第二章 ウィアッド 1
トーアは小鳥がさえずる音に目を覚ました。
ゆっくりと目を開けた前にはほっそりとした手があり、何度か握るのと開くのを繰り返した。寝ぼけた頭が状況をゆっくりと理解して身体を起こす。トーアの視界にさらりとした黒髪が入った。
「ああ……うん、そっか」
昨日、何が起こったのかを思い出したトーアは大きく背伸びをしてベッドから降りて、欠伸をかみ殺しつつ昨日受け取った服に着替えた。カテリナから受け取った服は昨日のものとデザインは同じだったが袖口や首元の飾り糸の色が異なっていた。
髪はひとつにまとめて、身だしなみを整えるためにタオルと歯ブラシ、歯磨き粉を手にしてサンダルを履いてトーアは部屋を出る。廊下には丁度、カテリナがトーアの居る部屋に向かって歩いてきていた。
「おはよう、トーアちゃん。よく眠れた?」
「おはようございます、カテリナさん。はい、ぐっすり眠れました」
昨日は【神々の血脈】使用後の反動で意識を失うように眠りについているため寝付けないということもなかった。トーアの身体には反動の名残はなく体調は万全である。
「そう、よかったわ。なら顔を洗ってきなさい。その後に宿の方で朝御飯にしましょう」
「はい、カテリナさん」
昨日と変わらず上機嫌なカテリナと別れてトーアは裏庭に出る。昇り始めた朝日が裏庭を照らしていく様子を横目に井戸の中へ釣瓶を落とした。滑車が立てるカラカラという乾いた音を聞きながら、傍らに裏返されて積みあがった桶を一つ取り、水を入れる用意をする。
すぐに滑車の音が止まり、トーアは縄を引いて釣瓶を引き上げていく。
「……あれ?」
滑車は軽快な音を立てて釣瓶が井戸の底からあがってくる。重たいと思っていたトーアは拍子抜けしてしまった。
桶に水を移した後は顔を洗い、獣毛が使われた歯ブラシで歯を磨く。
昇っていく朝日に目を細めながら、トーアは先ほどの釣瓶を引き上げた時のことを考えていた。今のステータスではこれくらいの重たさなら軽いらしい。もっと重たいものを持つという機会があれば、どこまで持てるか試してみようと考えた。
口をすすいだ後、髪を軽く整えて三つ編みで編み上げる。
「よし、今日からがんばろう」
トーアは頬を軽く叩いて気合を入れた。この世界に来た経緯はどうであれ、今、生きているのだからと朝日を真っ直ぐに見た。
桶を片付けた後、歯ブラシやタオルをおくため、一度部屋へと戻る。
部屋でタオルを干しながら、チェストゲートに収納するという考えが頭に浮かんだが、ある疑問にチェストゲートを発動しようとした手を止めた。
――チェストゲートやホームドアはこの世界でポピュラーなスキルなのかな?
CWOでは課金すれば簡単に手に入ったが、この世界で珍しいものであれば隠しておいた方がいいかもしれなかった。どうにかして確認する方法を考えながら、トーアはエプロンを手に宿へと向かう。
調理場ではカテリナとエリンが竈の前に立って、宿の朝食の用意を進めていた。あたりにはパンの焼きあがる香ばしい香りや、ベーコンの焼ける音が響いていた。
「おはようございます」
「おはよう、トーア。よく眠れたかい?」
「はい、ぐっすり眠れました」
「そいつはよかった。さ、私らの朝食をテーブルへ運んでおくれ」
トーアは頷いて、竈から出したばかりでチリチリと音を立てるパンが入った籠や、エリンとカテリナが用意していた目玉焼きとカリカリのベーコン、丸々とした腸詰めが盛られた皿をテーブルへと運ぶ。
おいしそうな匂いにトーアの口の中は唾液で一杯になり、こっそりと飲み込んだ。お腹が鳴らないように少しだけお腹に力を入れる。
テーブルには先に新鮮な野菜が盛られた木製のサラダボウルやジングジュースの入った酒瓶、ホワイトカウのミルクが入った瓶がおかれていた。
「おはよう、トーア君」
「デートンさん、おはようございます」
テーブルにはデートンが座っており、羊皮紙の束を難しい表情で眺めていたがトーアに気が付くと羊皮紙を丁寧に丸めて傍らに置いた。
