つめている彼の姿が、全く別なひとに思えてきた。
「ちょっと待って、香夏子。あれは何?」
突然彼が大声を上げた。私は慌てて彼に駆け寄った。
「えっ、なに?」
「ほら、あれ。物置の所、黒い犬のようなものが」
「え、黒い犬?」
窓からは庭の物置とガレージが見えるが、その周辺には犬はおろか何も見えない。
「なにもいないわよ」
「確かに居たんだ。尻尾の長い大きな犬が」
あの時の犬だ。
嫌な予感がした。私がその犬を目撃した直後、文岳さんは死んだのだ。
「ねえ、行ってみようよ」
「え、行くって、これから外へか?」
その時、部屋のドアを激しく叩く音がした。
彼がドアを開けると、静江婦人が転がるように飛び込んできた。
「彩美を、うちの彩美を知りません?」
「え、彩美ちゃん、どうかしたのですか?」
「いないのよ。私がちょっと目を離した隙にいなくなったの」
「まさか」
静江婦人がわっと泣き出した。
「落ち着いて下さい、奥さん。何があったんです?」
「主人と言い争いになったんです。私はもう耐え切れない、いますぐここを出て家に帰ろうって。主人はこの雨じゃすぐには無理だ、工藤さんが帰るまで待つべきだって。主人の言うことは解ります。多分それが正しい選択だと。でも私には彩美が心配で、そう思って気がつくと彩美がいなくなっていたんです。私、私、どうしましょう」
そう言って泣き崩れる。
「とにかく捜しましょう」
静江の身体を抱いて部屋の外に向かった。
部屋を出るところで、血相を変えた淀村教授に鉢合わせた。
「彩美はいたのか?」
「いえ、まだ・・・・」
「どうしてこんなことに」
その時、火の付いたような子供の鳴き声。
彩美ちゃんだ。
私たちは廊下に飛び出した。
3
廊下に飛び出した私たちが目にしたのもは、自室の前に愕然と立ち尽くす宇津木婦人の姿であった。小説家の部屋は私たちの部屋のすぐ隣である。私たちはすぐに婦人の元に駆けつけた。
部屋の扉は開かれており、婦人は中を凝視していた。婦人の手にしたお盆からは、お茶の道具がこぼれ床に広がっている。
部屋の中からは激しく泣きじゃくる彩美ちゃんの声がする。
「どうしました。宇津木さん」
声を掛けた私も、部屋の中をひとめ見て思わず立ち竦んだ。
「彩美」
そんな私たちの間をすり抜け、彩美ちゃんの元に駆けつけようとした静江婦人は、濡れた床に足を取られて激しく転倒した。
「きやああ」
濡れた手を見て悲鳴を上げる。
床のフローリングをびっしょり濡らしていたものは大量の血液である。そしてその血液の海の中に、小説家の宇津木氏はうつ伏せに倒れていたのであった。
彼の頭のすぐ横にはアンティク風の鉄瓶が転がっていた。それは扉の横に置かれたオブジェの一つで、普段は花瓶として使用されているものである。凝った彫刻の施された小さな脚台の上に置かれている。
その鉄瓶にもべっとりと血痕がこびりついている。
宇津木氏がこの鉄瓶で殴り殺されたであろうことは明白であった。
しかし。・・・
彩美ちゃんは部屋の奥で泣きじゃくっていた。どうやら彼女に怪我はないようだ。
「彩美、彩美」
静江さんが彩美ちゃんを抱きしめた。
「ヒヒヒ」
ゾッと背筋を逆なでするような笑い声が後ろで聴こえた。振り返ると膝を突いた宇津木婦人が引き吊ったような笑いを漏らしている。
人間、あまりに悲惨な状態に陥ると、悲しみや怒りよりの感情よりも、思わず笑ってしまうものなのだろうか。
そう思った私だったが、その考えは誤りであった。
「死んだ死んだ、とうとう死んだのね。あなた・・・」
宇津木婦人は自分の夫の死を喜んでいたのだった。
「ねえ、鵜ノ沢オーナーを呼んできて」
私は横で同じ様に愕然と立ち尽くしている彼に声を掛けた。
「あ、ああ」
頷いて階段に駆けていく。
少し冷静さを取り戻した私は、床に広がった血痕を避けて中に入った。
部屋の電気は消されていた。ベランダのガラス戸が開け放たれており、激しい雨が吹き込んで来る。
思った通り宇津木氏は後頭部を割られて、そこから血液が溢れていた。まだ凝固していないことから、殺害されてからそう時間は経っていないはずである。
凶器となった鉄瓶には、宇津木氏の髪の毛もこびり着いている。
鉄瓶の重さはおよそ40キロほど。これを凶器として使うにはよほどの腕力が必要だろう。
そして扉の陰には化粧台の前に置いてあった小さな椅子が転がっていた。
「おや」
私は血の海にキラリと輝く金属製のものに目を止めた。
その時、鵜ノ沢オーナーが彼と一緒に駆け付けた。
「どうしました?」
部屋の中を見たオーナーは「うっ」と一声唸って立ち竦んだ。
