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第2章 目覚めない少女


 その事件は後に「眠り姫」事件として世間の注目を浴びることになる。

 事の発端は京都右京区の簡素な住宅街で起こった。

 京都市内の某地銀に務める若林慎太郎は、その日昼近くになっても出勤しなかった。その日の午後、銀行では頭取会議が開催されることになっていたので、融資課長である若林の出席は避けられないのものになっていた。

 携帯も継らないし、家族にも連絡がとれない。だから部下の斎藤は若林の自宅まで足を運ぶことになったのだ。

 とは言ってもどうなるものではない。若林の自宅前で、斎藤はウロウロと中の様子を伺っていた。

 家の中はひっそりと静まり返って人の気配はしない。

 すると後方から声をかけられた。

「あのう、ここのお方やろか?」

 振り返るとセーラー服を着た女子高生が心配そうに覗き込んでいた。

「いえ、若林はんの会社の者です。この時間になっても出社せんので、心配になって見に来たいうわけです」

「そうですか。私はこの家の娘の友達ですが、ここ3日ほど学校を休んでいるので、心配になって見に来たんです」

 彼女は若林の娘、花葉かずはの同級生で、同じ演劇部に所属する親友だと自己紹介した。

 彼女の言によると、花葉は真面目な性格で滅多に学校を休まない。ましてや進学を控えた大事な時期に、3日も学校を休むとは考えられないというのだ。

 それで女の子独特の事情もあって、体調が優れないことから学校を早退させてもらい、彼女の様子を見に来たということであった。

「中に入ってみまひょか」

「そうですね」

 彼女も頷いた。

 それでふたりは若林家の門をくぐることになったのだ。

 玄関のノブを回すと、意外なことに鍵は掛かっておらず、ドアは思いのほか簡単に開いた。

「私、花葉の所へ遊びに来たことがあるんで、家のことは大体わかってますねん」

 間取りはこの辺りにはよくある4LDK。1階には大きめのダイニングキッチンと6畳の和室。ダイニングキッチンや和室は綺麗に片付けられており、人の生活した気配は感じられない。

 かといって生活感が全くないわけではなく、キッチンの食器や調理道具は整理され、ダイニングのテーブルには大きな花が飾られている。昨夜までは確かに人が生活していたが、今日は朝から誰も起きて来ない。そんな感じであった。