人数分の皿をテーブルに運び終えるとミッツァが最後に調理場に現れた。
「それでは、いただこう」
全員がテーブルについて、家長であるデートンの言葉にそれぞれが朝食を摂り始める。トーアはいただきますと心の中で呟き、焼きたてのパンを手に取った。
丸く成型された全粒粉のパンは熱々で多少パサつきはあるものの、中の柔らかな生地を噛んでいると穀物の風味が口の中にゆっくりと広がっていく。サニーサイドアップで焼き上げられた目玉焼きは黄身をつぶせばとろりと流れ出し、ゆっくりとカリカリになるまで焼かれたベーコンは旨みを残しており、茹でられ皮がパリッとはじける腸詰めと、テーブルに並ぶ食事は絶品かつボリュームがあった。
朝食を進めながらデートン達は、宿のことについて話をしていた。トーアは食事を続けながら耳を傾けて、注意することがないか話を聞いていたが、特に注意することはなかった。
デートンの視線がトーアに向いたのに気が付き、口の中の物を飲み込んだ。
「トーア君、昨日君に言ったとおりカテリナの手伝いをお願いするよ。内容は食事時の配膳と、シーツ類の洗濯、掃除と言ったところだね」
「はい、わかりました」
デートンの言葉にトーアが頷くと、四人は微笑みを浮かべていた。
トーアは、自分が奉公に来ている少女か何かになったような気分になり、考えてみればあんまり間違っていない事にこっそりとうな垂れる。
「洗濯は大変かもしれないけど、村の人たちも手伝ってくれるから大丈夫だから」
「無理はするんじゃないよ?」
「は、はい」
トーアが駅馬車代を稼ぐ為に無理をしているように見えるのか、カテリナからは励まされるように、エリンからは少しだけ困ったように言われる。無理してる訳じゃないんだけどなぁとトーアは思いながら返事だけにとどめた。
朝食後、トーアはカテリナとともに食器を片付けて、エプロンと三角巾を身に付ける。調理場の裏口から裏庭の井戸を使う宿泊客の姿が見え、食堂にも宿泊客が現れ始めていた。
朝の仕事である食事の配膳が始まる。手を挙げた宿泊客にトーアは近づく。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。今日のメニューは……」
トーアはカウンターの傍に立てかけられた小さな黒板に手を向ける。
黒板にはエリンが味のある綺麗な文字でメニューを書き込んである。上からトーア達の朝食として食べたメニューと同じもの、ベーコンエッグから目玉焼きを抜いてベーコンステーキに変更したもの、ベーコンと葉野菜をパンに挟んだ手軽なものとスープのセットメニューとなっている。また、メニューについてはある程度融通が利くことも注意書きとして書かれていた。
「あちらの黒板に書かれています。代読が必要でしょうか?」
「いや、大丈夫だよ」
昨日、夕食時の配膳で代読が必要な場合があるから一応確認するように言われており、トーアはしっかりと確認する。宿泊客からの注文を聞いて、配膳口からデートンに注文を伝えた。
出来上がった料理を別の客に配膳しているとトーアは妙に店内からの視線を感じていた。辺りをそれとなく見渡して視線の元を探すが、デートン達は仕事に、宿泊客たちは綺麗に前を向いて食事をしていた。
トーアは思わず眉を寄せて小さく首を捻った。そして、なぜかカテリナに後ろから抱き締められる。どうしたのだろうかとカテリナを見ると、咎めるような視線を店内に向けていた。
「トーアちゃんって鈍感?」
「え……いや、そんなことはないと思いますけど……」
視線には気が付いていたし、師匠との訓練でそういうものには敏感になっているはずとトーアは思ったが、カテリナは小さくため息をついていた。そして、知らない人について行ってはダメよ?と小さな子供に言い聞かせるように言われ、トーアはますます混乱した。
朝食を終えた宿泊客達が思い思いに過ごし始めて食堂の忙しさが一段楽した頃、トーアはこっそりと息を吐いた。ウィアッドの宿は周辺の村からも駅馬車を利用する客が来る為か宿泊客は多く、また村の住人達も食堂を利用しているようだった。宿泊客には、旅人、商人だけではなく“冒険者”と呼ばれる職業の人々も居た。