「これは・・・」
「見た通りです。宇津木先生は殺されてしまった」
淀村教授が沈痛な声で言った。
「静江。彩美を・・・」
静江婦人は彩美ちゃんを抱いて部屋を出た。代わりにオーナーと淀村が部屋の中に入って来る。彼氏はドアの所に立ち竦んだままである。
「まさか、殺人だなんて」
「一目瞭然でしょう。この状況をみて、まさか自殺とは言えますまい」
「現場は最初からこの状態だったのですか?」
「私たちが駆け付けたときはこうでした」
「第一発見者は?」
「宇津木婦人です。私たちが部屋を出たときには、宇津木婦人が扉の前に立ち竦んでいました」
私が代表して答えた。
「その時、あなたがたはご自分の部屋にいたのですね」
「はい。私は彼と一緒でした」
「淀村さんたちはどこに居ました?」
「彩美を捜して邸内を歩いていました。ちょっと目を離した隙にいなくなったのです」
淀村教授が答えた。
「それで桂木さんたちの部屋に寄ったのです」
「その時、宇津木先生の部屋は?」
「扉は閉じたままでした」
「その後で婦人がお茶を運んで来たのですわ。ほら廊下にお茶のセットが転がっているでしょう」
私は廊下に転がっている湯呑や急須を指差した。
「はい。宇津木先生がお茶を飲みたいというので、婦人が私の所へお茶のセットを取りに来たのです」
鵜ノ沢オーナーも頷いた。
「すると、私たちが桂木さんたちの部屋を訪れ、婦人がお茶のセットを持って上がって来る僅かな間に殺人は行われたわけか」
淀村が考え込みながら言った。
「奥さん」
鵜ノ沢オーナーが廊下に座り込んでいる宇津木婦人に声を掛けた。婦人は依然小さな笑い声を上げている。
「大分ショックを受けているようですね。暫くは話も出来ないでしょう」
彼がその肩を抱いて言った。
「とにかくここでは何です。一度ラウンジに戻りましょう」
オーナーの提案で、私たちは部屋を移動することになった。
「あのう。鵜ノ沢さん」
私は気になっていたことを口にした。
「あの血痕の中にあるもの、懐中時計ではないですか?」
「そのようですね」
血の海に光る金属製の物体は懐中時計であった。
「私たちがペンションに着いた時、廊下で宇津木さんとすれ違いましたが、そのとき彼は懐中時計をなくした話をしていたように思うのですが」
「ああ、そうでしたね。確かラウンジに置き忘れたと言っていました。それであの後ラウンジを探したのですが、時計は見つかりませんでした。やはりお部屋にあったのですね」
しかしその後、宇津木は時計を手にしてはいなかった。時計が見つかったのなら、当然それで時間を計るだろう。
細かいところが妙に気になるようになってしまった。
4
工藤元刑事が帰って来たのはそれから10分程経ってからだった。
ヘッドライトの光が玄関ホールのガラス戸に映るのを待って、私たちは外に飛び出して行った。
「何かあったのですか?」
4WDから降り立った工藤さんは、全身ビショ濡れで少しやつれて見えた。
「宇津木氏が亡くなりました。殺害されたのです」
淀村教授が代表して言った。
「宇津木先生が、殺されたですって?」
「それより警察はどうでした? すぐに来てくれるのですか?」
「いえ、ダメでした。下に降りる途中の川が氾濫して、橋が流されているのです。鵜ノ沢オーナー、他の道はありませんか?」
「それが、ふもとに降りる道はあれ一本きりなのです」
「そうですか」
工藤さんの報告に一同は失望した。
「こうなっては、ここで夜の明けるのを待つしかありません。明日になれば救援が来るでしょう」
「それまで待てますか?」
「待つしかないのです」
工藤さんは唇を噛み締めた。
誰も口を開く者はいない。誰もが不安なのだ。口にはしないが、得体の知れない殺人者が近くに潜んでいるかも知れない、その中で一夜を明かさなくてはならない恐怖に慄いているのだ。
「とにかく現場を見てみましょう」
工藤元刑事はどんな場合も常に冷静だった。そしてその冷静さこそが、私たちの心の拠り所でもあったのだ。
私たちは階段を上り、宇津木氏の部屋に向かった。
扉のドアには鵜ノ沢オーナーが鍵を掛けていた。その鍵を開けて中を覗いた私たちは思わず息を飲んだ。
暗い部屋のフローリング床は、半分固まりかけた血液が赤黒い絨毯のように広がっていた。血だまりの中に凶器の鉄瓶が転がっている。その脇には金属製の懐中時計が鈍い光を放っている。
ただしその中にたったひとつ足りないものがあった。
そう、小説家の宇津木春男の遺体だけが、綺麗に消え去っていたのだ。
「まさか」
淀村教授が絶句した。
「また遺体が消えてしまった」