 部屋のなかには誰もいない。

 リビングには大きめの液晶テレビを囲んでのソファセット。いくつかのクッションが並んでいる。

 テレビの前のサイドテーブルには、読みかけの夕刊がさりげなく置かれていた。

 隣の和室も綺麗に掃除されており、部屋の片隅にはたたみかけの洗濯物が置かれている。

 風呂やトイレの中までも確認したが、これといった変化は感じられなかった。

「家族の部屋は2階です」

 彼女は言った。

 ふたりは狭い階段を登っていった。

 2階は階段の上り口から廊下を挟んで右が花葉の部屋、その向かい側が弟の蒼太そうたの部屋。廊下の突き当りが夫婦の部屋だと説明した。

 彼女はまず花葉の部屋のドアをノックした。

「花葉、居る? あたし。ちいとも学校きいひんから、心配になって来てしもうたわ」

 部屋の中から返事はない。

 彼女は後方の斎藤を振り返った。斎藤が目で頷くのを確認してノブを回す。

「花葉、開けるよ」

 部屋の中はいかにもという女子高生ティストで、淡いピンクとブルーを基調に飾りたてられていた。

 ピンクのカーテン。空色のカーペット。筆記用具やノート類が出されたままの勉強机。カーペットの上のローテーブルには、流行のファッション雑誌が開いたまま置かれている。

 そして部屋の隅に置かれたベットの上。カーテンと同じピンクの布団に包まれて、花葉はすやすやと眠っていた。

 その姿を見て友達はホッとすると共に無性に腹がたった。

「もう、花葉ったら、心配させへんでよ。もうったら、起きてよ、起きて」

 乱暴に布団をゆする。

 その姿を見て斎藤は踵を返した。別の部屋をあたろうと思ったのだ。

 部屋を出ようとした背中に、少女の悲鳴が響き渡った。

 振り返った斎藤が目にしたものは、ピンクの掛け布団を手に凍りついたように立ち尽くす少女の姿だった。

 見ると、ベットの上に仰向けに寝ている花葉の薄いブルーのパジャマは、上下ともに真っ赤な血潮で染まっていた。

 しかし彼女は死んではいない。

 全身朱に染まったまま、すやすやと眠りこけていたのだった。



 京都帝都大学、行動心理学教室。

 摩生研究室の大きなディスクの前で、摩生恭助まもう・きょうすけ准教授は京都市警の新崎健志郎にいざき・けんしろう警視の話を聞いていた。

 摩生と新崎はかってこの京都帝大の同級生であった。

「それで」

 と彼は銀縁メガネの中央を中指で持ち上げながら言った。

「彼女はいまだに目覚めないわけだね」

「そうだ。もう、あれから5日は経つ。なあ、恭助。そんなことが、ほんとうに起こるんか」

 ふん。

 摩生は立ち上がった。長身、細身。鋭いカミソリのような顎先が印象的だ。

 35歳。異例の准教授抜擢であった。

「石動君、例の物を」

「はい」

 と、応えて助手の石動美音いしるぎ・みおねが右隣のディスクから立ち上がった。すらりとした美形である。ショートカットの黒髪に、裾長の白衣がよく似合う。正面を向くとタイトスカートの下から覗く美脚が眩しい。

 24歳。当大学の大学院生で、摩生の助手である。

 彼女は大きめのファイルを摩生に手渡した。

「眠ったまま目覚めないという事例は、特別に珍しいことではない」

 といいながらファイルをめくる。

「アメリカ、ペンシルベニア州のニコール・デリーンさんは、最長64日間も眠っていたという記録が残っている。また、英国シュロップシャー州テルフォードのステーシー・カマフォードさんは、一度眠ると数週間は眠り続けるといわれている。これらはいずれもクライン・レビン症候群と呼ばれる睡眠障害で、世界では1000例ほど報告がある」

「そんな病気があるんでっか? トイレとかはどないするんや」

 後ろのほうで若い声がする。同時にゴンという拳骨の音がした。

 新崎警視の後方にふたりの男達が控えている。

 摩生はジロリとそちらを見やった。

「寝ているとはいっても完全に眠っているわけではない。夢遊病者のような状態で、食事やトイレなど生活に不可欠な行動は行っているらしい。ただ目覚めた後、本は人そのことを覚えてはいないらしいがな」

「しかし、彼女は違うらしい。完全に眠っていて、トイレも垂れ流しだし、食事も出来ないらしいのだ」

「ほう」

 摩生は興味を示した。

「では、食事はどうしているんだ?」

「首のところからチューブを入れて、栄養を補給しとるらしい」

「IVH、いわいる高カロリー栄養療法か」

 摩生は頷いた。

「で、僕にどうしろ、と?」

「彼女を目覚めさせてほしい」

 新崎は言った。

「ふん。永久に目覚めないなどということは有り得ない。放っといてもそのうち目を覚ます」

 摩生は冷たく言った。

「それまでは待てない。事は急を要するのだ」

「何故?」

「その、なんですやろ。彼女が目覚めんで、えらく苦労しとるんです」

 新崎の後ろで年配の武藤刑事が口を開いた。

 新崎警視の後ろに居るふたりの刑事。ひとりはベテラン然とした武藤警部補。もうひとりは若い高村刑事だ。

「彼女は重大な殺人事件の関係者ですねん」

「なるほど」

 摩生は武藤刑事を見やった。

「つまり、彼女のパジャマに付いた血液が、その被害者のものということだね」

「まあ、そうなりますな」

「亡くなったのは、彼女のご家族かな」

「なぜ、分かりますねん」

「その状況で、彼女が他人の血液を付けて帰ってくるとは考えにくい」

「その通りだ」

 新崎が言った。

「で、亡くなったのはご家族の誰かね?」

「全員だ。彼女を除く一家全員が殺されていた」

「ほう」

「だから、彼女が生きている唯一の目撃者ということになるのだ」

「なるほど。面白いな」

「我々としては是非とも彼女の証言がほしい。そのためには、彼女を目覚めさせる必要があるのだ」

「で、僕に彼女を目覚めさせろ、と」

「そうだ。君とそこの助手くんの協力が必要なのだ」

 新崎は一同のやり取りを無視して、机に向かっている石動美音に視線を移して言った。

 それにしても、なんて美しいんやろ。

 そう思ったのは若い高村刑事であった。

 高村晋平23歳。警察学校を卒業してすぐに京都市警の捜査課に配属された。警察学校をトップの成績で卒業したエリートといえば聞こえはいいが、刑事としてはまだまだ新米である。

