第1章 止まない雨
1
ここは何処だろう、と私は思う。
何故、私はここに居るのか?
頭が痛い。割れるようだ。
何も思い出せない。何度か試みてはみるのだが、脳の奥底に巣くったモヤモヤとした何かが、虚しい努力を奪去っていく。
まるで底なし沼のようだ。少しでも気を緩めると、そのモヤモヤとした何かに吸い込まれそうだ。
それは恐怖であったが、同時にそれは甘美な誘惑でもあった。
私はもう、そこへは戻りたくはない。
眼が開かない。
音が聞こえる。水の滴る音・・・・
ああ、雨が降っているんだな。
私は思う。
苦痛から逃れるために、頭を振った。
額の先が硬い何かに当る。硬くて冷たいものだ。
それがガラスであることがわかる。
窓ガラスを叩く雨の音・・・
頭が痛い。
額を伝う軽い振動。かすかに香る排気ガスの臭い。
車? これは車のなか?
突然、激しい振動が私を襲う。私の体はシートに叩きつけられた。
「ごめん。起こしてしまったかい?」
右横の運転席から声が聴こえる。男の人の声。よく知っている声だ。
私のもっとも安心する声。
うっすらと眼を開く。
そこは見慣れた4WDの車内。私はドアの窓にもたれて眠っていたのだ。
「眼、覚めた?」
心配そうな彼の声。
頭が痛い。
「うん、大丈夫」
何が大丈夫なのだろう。
「よく眠っていたね、香夏子。死んじゃったかと思った」
それで自分の名前が香夏子であることがわかった。
・・・ああ、私は桂木香夏子なんだ。
可笑しな話だが、それが実感だった。まだ寝ぼけているらしい。
「うん、頭痛い」
私は運転席の彼を見る。
よく知っている横顔。彼氏、恋人、そう呼ばれる存在。
・・・でも、何で? 名前を思い出せない。
私は眉をひそめる。
「どうした?」
「なんでもない。どのくらい寝ていた?」
「うーん、高速を降りてからだから、30分くらいかな」
彼はハンドルを切る。車体が大きく揺れ、私の体は再びシートに叩きつけられる。
4WDは舗装路を外れ、脇道にはいったようだ。
「もう、静かに運転してよ、頭痛いんだから・・・」
言葉に詰まる。名前が浮かばない。
「ごめん、ごめん。ここからは山道だから少し揺れるよ」
窓ガラスを叩く激しい雨。周囲はすっかり暗闇に覆われている。車が揺れる度、上下にぶれるヘットライトの光のなかで、折り重なる木々が黒々とした地肌を晒している。
「雨、降っているんだ」
「ああ、ずっと降っているよ。気づかなかった?」
「いつから?」
「君が眠る前から」
頭が痛い。
「うそ。・・・そうだったかな」
そういえば、そんな気もする。
「寝ぼけているの?」
「頭が痛いの」
「もうすぐ着くから」
着く? どこへ?
「ねえ、何処へ行くの?」
「何処って、ペンションだろ、蓼科の。君が行こうって誘ったんじゃない」
蓼科・・・。ああ、そうか。私が旅行雑誌の記事を見て、彼を誘ったのだ。可愛いペンションがあるからって。料理はフランス料理の一級品で、おまけに今流行りのエステもある。
それで、この連休を利用して2泊3日の旅行に来ているってわけね。なるほど、なるほど、段々思い出して来たぞ。
由美子たちには内緒の秘密の旅行。由美子も彼には気があるからな。
私と彼が付き合っていると知ったら、どんな顔をするだろう。
「何、ニヤニヤしているんだい」
「別に。でも、ようやく思い出してきたわ」
マジ、寝ぼけてるん? ヤバイんじゃん?
「本当に寝ぼけているの? 大丈夫?」
あれ、この人こんな話し方したかな。
「大丈夫。ちょっとボーとしていただけだわ」
そう言っているうちからまたもや頭の奥が、モヤモヤしはじめた。ひどい頭痛で眼も満足には開けていられない。
折角取り戻したわずかばかりの記憶が、再び霧の彼方へとかすれてしまうような気がして憂鬱な気持ちになってきた。
車はかなり急な坂道を登っているらしい。舗装のしていない山道は、ところどころに大きな穴が開いているらしく、そこに車輪をとられる度に車体は大きく弾み、私の身体も左右に大きく揺さぶられた。
まるで、嵐の中のクルージングのようだ。ただでさえ痛む頭の芯を、これでもかというくらいにミキシングする。
私は耐えきれなくなって、苦痛のうめき声を漏らした。
「もう、いいかげんにしてよ」
「もう少しで着くから」
私がどんなに苦痛を訴えても、彼は「もう少し、もう少し」としか言わない。この人はこんなに薄情なひとだったのか。
私は彼の横顔を見つめながら必死で考える。
このひとの名前、このひとの名前。・・・・
どうしても思い浮かばない。
しばらくぶりに会った昔の友達だとか、ちょっと気にいったなと思う最近のアーチストの名前などをど忘れすることはよくある。しかし大好きな彼氏の名前を、思い出せないなんてことがあるのか?