トーアが配膳しているときに話しかけてきた、自称冒険者志望だという青年はトーアが聞いても居ないのに冒険者について説明をしてくれた。
曰く冒険者とは、街にある冒険者互助組合、通称ギルドにて登録を行うことでなる事ができるという。様々な依頼を受けて未踏の土地や遺跡、迷宮を探り、お金を得る職業の人々のことを言うとのことだった。
説明した青年もこれから迷宮都市ラズログリーンと呼ばれる街に向かい、有名になってみせるとの事だった。
トーアは、がんばってくださいね、と笑みを浮かべて言うと、青年はなぜかうちひしがれた表情になりがっくりと肩を落とした。そして更に何故か周りの宿泊客達が青年の肩を叩いていた。
今になってそれが何であったのかトーアは思いつく。
――あれはもしかして、ナンパとかそういう類のものかも。それならもう少し……かっこいいくらいはリップサービスしてもいいかもしれなかったけど……でも、変なこと言って面倒な事になっても困るし……。
そういう視線に鈍感どころかまったくわかっていないことにトーアは今更ながら気が付いた。そして、カテリナに鈍感?と聞かれた意味もこの事だったのかもと遅れて理解する。外見は女になっているのだから、そういう視線にも気を付けなければならないと考えを改めた。
「トーアちゃん、いいかしら?」
「はい。なんですか、カテリナさん」
「お客さんも少なくなったことだし、私達は洗濯に取り掛かりましょう。洗濯場に村の人たちも出てくる時間だから」
「わかりました。配膳の方は……」
「義母さんが代わるわ」
カテリナの案内で共に宿のリネン室へ向かう。リネン室には綺麗に折りたたまれたシーツが棚に積まれ、使用済みのシーツが一抱えあるような深いかごに山積みにされていた。
「宿の井戸でこれを洗濯するんですか?」
「さすがに泊まっている人たちに迷惑になるから村の共同洗濯場に行くわ」
「なるほど」
トーアは籠に近づくと横に出ている籠の取っ手に手をかける。
「流石におもた……い……」
「んしょ」
籠は釣瓶を引き上げた時よりも少し重たい程度だったが、トーアは持ち上げてみせた。
カテリナの言葉が不自然に途切れたのにトーアは疑問を持って振り返る。カテリナは目を見開いてトーアを見ていた。その様子にトーアも驚いて少しだけ身体を引く。
「あ、あの、カテリナさん、その洗濯場ってどこにあるんですか?」
「え、えっと……ちょ、ちょっと待って、トーアちゃん、かごを一旦置いて、ね?」
慌てふためくカテリナに戸惑いながらトーアは籠を一旦床に戻す。その籠をカテリナが持ち上げてみせるが、動けないようだった。籠を置いたカテリナは続けてトーアに近づいてくる。腕をとられ、何かを確かめるように腕を揉まれる。くすぐったさと恥ずかしさに顔が熱くなる。
「カ、カテリナさん?」
「……私より細いかも。……トーアちゃんのステータスってすごいのね」
「は、はい……そうみたいですね」
トーアは少しやりすぎたと思いながら、再び籠を持ち上げる。カテリナはシーツを小さめの籠に移して持上げていた。本来は大きな籠から小さな籠に移してから運ぶものらしい。
「無理しないでね?本当なら何度も分けて運ぶ量なんだから」
「大丈夫です。もっと重くてももてますよ」
トーアの言った言葉に、カテリナは顔を引きつらせながら、そう、と呟いていた。
もっとこっそり確認すればよかったと思いながら歩き出したカテリナにトーアはついていく。宿の裏口から出た後、少し歩き共同洗濯場に到着する。
遠目からもシーツの山が近づいてくる様子は、村の女性達が驚くのに十分だったようで、トーアが持っているということに更に目を丸くしていた。
そして、シーツの踏み洗いを行い、濯ぎを終えたシーツをトーアが絞ると勢い良く水が滴り落ち、女性たちが歓声を上げる。そして、何故かカテリナと同じようにトーアの腕を取って珍しそうに揉むのだった。