 彼の視線は事件よりも、匂うような美音の横顔に注がれていた。

「それには、まず事件の概略が必要だな」

 摩生が言う。

「わかっとります。おい、高村。説明せんかい」

 理知的な瞳に薄紅色のメガネが似合う。長い睫毛。すっと通った美麗な鼻筋。そして何よりも形のいい唇。

 高村の論によると美人の条件は唇の形にあるという。どんなに瞳が大きく、顔貌が整っていようとも、唇が大きすぎたり歪んでいたりしては興ざめである。

 そこにいくと美音の唇は正に理想的だ。大きすぎず、小さすぎず、厚すぎず、薄すぎず。形よく整って、ふっくら盛り上がっている。思わずむしゃぶり付きたくなるとはこのことだった。

 などとうっとり見つめている頭に、武藤先輩の拳骨が落下した。

「なに、ボケっとしとるねん。早よ説明せんかい」

「あ、す、済まへん」

 慌てて手帳をめくる。

 それを見て、初めて美音がくすりと笑った。


 

「事件の発見者は斎藤二郎29歳と伊藤菊菜17歳」

 高村が手帳を見ながら説明を始めた。

「斎藤は地銀の大手、京都第一銀行の行員です。課長の若林慎太郎が出勤しなかったので、様子を見に自宅を訪れたゆうことでんねん」

「伊藤菊菜は高校生なのだろう。ふたりの関係は?」

 摩生が訊いた。

「この日が初対面ですねん。伊藤は若林の娘の花葉の同級生で、やはり登校してなかった娘の身を案じて寄ったそうです。ふたりは玄関前で顔を合わせて、一緒に家に入ったいうてますねん」

「なるほど。話を続けてくれ」

 家に入ったふたりは、2階の花葉の部屋でベットに寝ている花葉を見つけた。

 彼女は自分のベットに仰向けに寝ており、布団にもパジャマにも乱れた様子は見られなかったという。ただ、そのパジャマは真っ赤な血潮で汚れており、それはベットのマットレスにも及んでいた。

 しかし、彼女は傷ひとつ負っておらず、その血液は全て他人のものであることがわかった。

「その血液は彼女の両親のものであることが、後に判明しはりました」

 次いで彼女の向かいの子供部屋で、弟の蒼太の絞殺体が発見された。部屋の中は荒らされてはいなかったが、血のついた包丁が部屋の中から発見された。その包丁は若林家のもので、彼の両親を殺した凶器であった。

 両親の死体は廊下の突き当りの、両親の寝室で発見された。そこは8畳ほどの洋室で、ツインのベットの片方に折り重なるように倒れていた。ふたりは寝巻き姿で、体中をメッタ突きにされていた。部屋はかなり荒らされた様子があり、部屋中血みどろであったという。

 なお、息子を殺害した凶器はこの部屋で発見された。それは若林の妻・涼子の寝巻きの帯だという。

「凶器の包丁や帯からは、家族の指紋以外は発見できまへんでした」

 高村は付け加えた。

「それで驚いたふたりは警察に通報したという訳だね」

「はい。そうでんねん」

「その後、ふたりはどうなった?」

「体調を崩しはって入院中です。弟の方はともかく、両親の方は我々玄人でも後ずさりするくらいエグイ死に様ですよって、体調を壊すのも無理はないと違いますやろか」

「そうだな。では、事情を訊くのは暫くは無理か」

 高村は先程からずっと気になっていた。

 新崎捜査官や武藤警部補はなんでこの男に大切な捜査情報を、こうも簡単に漏らしてしまうのか。新崎捜査官と摩生准教授が大学の同級生であることは、高村も聞いたことがある。