やっぱり今日の私はどうかしている。
そういえば今朝の星占いは最悪だった。
人間関係でトラブルに巻き込まれるでしょう。余計な仕事を押しつけられそうです。どんな時にもマイペースで。
こういう詰まらないことはよく覚えているものだ。
「ほら、ようやく着いたよ。ここが君のあこがれていたペンションだ」
いつの間にか車は停車している。ヘットライトの光の中に、西欧風のしゃれた建物が浮かびあがっていた。
それを目にした瞬間、私の背中あたりを何ともいえない、ぞくぞくとする思いが駆け抜けた。それが俗に悪寒と呼ばれるものであることを知るのは、ずっと後になってからである。
2
雨は相変わらず降っていたが、ペンション前のスロープで玄関先まで乗り付けることが出来るので、私たちは濡れずに中へ入ることが出来た。
にこやかな貌をした初老の男が私たちを出迎えた。このひとがペンションのオーナーで、東京でも有名なフランス料理のシェフである。
名前は確か鵜ノ沢といった。
フランスの二つ星レストランで修行をした後、何とかいう賞を取ったのを手みやげに某有名ホテルのシェフにスカウトされたらしい。昔テレビで流行っていた、料理バトル番組に出場したこともある程の有名人で、彼の店はいつも行列が絶えない程の繁盛ぶりだったという。
その彼が有名ホテルのシェフの座を蹴って、なぜにこの蓼科の山奥でペンションなどを経営するようになったのか。理由はもちろんいろいろとりざたされよう。
東京での人間関係に嫌気がさしたのだとか、もともと都心を離れた静かな場所で小さな家族的な店を持つのが夢だったとか、雑誌のコメントには書かれているが本当のところはよくわからない。真実なんてものは、その人の胸の内にのみ存在するものなのだ。
私はミーハーで、たまたま見かけた旅行雑誌のページでこのペンションのことを知り、おいしい料理とエステがあったので予約を申し込んだだけだ。はっきり言ってフランス料理のことも、鵜ノ沢シェフのこともよくは知らない。
その話を彼にすると、彼は飛び上がって驚いて、
「よく予約がとれたな、そんな店」
と、言った。
確かにそのペンションの人気はメチャクチャ高く、おまけに1日5組限定だから、予約は3年先までいっぱいのはずであったのだが、私が申し込む直前にたまたまひと組だけキャンセルがあって、何の労もなく申し込めてしまったのである。
幸運といえば幸運なのだろうが、どうしても行きたくて狙っていたわけではなく、本当にたまたまだったので、それほどの実感はない。どちらかといえば、某人気バンドのコンサートチケットに当たる方がうれしいくらいだ。
もっともそんなことを彼に言おうものなら、
「このバチ当たり者」
とか言われて頭を叩かれるのがオチだから、決して口にはしない。
どちらにしても、彼とふたりきりでこうして旅行ができるというだけで、私には十分うれしいことなのだ。
「いらっしゃい」
と、ペンションのマスター兼オーナーシェフは、笑みを絶やさずに言った。
「あいにくの雨の中、大変でしたね」
「お世話になります」
彼もオーナーに負けない満面の笑みを浮かべて応えた。彼は、私以上にはこのオーナーのことを知っているのだろう、有名人を目の前にして少し上がっているようだ。
「車はどうしたらいいですか?」
「ああ、うちの者にやらせますから、そのままにしておいて下さい」
それで私たちは濡れることなくペンションに滑り込めた。代わって運転席に乗り込んだのは、私たちとそう変わらない年代の青年だった。
どことなくオーナーに顔かたちが似ている。息子なのだろうか。
そういえば、旅行雑誌には一家で経営しているペンションとの添え書きが載せてあった。
私たちは玄関のポーチをくぐって中に入る。
入った瞬間、またしても背筋を走る悪寒に苛まれた。
もちろん理由があってのことではない。建物の中は悪寒どころか、思わす感嘆の声をあげそうなくらい洒落た雰囲気が漂っていた。
玄関を入った1階ホールは、2階までの大きな吹き抜けだった。ホールというより高級レストランの室内といった印象だ。
事実そこは、食堂を兼ねているのだろう。両側の壁面に沿って5卓のアンティークなテーブルが並んでおり、部屋の中央には大きな北欧風のストーブがでんと置かれている。