工藤元刑事は無言で部屋の中に入り、血液の状態、鉄瓶の位置関係等を調べ始めた。
「どうやら、この鉄瓶が凶器とみて間違いはないようですね」
「ここに軽中時計が落ちています」
私は血の海に沈んだ懐中時計を指差した。工藤はハンカチに包んで時計を拾い上げた。
「私たちがここに着いた時、宇津木先生はこの時計を捜していたのです」
「ほう」
「大したことではないかも知れませんが」
「いえ、そんな事はありませんよ。それより、部屋のガラス戸は最初から開いていたのですか?」
「はい。私たちがここに来たときには開いていました」
「そうですか」
工藤さんはガラス戸の周囲を一通り調べた後で鍵をかけ直した。
「それでは下に戻りましょうか。皆さんに訊きたい事があります。オーナー、ドアの鍵は一応掛けておいて下さい」
私たちは再びラウンジに戻ることになった。
午前0時、ペンション内の全員がラウンジに集まっていた。
鵜ノ沢オーナーとその婦人。亡くなった宇津木氏の妻。淀村一家、卓造教授と静江婦人。その娘の彩美ちゃん。私とその彼氏。そして工藤元刑事の9人だ。
「宇津木さん。こんな時に申し訳ないが、あなたが見た事を話していただきたいのです」
「あのう、わたし」
宇津木婦人はハンカチを握りしめている。うつむいてはいるが、その顔は憑き物が落ちたもののように妙に晴れやかであった。
「正直言って主人が亡くなって少しも悲しくありません。こんなことを言うと薄情な女と思われるでしょうが、主人は私を人間として見てはくれなかったのです。私は主人の召使いでした。だから主人が亡くなって、ホッとしている自分がいるのです」
突然のカミングアウトに一同は声を失っていた。
「でも、信じて下さい。わたしは決して主人を殺してはいません」
「わかっています。あなたがお茶の道具を取りに部屋を出たときには、変わったことはなかったのですか?」
「はい。突然、お茶が飲みたいって言って。何時もそうなんですよ、人の都合なんてお構いなしで」
「その時、ベランダのガラス戸は閉まっていましたか?」
話が横に逸れそうだったので、工藤さんは慌てて話を変えた。
「はい。ああ、そうそう窓から外を見て、ベランダに大きな犬がいると言ってました」
大きな犬。
「その犬は僕も見ました」
彼氏が大きな声をあげた。
「僕が見たのは倉庫の前でしたが、尻尾の長い黒い犬です」
「あのう、私も」
私も手を上げた。
「私が見たのは文岳さんの亡くなる前、篠澤夫婦を捜しに行く時でした。やはり尻尾の長い黒い犬で、後ろ足で立っていました」
「僕が見たときも確か後ろ足で立っていたような。倉庫の壁に前足を掛けて」
「わかりました。他にその犬を見た者はおりませんか?」
工藤さんが言った。
「確か彩美ちゃんも見ているはずです」
「わんわん、みたよ」
彩美ちゃんが言った。
「黒いおおきな、わんわん」
「どこで見たの? 彩美ちゃん」
「おじちゃんの部屋」
「え?」
私は言葉に詰まった。
「宇津木のおじちゃんの部屋で見たの?」
「うん」
そう言うと彩美ちゃんはお母さんの膝に顔を埋めた。
一同は顔を見合わせた。
「奥さん、彩美ちゃんはいつ部屋に来たのですか?」
「わたしがお茶をもらいに部屋を出るのと入れ違いにです。本当に元気のいいお子さんで、色々なお部屋を駆け回って遊んでいるのですわ」
「それでお茶をもらって戻って来ると、部屋の中はあんな風になっていたというのですね」
「はい。主人が扉の前に倒れていて、彩美ちゃんが部屋の奥で泣いていたのです」
「桂木さん」
工藤元刑事は私に向き直った。
「あなたたちの部屋は、宇津木夫妻の部屋のすぐ隣です。何か変わった物音に気付きませんでしたか?」
「いえ、何も」
「君も?」
「はい、何の音もしませんでした」
彼は応えた。鵜ノ沢オーナーが横から口を挟んだ。
「こう見えてペンションの壁は防音になっているのです。もちろん完全ではありませんが、それでもある程度は外の音を遮ります。だから文岳の時も淀村さんたちは気付かなかったのでしょう」
役目が済んだから、消えたのだ。
えっ。
声が聴こえた。
「どうしました?」
「いえ、何でもありません」
やはり誰にも聴こえてはいないのだ。私だけに聴こえる声。人形の時と一緒だった。
それにしても。
役目が済んだから、消えたのだ。
どういう意味だろう。
5
夢を見ていたのかも知れない。
それも悪夢だ。夢の中でうなされて、私は目を覚ました。目を覚ました時、夢の中身はきれいに忘れ去っていた。
ただ、パジャマ代わりのジャージが、寝汗でびっしょりになっていただけだ。
犬の夢を見ていたのだろうか?