 何でも新崎と摩生、そして東京から来たもうひとりの男は、当時京都帝大の三羽ガラスといわれた秀才だったそうだ。やがて新崎は警察庁に入り心理分析官に、摩生は大学に残り准教授まで登り詰めた。

「で、三羽ガラスのもうひとりは、どないしはりました?」

 高村は新崎にそう尋ねたことがある。

「彼の話はあまりしたくない。彼は一種の変人だからな」

 高村にしてみれば、新崎も摩生も十分な変人である。

「以前、京都市内で起きたある連続殺人事件を、摩生先生と助手の石動さんの協力によって解決したことがあってな。これは署内でも上層部以外は知られていない事実なんやけど」

 武藤はそう言ったものだが、高村はもうひとつスッキリしない。

「ご家族の死亡時刻は?」

 高村の妄想は摩生の質問によって遮られた。

「はい。両親の方は5日前の午前0時頃。弟のほうは同午前2時頃やそうです」

「両親と弟とは死亡時刻に2時間の差があるのか?」

「はい。そのようでんな」

 高村は手帳のメモを確認しながら言った。

「死因は?」

「両親は出血、いや出血性のショック死やそうです。弟の方は絞殺ですな」

「問題は、その2時間の間に何があったか、だが」

 新崎が言った。

「両親を殺した犯人が、2時間も家の中におったちゅうのは考えられへん」

 武藤が言ったが、新崎は首を振った。

「殺害した女の家に数時間居座り、死体の前で食事を採ったり、風呂に入ったという事例も存在する。サイコパシーという反社会的精神異常者の特徴的行動パターンだ」

「さすがは心理分析官さまだな。しかし問題は隣室でそのような殺戮が繰り広げられているのに、姉弟はその事に気づかなかった。これはどういうことだろう?」

「眠っていた姉はクライン・レビン症候群を発症していたとするなら説明はつくが、弟のほうはどうかな」

 新崎は考え込んだ。

「弟の蒼太君だっけ、彼の年齢はいくつかな?」

「13歳。中学2年生です。ちなみに姉の花葉は17歳、高校3年生ですね」

 高村は必死でメモをめくる。

「午前0時は夜中だが、中2ともなれば、まだ起きているだろう。最近はスマホのゲームとかで、夜更かしする子供も多い」

「そうだな」

「それもそうだが、両親を殺した凶器と弟を殺した凶器が異なっているのも気にかかる。サイコパシーでそういう事例はあるのか?」

 摩生は訊いた。

「いろいろだな。凶器にこだわる事例も、そうでない事例も存在する。両親を殺害した現場に、たまたま弟が現れたので、咄嗟にそこにある帯で首を絞めたのだろう」

「君の言うサイコパシーとは大分イメージが違うな」

 摩生は首を捻った。

「他に変わった事はないのか?」

「家の庭に男物と見られる靴跡が数箇所みられます。推定27センチメートル。慎太郎や蒼太のものと比べてもかなり大きなものです」

「犯人の侵入経路は鍵の開いていた玄関か?」

「はい。捜査本部ではそう見とります」

「新崎。君はどう思う?」

 摩生が話を振った。

「何故、玄関の鍵が開いていたのか。それが問題だな」

「その通りだ。夜中の12時に玄関の鍵を開け放している家があるとは思えない。別の侵入経路があって、犯行を終えた犯人がそこから逃走したとするなら説明はつくのだがな」

「しかし、玄関以外の全ての扉や窓には鍵が掛かってました」

「だからさ、玄関だけ開いていたというのは不自然だろう」

「・・・そうですね」

「他には」

「事件の一週間ほど前から家の周囲で、20代と思われる不審な男の姿が目撃されています。近所の人たちの話やと、娘のストーカーやとのことです」

「ストーカーか。他には?」

「事件の数日前に家の前に不審な車が、数時間停められていたことがあったそうです。乗っていたのは30代の男性で、前述のストーカーとは別人のようですな。その後帰って来た慎太郎と、激しい言い争いになったのを近所の人に目撃されとります。いまのところは、そんなところですよって」