バロック造りの壁面には、これまた西洋アンティークな小物が様々な形にデコレーションされており、やや落とし加減の照明がよくマッチしている。
玄関ホールだけで、高級フランス料理の店としてやっていけそうである。もっとも本格フレンチが売りのペンションだけに、当然といえば当然なのだろう。
正面には厨房とオーナー一家の生活スペースへと続く通路と、ラウンジへのガラスの扉。その横には2階の回廊へと続く階段が設置されている。下から見上げると、ぐるりの回廊に沿って等間隔に5つの扉が見える。
「まあまあ、いらっしゃいませ。大雨の中、大変でしたわね」
場違いに明るい声がしたので振り向くと、厨房へ続く通路の方から上品な感じの婦人が現れた。にこやかな笑みはオーナーと共通するものがある。恐らくこれがオーナー婦人なのだろう。
「さあさあ、文岳。お客様のお荷物をお持ちして」
文岳と呼ばれたのは、先ほど彼の4DWを駐車場に運んだ青年だ。車を置いて、いつのまにか戻っていたらしい。この青年がふたりの息子であることは明白だった。
文岳さんはブスッとした表情で私のバックを手に取った。機嫌が悪いのか、もともとそういう性格なのかは判断のしようがない。
「お部屋は2階になります」
と、オーナーが言った。
つまり2階の5つの扉がそのまま5つの客室となるわけで、どの部屋からでも一歩部屋を出れば、この高級フランス料理店風のホールを目にすることが出来る構造になっているのだ。
「お食事は7時からなので、まだ少々時間がございます。お部屋でおくつろぎ下さい。文岳、ご案内を」
文岳さんが私のバックの手にしたまま階段を上がろうとしたとき、2階の扉のひとつが開いてパイプを片手にした、長身の中年紳士が現れた。キザなスタイルが妙に様になっている。
泊まり客なのかなと思っていると、そのまま階段を降りてくる。どこかで見た顔だった。
「宇津木さま、お食事は7時からでございます」
オーナーが下から声を掛ける。
「知っているよ、オーナー。それより私の懐中時計を知らないか。確かラウンジに置いてきたはずなのだが」
「さあ、見てはおりませんが、後で探しておきます」
「まあ安物だからな、あまり気にせんでもいい」
私は彼の横腹を突っついた。
「あの人、見たことない?」
「さあ、誰?」
「宇津木春男、小説家だよ」
知らないの? というように文岳さんが割り込んだ。その人を小馬鹿にしたような口調に、ちょっとムッとしたが、日頃あまり本を読まない私にはどうでもいいことのように思えた。それはたぶん、彼も一緒だろう。
小説家が降りた階段を、文岳・彼氏・私の順番で登った。私たちの部屋は階段を登り切った場所から一番左の部屋である。ちなみに先ほど小説家の先生が出て来たのは、私たちの右隣の部屋であった。
「こちらのお部屋をお使い下さい」
文岳さんが慇懃に言った。
部屋の中はロッジ風の造りである。内壁や天板には幅広のノルディックパインが使用されており、明るく爽やかな印象を与える。
ベットはツインのウッドベット。私はベットがツインであることに少しホッとした。
反対側の壁には布張りのソファと小振りのテーブル。壁掛けテレビも大きい。
「夕食は7時からだって」
彼が荷物を解きながら話しかける。
「ここは女神湖の近くだけどこの雨じゃね」
どちらにしても頭が痛くてそれどころではない。私はベットに潜り込んだ。
「ちょっと横になる」
「大丈夫? まだ、頭痛いの?」
「うん、大分良くなってると思うけど」
「オーナーに薬もらってくるよ」
彼は部屋を出ていった。私はまだ彼の名前を思い出せない。そちらの方が問題だ。ため息をついて目を閉じる。
トン、トン、トン。
小さな足音。
目を開けると、目の前に6歳くらいの女の子の顔があった。
びっくりして思わず半身を起こす。
「お姉ちゃん。病気なの?」
大きな瞳。ツインテールの髪。小さな掌。
「大丈夫。寝ていただけよ。・・・あなたは、だあれ?」
「あたし、彩美ちゃん」
「そう、彩美ちゃんなのね」
手を延ばして頭に触れる。思わず口元が綻ぶ。
「どうも済みません」
開け放したままの扉のところに、きれいな女性が立って中を覗き込んでいる。