尻尾の長い、黒い大きな犬のことだ。行方不明の篠澤夫妻を捜しに庭に出るとき、庭先の丘にその姿を見かけたのだ。
そのすぐ後に、文岳さんは何者かに殺害されている。
そうだ。篠澤夫妻が消息を絶つ前にも、黒い犬は目撃されている。自分の部屋で休んでいる私のところへ、彩美ちゃんがやって来てそう告げたのだ。
そして今回。今回は私の彼氏と彩美ちゃんが、それぞれ目撃している。特に彩美ちゃんは宇津木氏の殺害された部屋で目撃しているのだ。
この黒い犬が今回の一連の事件に関係しているのではないか。
というのは、私はこれまで「黒い大きな犬」という表現を使っているが、それは単にそれを表現する適切な言葉を知らないためで、もしかしたらそれは犬ですらないのかも知れない。
事実、それは後ろ足で立っていた。それは彼も認めていることだ。
そしてそれはちんちんのように、犬が後ろ足で立っている状態とはかけ離れている。そもそも犬の足は構造上2本足で立つようには出来ていないのだ。
しかしあれはごく自然に後ろ足で立っていた。あれは決して犬などではない。
では、なにか?
例えば人間が、犬の首のような被り物をかぶっていたとしたら、あのような姿になるのかも知れない。
私は恐ろしい考えに囚われていた。
もしもその人物が、文岳さんと宇津木氏を殺害したとするならば・・・
深夜になっても雨は止まない。相変わらずの風雨がガラス戸を叩いている。
ふと見ると、隣のベットに寝ているはずの彼氏の姿がない。
時計の針は午前3時を指している。
どこに行ったのだろう?
急に不安になった。
稲妻が轟く。
こんなにも長く続く雷雨というものが存在するのだろうか?
ジャージの上にガウンを羽織って部屋を出る。
吹き抜けの廊下から見下ろすと、ホール兼食堂はしんと静まり返っている。
そしてラウンジへと続く小さな扉。
・・・何かが居る。
それは殆ど直感に近いものだ。
階段を降りてホールに出る。
囁くような小さな声。含み笑い。
彩美ちゃん?
稲妻が轟く。
身体を屈めて這うように進む。
扉の向こうから、小さな明かりが見えている。
「・・・だったの?」
今度は間違いない、彩美ちゃんだ。細めに開いた扉を押し開けて中を覗き込む。
雷光が閃いた。
そして私は、それを見た。
全身を返り血に染めた彩美ちゃんの小さな姿。そしてその足元に横たわる大きな男の姿。
死んでいる?
真っ赤だ。
こちらを向いたその顔は彩美ちゃんのお父さん淀村教授であった。
側に転がる小さな椅子。それも血に染まっている。
彩美ちゃんは笑っている。全身をお父さんの返り血に染めて、楽しそうに笑っている。
そしてその隣に寄り添うのは。・・・
あの犬だ。長い尻尾を前に垂らした、黒い大きな犬。
人間のように後ろ足で立って、小さな彩美ちゃんを見つめている。
あまりの事に、私は動けなかった。
犬の眼がこちらを向いた。
血のように真っ赤な瞳。
そして口が動いた。
「時間だぞ、石動君」
力の限りの絶叫をあげた。
その瞬間、私の中から何かが抜け落ちたのだった。