「そうか」

 摩生はメガネを外して眼を瞬かせた。

「少し話を整理したい。それから、目覚めないというその娘にも会ってみたい。明日は公演があるので、そうだな明後日にでも手配してもらえないか」

「わかった」

 そう言って刑事たちは去っていった。

 摩生は自分の席に戻ると、美音のほうを向いて言った。

「きみはどう思うかね。石動君」

「私には意見がありません」

 美音はパソコンの画面を見つめたまま、表情も変えずに応えた。

「そうか」

「先生」

 ふと思い立ったように顔を上げる。

「あれをなさるおつもりですか?」

「ああ、そうなるかも知れん。実に興味深い症例だ。何か問題があるかね?」

「いえ。先生がそう仰っしゃるなら」

 そして彼女は再びパソコンに向かうのであった。



 京都東警察病院。集中治療科の特別室にその娘は収容されていた。

 鼻から胃に続く栄養チューブ。鎖骨下の血管からは、中心静脈に続く血液ライン。尿を排泄させるためのウロパック。心電図、呼吸の酸素飽和度を測定するための医療器具等に囲まれながらも、少女は人形のように愛らしく穏やかに眠っていた。

「まさしく、眠り姫だな」

 摩生恭助がそう感想を漏らすほど少女の寝姿は美しい。

「近所では評判の美少女やそうです。学校でも密かにファンクラブができとる程で、事実彼女は小さなアイドル事務所に所属しとる話でした」

 武藤警部補は言った。

「アイドルね」

「とはいうても、テレビに出とるようなアイドルとは違ごうて、デパートのイベントや小さな劇場でパフォーマンスを見せる程度やろが」

「いわいる地下アイドルいうことですな」

 高村刑事が知ったかぶった。

「彼女は悩んでいたそうです。進学するか、それともこのままアイドル活動を続けるか。17歳といえばアイドルとしても、賞味期限ギリギリやろから」

「そういうものかな。僕はアイドルのことは良く知らないが、17歳と言えばまだ子供だぞ」

「先生。今は中学生、小学生のアイドルが普通におる時代ですねん」

「それでは親御さんも大変だろう」

「はい。もちろん父親は反対してますが、母親の方はアイドル活動には積極的に応援しているようです。なんでも若い頃にアイドルを目指したことがあったそうで、叶わなかった夢を娘に託したんやと思います。とはいえ父親のほうは頭から聴く耳を持たず、言い争いが絶えなかったいう話ですな」

「母親にしてアイドル世代か」

「ああ、言い忘れておりましたが、彼女の父は実父ではのうて養父だそうですねん」

「養父?」

「つまり義理の父いうことでんな。母親の涼子が7年前に離婚して、5年前にいまの若林慎太郎と再婚したゆうことですねん」

「そういうことか」

「ちなみに涼子は前の夫と結婚する前に、慎太郎の務める銀行に努めておって、彼の部下だったそうですねん。離婚等の相談にも乗っておったそうやから、そのあたりの事情で再婚することになったのと違いますやろか」

 武藤は花葉の寝顔を見つめながら言った。

「ところで、先生」

 花葉の病室には摩生と助手の石動の他、警察関係者からは武藤、高村の両刑事、それに担当医師の診療内科・石嶺医師が集っていた。新崎捜査官だけは別件があって席を外していた。

 摩生は石嶺医師に話しかけたのだ。

「彼女の様態はどうですか?」

「何とも言えませんね。外傷はなく、心臓にも呼吸にも異常は見られない。ただ、眠っているだけとしかいいようがありません」

「睡眠障害ということは?」

「先生の言われるクライン・レビン症候群とは少し違うような気がします。この場合は食事や排泄などの生理現象において、一時的に覚醒したり夢遊病のような行動を起こすもんですが、彼女の場合はそのような症状が一切ありません。ただ眠っているだけで、食事も採れず排泄もできまへせん。従って、チューブから栄養を補給しないと餓死してしまう状況です」