「彩美ちゃん、こっちいらっしゃい」
「ママ」
彩美ちゃんが振り返った。両手を広げて駆けていく。
部屋の中央で、ふと思い立ったように立ち止まった。
「わんわん、いたの」
「えっ」
「尾っぽの長い、黒くて大きなわんわん」
大きな瞳で訴え掛けるように少女は言う。再び背筋にあの悪寒が走った。
最初にこのペンションを目にした時に感じたあの感覚だ。
なんだろう? この感じ。
「やめなさい。彩美」
彩美ちゃんのママがたしなめた。
「ごめんなさいね。この子、時々変なことを言うのよ」
「ほんとよ。彩美、観たんだもん」
「はいはい」
親子は淀村と自己紹介した。母親は静江。大学教授をしている夫が何年かぶりで休暇が取れるというので、予てよりファンであったシェフの料理を楽しみにこのペンションを予約したのだという。
なかなか予約が取れないと聴いていたけど、思いのほかすんなり取れてびっくりしたわ。
そう言って彼女は笑った。
お陰で私の頭痛は大分良くなった。
代わりに何とも言えない胸騒ぎを感じるようになった。
黒い犬。
なんだろう。
3
夜になって雨はいっそう激しさを増してきた。
窓を叩く雨粒の音は、もう部屋の中にいてもはっきりわかる。
ペンション「鵜の花」。
一階のホール兼食堂に宿泊客の全てが集まっていた。これから話題のディナーが始まるのだ。
客は5組。4人掛けのテーブルが窓際に3つ。壁側の2つ。
その窓際の一番端に、私と彼が座っている。
窓の外は白樺の林だが、今は分厚いカーテンがかかっている。お陰で雨の音もそんなには響かない。
私たちのテーブルの向かいには、あの彩美という少女の家族。母親の静江と大学教授の淀村卓造氏。
大学教授というからもう少し年を取っていると思ったが、思ったよりは若い。40歳を少し出たくらいだろうか。教授ってこんなに若くてもなれるんだ。
その隣の席には、先程階段のところですれ違った宇津木とかいう小説家。彼は有名な小説家だというが私は知らない。もともと私は、あまり小説を読まないのだ。その向かいに座るのは、彼の奥さんだろうか。もの静かに見えるが、ひょっとしたら怯えているのかも知れない。どことなくおどおどとした感じが見受けられる。この小説家の先生がどれほど横暴な男かは知らないが、今時珍しいタイプの女性だと私は思った。
私たちの隣の席には感じのいい老夫婦。篠澤夫妻。
「喜寿のお祝いに孫が招待してくれたのよ」
と、幸せそうに笑う。
でも、わたしは洋食は苦手。出来るなら、和食のほうがいいわ。と、こっそり耳打ちをした。
そしてその隣。ホールの一番奥のテーブルには、ひっそりと初老の男が腰掛けている。連れはいない。
こんな洒落たペンションに初老の男がひとりで泊まるというのも珍しい。客たちの会話にも加わらず、ひとりで黙々と酒を運んでいる。
他の客たちの会話から工藤という名前であることはわかったが、どこから来たのかどういう仕事をしているのか誰も知らないのだ。
最後に彼が自己紹介をした。
「僕たちは××大の学生で、同じサークルに所属しているんです。僕の名前は・・・」
その時彼は確かに自分の名前を言った。そして、私は他のみんなと一緒にその名前を聴いた。確かに聴いたはずである。しかし私は、私の脳はそれを認識しなかったのだ。
そんなことがあるのだろうか。
私の脳は、彼の名前だけを記憶しなかったのである。
私は激しく動揺していた。
「あなたの名前は?」
彩美ちゃんのママが訊いてきた。
「私は香夏子。・・・桂木香夏子です」
「そう、いいわね。若いって。彼氏?」
顔を赤くして恥じらっていると、夫の淀村教授がたしなめた。
「よせよ。余計なことに立ち入るのは」
「あら、いいじゃないですの。いまが一番楽しいときよ。ねえ」
「はい。楽しいです」
彼が元気よく応えた。本当にデリカシーのない奴。
そうこうしているうちにディナーが始まった。
前菜はサーモンの燻製とバジル風味のジャガイモのテリーヌ。
スープはあさりとジャガイモのクラムチャウダー。
魚料理のメインは鮮魚のポワレ、ラタトゥイユとブールブランのソース。
肉料理は蓼科和牛ステーキの赤ワインソース、バルメザン風味。
そして、隣室のラウンジに席を移してのデザートタイム。こちらでは思い思いのソファに腰を下ろして、デザートを楽しむことができる。