「このような症状は珍しい、と」

「少なくとも私には初めての症例です」

「それで、治療は?」

「現在のところ、受容体刺激薬と中枢神経刺激剤を投与しとります。それでだめなら、電気的な刺激も検討しようかと考えてますが」

「ふむ」

 と言って摩生は考え込んだ。

「ああ、それと。言い忘れておりましたが、彼女は妊娠しとります」

「妊娠?」

 高村が素っ頓狂な声を張り上げた。

「ええ、多分2ヶ月目くらいやと思います」

「妊娠ってセンセ、彼女は高校生ですねん」

「何を驚いている、高村君。初潮があれば、高校生でも中学生でも妊娠はする。そういう行為があればだが」

 摩生は冷たく言い放った。

「そない言うたかて、・・・ああ、もう。何て言えばええか・・・」

 頭を掻きむしっている高村を見て、美音がクククッと笑いを堪えている。

 摩生がジロリと睨む。彼女は顔を赤く染めた。

「済みません」

「どうやら高村君の言は、石動君の琴線に触れるようだね」

「どうも、すんまへん」

 武藤の拳骨が飛んだ。

「いや、褒めているんだ。謝る必要はない。・・・それより、石動君」

「はい」

 美音は元の無表情な彼女に戻って前に出た。

「石嶺先生。済まないが、少々診察をしたいのだが」

「診察? 先生がですか?」

「いや、この石動君がだよ。もっとも診察というには語弊があるが」

 今日の美音は濃紺のスーツの上下を着ている。スラリとした長身だけに、スタイルの良さが際立つ。女性ものスーツ独特の腰のくびれが眩しかった。

 素晴らしく細く長い指先で、少女の白い額に触れる。

「何しとるんやろ?」

 高村は武藤に囁いた。武藤は黙って見てろ、というように口元に指をあてた。

 美音は瞳を閉じた。薄紅色のフレームの中で、長いまつげが微かに揺れている。高村はその美しい横顔に釘づけになった。

 1分、2分。美音はひとつ息を吐き出すと眼を開いた。

「どうだ?」

 摩生が触診の結果を訊いた。

「はい。激しい動揺と、興奮を繰り返しています。・・・ハッキリ言って、彼女は寝てはおりません。多分、夢を見ています」

「夢?」

 摩生は少女の顔を見た。彼女の眼球は瞼の奥で激しく動いている。

「レム睡眠」

「はい。通常、睡眠ではレム睡眠とノンレム睡眠を繰り返すものですが、彼女の場合はそのほとんどがレム睡眠です」

 石嶺医師が言った。

「つまり、常に夢を見続けているというわけか」

 摩生は唸った。

「夢というのは覚醒時の情報を整理するために生じるという。彼女が目覚めないのは、データーの処理が終了しないためと考えられる。すなわち彼女の収集した情報は、彼女の情報処理能力のキャパシティを越えていたということだ」

「どない言うことですやろ?」

「彼女の体験した苦悩や悲しみは、彼女の精神の限界を突破したということですわ」

 首を捻る高村に美音が解説した。

「はあ?」

 それでもまだ良く判らないらしい。

「あくまでも僕の仮説に過ぎん。仮説を証明するためには実験が必要だ」

「実験?」

「石動君」

「はい」

 美音は深く頷いた。

「一体何が始まるんです?」

 高村が武藤に訊いた。

「まあ、見てろ。彼女は、石動さんは他人の夢の中に入れるんや」



 花葉の病室に様々な医療スタッフが集められ準備が始まっていた。

 彼女のベットの横に簡易ベットが運び込まれ、美音はそこに横たわっている。彼女は検査着に着替えさせられ、医療スタッフの手によって脳波計やら心電図らが据え付けられ、花葉と同じ状態にさせられているのだ。