ラウンジも漆喰の壁、アンティークな家具、ソレイユのソファなどフランス風にまとめられており、全体的に19世紀のヨーロッパの香りが感じられる。
バロック風のチェストの中には様々なアンティーク・ドールが飾られている。鵜ノ沢婦人の趣味なのだという。
ガラス戸の向こうはベランダで、ここから庭に出ることが出来るのだが外は激しい雷雨だ。今は緋色の遮蔽カーテンが足元まで掛かっている。
食堂に居た全員がこのラウンジに集まっている。私たちはアンティークチェストの前の席に腰をかけて、デザートのグレープフルーツのカンパリゼリーとパイナップルのソルベを楽しんでいた。
「こんばんは」
声を掛けてきたのは、篠澤婦人であった。
「どうですか。フランス料理は楽しめました?」
「ええ、ええ。お陰さまで、とても美味しゅうございましたわよ。長生きはするものですね」
「それは良かったですね」
「和食の方が良かったなんて、悪かったかしら」
ふたりで笑い合っているところに、篠澤の旦那さんが現れた。
「話の最中悪いが、わしのメガネ知らんか?」
はいはい。
婦人は穏やかな笑顔を見せた。
「お部屋のテーブルに置き忘れたのでしょう。取ってきましょうね」
「わしも行くよ」
仲良く連れたって階段を登って行く後ろ姿を見送って、彼に声を掛ける。
「ステキなご夫婦ね」
「ああ、僕らもああなりたいものだな」
うふ。
何か幸せな気分になってきた。
そこへ本日の主役、鵜ノ沢夫婦が息子の文岳さんと共に現れた。
「皆様、本日はようこそお出でくださいました。お食事は楽しんでいただけたでしょうか」
美味しかったわ。ステキでした。とてもデリシャスだった。
口々に称賛の言葉が飛び出す。シェフはそれに笑顔で応えていた。
その時だった。
不意に天井のシャンデリアが瞬きだし、そしてふっと消え失せたのだ。
「キャー」
という女性の悲鳴が響いた。人は本能的に暗闇を怖がる。ふいに明かりが消えると、誰しも不安に苛まれるものだ。
不思議なもの。明かりが消えただけで、雨の音がそれまでより大きく聴こえる。
「あーん、あーん」
暗闇の中で火のついたような子供の鳴き声が聴こえる。彩美ちゃんだろう、かわいそうに。
お母さんが必死で慰めている。
「わんわん、怖いの。わんわん」
彩美ちゃんは泣きながらそんなことを言った。
わんわん? 犬? 何であの子はそんな事を言うのだろう。
また、あの嫌な感覚が蘇る。
「落ち着いて下さい、停電のようです。見てきましょう」
そして息子になにやら命じたようだ。暗闇の中で誰かが移動する気配が感じられた。
しばらくして、また不意に明かりがついた。
「ブレーカーが切れただけのようです」
戻ってきた文岳さんが報告した。手には懐中電灯を握っている。
「皆様、お怪我はありませんか」
オーナーが言った。部屋の中の人数には変わりはない。・・・いや。
「停電前に篠澤夫婦がお部屋に上がりました。多分、大丈夫とは思いますが」
私は妙な胸騒ぎを感じて言った。
「わかりました。見てきましょう」
オーナーはちょっと考えてから、息子と一緒に部屋を出て行った。
明かりが点いても不安は拭えない。皆同じ気持ちなのか、誰も口を開く者はいなかった。彩美ちゃんのしゃくりあげる声だけが、ラウンジに響いている。
「奥さん」
すると、それまで黙りこくっていた工藤という一人客が初めて口を開いた。
「コーヒーを入れていただけませんか。場が湿ってしまった」
「あっ。そうですわね。・・・コーヒー入れましょう」
鵜ノ沢婦人は思い立ったように厨房に向かった。
暖かい飲み物を戴くと、少し気持ちが落ち着いく。私はこの工藤という無愛想な男に、心の中で「ナイスジョブ」と言った。
やがて鵜ノ沢親子が浮かない顔で現れた。
「どうでしたの? あなた」
「それが、不思議なんだ。どこにもいらっしゃらない」
「どこにもいない?」
工藤さんが眉を潜めた。
「篠澤夫婦がいなくなったとおっしゃるのですか?」
「はい。お部屋はもちろん、ペンションの中は全てあたったのですが、どこにもいらっしゃらないのです」
まさか。
私の中の不安はますます大きくなった。
消えてしまった?
4
部屋の中に不穏な空気が渦巻いた。
停電の間に篠澤老夫婦が消え失せてしまったというのだ。
「ペンションの中はすべて調べたのですか?」
工藤さんが言った。
「はい。もちろんお客様の部屋は別ですが、それ以外はすべて」
「篠澤さんのお部屋は?」
「鍵が開いていたので覗いてみましたが、誰もおりませんでした」
「荷物は?」
「そのままでした」
工藤さんはちょっと考えたが、鵜ノ沢オーナーと目で会話してから皆に向き直った。
ふたりは知り合いなのだろうか?
「皆さん。ご覧のような事情ですので、少々ご協力お願いしたいのですが」
「ちょっと待って下さい」
小説家の宇津木氏が口を挟んだ。
「先程から場を仕切っておられるようだが、君は何者ですか?」
工藤さんは鵜ノ沢オーナーを見やった。オーナーはうなずいて説明を始めた。
「この方は私の古い知り合いで、東京警視庁の刑事さんなんです」
ほう。というため息にも似た空気が流れた。
「元ですがね。退職しましたから。ですから、ここは私に任せていただけませんか」
そう言われれば宇津木氏も黙るしかない。
「取り敢えず篠澤さんのお部屋に行ってみましょうか」
客たちの半分はその場に残り、半分は工藤元刑事について2階に上がった。ついて行ったのは、オーナーの鵜ノ沢、その息子の文岳、小説家の宇津木、大学教授の淀村、そして私と彼の6人。
篠澤夫妻の部屋は階段を上がって、右に二つ目の部屋。私たちの部屋のホールを挟んだ反対側だ。部屋の扉は開け放たれ、廊下からでも中は丸見えであった。こちら側は庭に面しており、ガラス戸には緋色のカーテンが足元までかかっている。
部屋の中は綺麗に整頓されており、荷物は解いたままであった。
「あ」
私は思わず声を上げた。
「どうしました?」
「メガネがあります」
私はベットサイドテーブルの上のメガネを指差した。
「篠澤さんはラウンジを出るとき、メガネを取りに行くと言っていました。そのメガネは部屋のテーブルの上にあると」
「すると篠澤さんはメガネを取りに2階に上がって、ここに行き着くまでに失踪したというのですか?」
「夫妻が2階に上がるのは、ラウンジの扉から確認しました。階段からここまでホンの数歩ですよね」
「その間に停電が起こったのですよね」
不思議なことがあるものだ。
工藤さんは2階のベランダに出るガラス戸の戸締りを確認していた。
「玄関の扉には鍵は掛かっていますか?」
「はい。回転式なので内側からは開けられますが、鍵がなければ外から掛けることは出来ません」
「もっともこの風雨の中、外へ出たとは考えにくいな」
淀村教授がカーテン越しに、暗い庭を眺めながら言った。
「申し訳ありませんが、皆さんお部屋の中を改めさせて下さい」
工藤さんの提案に人々は顔を見合わせた。
「あくまで念のためです」
最初は工藤さんの部屋からだった。
工藤さんの部屋は篠澤夫婦の右隣、玄関ホールから階段を上がって1番右はじの部屋である。篠澤夫妻の部屋もそうであったが、基本的に内装はどの部屋も変わらない。ロッジ風の造りである。
部屋の中にはボストンバックがひとつ。まだ荷物を解いてすらいないようだ。
次いで篠澤夫妻の左隣。すなわち階段を上りきってすぐの部屋は、大学教授の淀村一家の部屋。その隣は小説家の宇津木先生の部屋。そして一番左端が私たちの部屋となる。
私たちは順々に全ての部屋を見て回ったが、特別に変わったところは見当たらなかった。
もちろん篠沢夫妻の姿も、である。
「鵜ノ沢オーナー」
最後に工藤さんが言った。
「申し訳ないが、あなたのお宅も見せてはいただけませんか。こうしてお客さまのお部屋も見せていただいたことですし」
「わかりました」
鵜ノ沢オーナーは少し考えてから頷いた。
オーナーの自宅はペンションに隣接しており、厨房の奥から行かれるようになっている。そこは2LDK程の小ざっぱりした住宅であった。もちろん夫妻の姿はない。
工藤さんは考え込んだ。
「あとは外に出たとしか考えようがないですな」
小説家は腕を組みながら言った。
「しかし、この雨ですよ。老夫婦が外に出たとは考えにくいですね」
淀村教授が首を振る。私の彼もそれに同意した。
「ペンションを出たなら玄関の鍵が開いているはずです。しかし鍵は掛かっていました」
「玄関から出たとは限らない」