「何が始まるんです?」

 部屋の隅に追いやられ行き場を失った高村は隣の武藤に話かけた。

「だから言うたろ。これから石動さんが花葉さんの夢に潜るんや」

「そないなこと、ホンマにできるんやろか」

「まあ、わしは一度この目で見とるさかい。それに彼女は石動家の人間やからな」

「石動家の人間? 何ですのん、それ?」

「石動家を知らんのか?」

 武藤はちょっと驚いた顔をしたが、すぐに思い直したように言った。

「そうか、お前は京都の人間やおへんか」

「はい。ナンバの生まれですよって」

 えへへと高木が頭を搔く。武藤は仕様がないなという顔をした。

「東の金剛、西のお不動いうてな」

「関取ですやろか」

「アホ。誰が相撲の話をしてんねん。代々、呪法を生業とした一族のことや」

「呪法?」

「人を呪い殺す商売や」

「怖いでんな。それで自分、足が遅うなったんかい」

「そのノロイやないで。ボケとる場合か、アホ」

「ナンバの生まれですよって」

 頭を叩いた。

「とにかく西のお不動、それが石動の一族や」

「今時、呪いなんちゅもんがあるんですやろか」

「さあな、わしは信じておらんが、そないなことを気にするもんは多いんや。それで一族の者は代々云われなき迫害を受けてきたんやな」

「あの石動さんがですか」

 高村は驚いて武藤を見た。

「彼女もそうやろう。表向きは何ら変わらんが、裏に回れば陰口を叩かれる。そんな思いは確実にしちょるはずやねん」

「ひどいやないですか」

 あの綺麗な美音がそんな目にあってきたと思うと胸が締め付けられるようだ。

「因襲とはそないなもんや。それとこれは摩生先生から聴いた話なんやが」

 声を潜めて続ける。

「平安の頃、石動家は禁裏を守る任務に就いていたそうや。「鬼払職」いうて都を騒がす鬼を呪法によって退治する仕事やねん」

「鬼?」

「まあ、鬼いうても「鬼のようなならず者」いう意味やろ。本物の鬼とはちゃうねん」

「で、どないなりましてん」

「やがて台頭してきた陰陽師によって石動家は排除されることになるんや。伝承によると安倍晴明と呪術合戦をして敗れたそうや」

「安倍晴明では相手が悪いでんな」

「で、野に下って自らが鬼になった。人を呪い殺す仕事を始めたちゅうことやな」

「ミイラ取りがミイラになったちゅう話でんな」

「まあ、そうやな。それにな、噂によると石動家の者は、五感の何かひとつが異常に発達しちょるという」

「五感?」

「視力、聴力、嗅覚、触覚、味覚の五つや」

 武藤が更に声を潜めて言った時、

「随分と面白い話をしているな」

 摩生の声が降ってきて、ふたりはビクリと肩をすくめた。

「武藤君の言う通り、石動君は聴覚に異常な特性を秘めている」

「絶対音感いうことですか?」

 聴覚と聴いて思い当たるのはそれくらいだ。

「それもあるが、彼女には「物の音」が聴こえるらしい」

「物の音?」

「あらいる物質には、固有の振動数というものがある。音は空気の振動であるから、物質の振動数を「音」に仮定すれば、すべての物質には固有の音があるということになる。彼女にはその固有の音を聞き分ける能力があるのだ」

「そんなアホな」

「正確に言うと、それは通常の「音」とは違うでしょう」

 何時の間にか石嶺医師も話に加わっていた。

「そう。正確には音ではない。一般に人が感知できるいわいる「音」というのは、20から20KHzの電磁波のことをいうからな。しかし彼女は人が感知できないある種の波長を、音として認識することが出来るようなのだ」

「信じられませんね」

 石嶺は言った。

「そして、他者の固有の音と自らの波長をシンクロさせる事によって、その人間の思考を読み取ることが出来る。すなわちシュアリングだ」

夢を共有する者ドリーム・シュアラーというわけですか」

「僕の仮説に過ぎない。仮説を実証するには・・・」

「実験をするしかありませんわね」

 美音が涼しい顔で言った。

「始めましょう、先生」

 実験が始まった。

 ふたりの身体には、12誘導の心電図計、酸素飽和計と脳波計の電極が装着されている。それぞれのモニターから伸びた配線は、別室のモニターで観察できるようになっている。彼女の集中を妨げないためだ。

 美音は少女の手首を握り瞳を閉じた。

 一同は部屋の電気を落として隣室に移った。マイクで美音とは連絡を取ることが出来る。

「聴こえるかね、石動君」

「はい。先生」

 美音の声が机上のスピーカーから聴こえる。

「30分だ。それ以上は危険だ」

「はい」

「では始めてくれ」

 するとモニターの心電図と脳波形に変化が現れた。それぞれバラバラだったふたりの波形が徐々に近くなり、やがてピタリと重なったのだ。

「すごい。全ての波長が完全に一致している」

 石嶺が唸った。

「シンクロした」

 摩生が言った。

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