「外に出るガラス戸の鍵も全て閉まっていたはずです」
「オーナー」
ふたりの言い合いを工藤さんが遮った。
「庭先に風雨を遮る倉庫のような物はありませんか?」
「物置はありますが、鍵は掛かっています。あと車のガレージ、こちらは鍵は掛かってません」
工藤さんは頷いた。
「分かりました。一応調べてみましょう」
「でも、ペンションを出た形跡はないのですよ」
彼は食い下がった。
「わかっています。あくまで念のためです」
工藤さんはオーナーを促して玄関に向かった。
「それでは私もお供しましょう」
宇津木氏が後に続く。
「私は遠慮しておきます。家族が心配ですから」
淀村教授は残ることになった。彼はどうするのかと見ていると、のこのこと一同の後に付いて行ってしまった。
もう、野次馬なんだから。
玄関の扉が開くと、もの凄い雨風が吹き込んでくる。もはや嵐といってもよかった。
「君は止めとけよ。危険だ」
彼が言う。もちろんハナから行く気はない。ただ、彼が心配なだけだ。
その時、雷の閃光が瞬いた。
その一瞬の光の中に、私は見たのだ。
庭先のなだらかな丘の向こうに、ぽつんと佇む黒い影。異様に長い尻尾を、前に垂らした巨大な獣が後ろ脚で立っていた。
「見た?」
私は彼の腕を引っ張った。
「え、何を?」
合羽を着ることに夢中になっていた彼は、その一瞬の映像を見逃したのだった。
「彩美ちゃんの言っていた、わんわん。黒い犬」
「何だって?」
私は一瞬の内に決断していた。
「私も行くわ」
5
結局、嵐の庭を調べに行くのは元刑事の工藤、オーナーの鵜ノ沢、その息子の文岳、小説家の宇津木、そして私とその彼の6人となった。
玄関を出たところで、文岳さんがふいに立ち止まったので、すぐ後ろにいた私は危うく彼の背中にぶつかる所であった。
「どうしたの? 文岳さん」
彼はペンションの2階を見つめている。
「2階のガラス戸が開いている」
私も連れられて2階を見上げた。確かに2階のベランダに続くガラス戸が開かれており、カーテンが風に揺れていた。
「あれは篠澤さんの部屋ですな」
宇津木氏が言った。工藤さんが首を傾げる。
「おかしいですね。ガラス戸の戸締りは確認したはずですが」
「僕が見てきましょう」
文岳さんが言って、踵を返した。その背中に父が声を掛ける。
「ひとりで大丈夫か」
「大丈夫です。様子を見てくるだけですから。すぐに戻ってきます」
そのやり取りを聴いて、私はなんとは言えない不安な気持ちを抱いたが、彼氏の手前一緒に行くとは言えなかった。その事を私はずっと後悔することになるのだ。
ペンションに向かう文岳さんを見送って、私たちは庭に出た。風雨は激しさを増し、ごうごうと吹き付けてくる。
「この先はどうなっているのですか?」
私は風音に負けない大声で鵜ノ沢オーナーに聴いた。
「ここは高台ですから、この下はなだらかな丘陵地帯になっています。天気が良ければ遥か女神湖まで望めるはずです」
それがどうしました。というようにオーナーは言った。私はずっと気になっていたことを話した。
「犬ですか?」
「後足で立っていたのです」
「さあ、そんな犬は見たことないですね」
「多分、彩美ちゃんが見た犬と一緒だと思うのですが」
そんな話をしている間にガレージに到着した。ガレージの中には3台の車が並んでいる。鵜ノ沢オーナーのクラウンと宇津木氏のベンツ。そして淀村教授のBMWだ。彼氏の4WDはガレージの手前に停められていた。
2坪程の物置はその奥にあった。
一同はその周囲を調べてみたが、老夫婦の姿はもちろん誰かが潜んでいた形跡さえも伺えなかった。
「やはり近くにはいないようですね。戻りましょうか」
工藤さんが諦めたように言った。
帰り際に2階のベランダを見上げると、ガラス戸はまだ開いたままでカーテンが揺れていた。すぐに戻って来ると言った文岳さんも戻ってこない。少し妙であった。
「工藤刑事・・・いや、工藤さん。少し気になることがあるのですが」
風に揺れるカーテンを見上げながら鵜ノ沢オーナーが言った。
「何ですか?」
「あの停電のことなんですが、ブレーカーが落ちたといいましたが、あの時私たちはブレーカーが落ちるほど電力を使用してはいなかったはずです。どうしてブレーカーが落ちたのかずっと不思議だったのですが」
その時私は、自分が感じた不安が黒雲のように広がるのを感じていた。
「あの時はペンションに居る全員が、ラウンジに集合していましたよね」
「はい」
「ブレーカーの位置はどこですか?」
「階段を登りきった壁の上側です」
工藤元刑事の顔色が変わった。
「わかりました。急ぎましょう」
工藤さんは殆ど走り出すように先を急いだ。私たちは後を追うのがやっとだった。
「これはヤバいことになりそうだ」
彼が工藤さんの後を追いながら呟く。
「どういうこと?」
私は自分の感じた不安を口にするように彼に尋ねた。
「ブレーカーが自然に落ちたのではないということは、誰かが故意に落としたってことだろ」
「それは解るけど」
「ブレーカーが落ちた時、失踪した篠澤さん夫妻以外は全てラウンジに集まっていた。つまりブレーカーを落とした人物は外から侵入した人物といえる」
そこで私はようやく自分の感じた不安の正体に行き当たった。
「しかしドアにも窓にもすべて鍵が掛かっていたはずよ。その人はどうやってペンションに入ったの?」
「篠澤夫妻が招き入れたとしか思えない」
「なんでそんなことをしたの?」
「外はこの通りの暴風雨だ。そんな中にびしょ濡れの人間が立っていたら、誰だって扉くらい開けるだろ。そしてその後何らかのトラブルがあって、篠澤夫妻は失踪した」
「ちょっと待って。篠沢さんが2階に上がって停電するまで何分もなかったはずよ、あの短い間にそんな事が起こったと言うの?」
「確かに時間的矛盾は感じるけど・・・」
ペンションに戻った時、一同はまだラウンジに残っている。ただ、彩美ちゃんが眠いとぐずったので、静江婦人とふたりは自室に戻っていた。
「文岳はどうした?」
鵜ノ沢オーナーは婦人に問うた。
「先に戻ってきて、2階に上がって行きましたよ」
「2階から降りてはきていないのだな」
「そういえば・・・何をしてるのかしら」
鵜ノ沢オーナーは工藤元刑事と顔を見合わせ、階段に向かった。私たちも後を追おうとしたが、工藤さんに止められた。
「あなたたちは、ここで待っていて下さい。ふたりで様子を見てきます」
私たちの不安が伝染したのか鵜ノ沢婦人も小さく震えていた。私はその肩をそっと抱えた。
しばらく経った頃・・・
「おおお・・・」
という叫びにも似た鵜ノ沢オーナーの声が響いてきた。
不安は的中した。
一同は先を競うように階段を駆け上がった。静江婦人が驚いたように自室から顔を出す。
篠澤夫婦の部屋の扉は開け放たれていた。部屋の電気は消えてたが、それでも時折閃く雷光で中の様子は伺えるのだ。
ベランダに続くガラス戸は大きく開かれ、緋色の遮光カーテンが舞いをまっている。
化粧台の前に置かれていたはずのイスがガラス戸の前に転がっている。
カーテンの前には工藤さんが愕然と立ち尽くし、その足元には鵜ノ沢オーナーが跪いていた。そしてその前には仰向けに倒れた文岳さんの姿が・・・
死んでいる?
稲妻が轟いた。
目の前で鵜ノ沢婦人がふらりと倒れた。私と彼とが辛うじてその身体を支える。
「皆さん。一度下へ戻って下さい」
工藤元刑事が言った。
何が起こったのか、私には理解が出来なかった。
文岳さんはただガラス戸を閉めるためにこの部屋に上がったのだ。そのとき2階には誰も居なかったはずだ。・・・いや、淀村親子が隣の部屋に居たのかも知れない。
それにしても、何故彼は死ななければならなかったのか?
いや、まだ死んだとは限らない。気を失っているだけかも知れないのだ。
しかし、工藤元刑事の落ち込みよう、鵜ノ沢オーナーの嘆き様を見ても只ならない事態は明らかだった。
私と彼は鵜ノ沢婦人に肩を貸してラウンジに戻ってきた。そのほかの人たちも前後して戻って来る。
最後に静江婦人が娘の彩美ちゃんを抱いて降りてきた。
眠りを妨げられた彩美ちゃんが、火が付いたように泣き出した。
「××君」
突然名前を呼ばれた。私ではない誰かの名前。このペンションの中には存在しない名前。・・・
でも、何故か聴き覚えのある声。すごく身近な。
誰?
振り向く。目の前にはバロック風のチェスト。その中の人形に眼がいった。
大きな帽子を被った金髪の可愛らしいお人形。確かエーリッヒ・ケストナーの作品だったような。
ブルーの瞳に吸い寄せられる。
このお人形が? まさか・・・
すると人形の口が動いた。
「時間だ」
人形が喋った!
そして私は気を失ったのだ。