第九章 二人の秘密 1
茂る木の枝を避けるため身体を屈め、森の中を進む。
初めて商品を出品したオークションが終わった翌日、トーアはエレハーレの南側に広がるセンテの森を探索していた。
センテの森に来た主な目的は決闘の間にギルドランクが昇格したギルとフィオンのお祝いや、アリシャの工房に勤めることとなったアメリアの就職祝いを探す為で、ついでに手甲付グローブの使い心地を試すためだった。
――この辺りの大物と言えば、やっぱりブラウンベアかな。……結構、森の奥のほうに来ているし、そろそろ姿を見せてもいい頃だと思うけど。
ウィアッドの時とは真逆のことを考えながら草薮を掻き分けて森を進んで行く。魔獣の気配を感じてその方向へと足音を立てないように移動して草むらから様子を窺うと、泉で水を飲むブラウンベアを見つける。
あたりに他の強い魔獣が居ない事を気配を探って確認し、無防備にブラウンベアの前に姿を見せた。すぐにトーアに気が付いたブラウンベアは唸り声を上げて僅かに体勢を低くした。
ブラウンベアを真っ直ぐに見ながら軽い足取りで近づくが、ブラウンベアは余計に警戒したのか低い唸り声を上げはじめる。センテの森の絶対強者であるブラウンベアの唸り声に辺りに小鳥や姿を隠していたホーンラビットが音を立てて逃げて行く中、トーアはブラウンベアの前で拳を前にした構えをとる。
「ガアアァァッ!!」
咆哮とともに立ち上がったブラウンベアは右前足を引っかくように振り下ろす。
身体を捻りその一撃を避けると頬に殺意の篭った風圧を感じた。ウィアッドのときに比べて心に焦りはない。トーアに避けられると思っていなかったのか、ブラウンベアの上体がわずかにぶれる。
生まれた隙を逃さずに思いっきり固めた拳でブラウンベアの腹部を殴りつけた。
「ギャウゥゥゥッ!!?」
ブラウンベアの口から胃の内容物が溢れ、身体がくの字に折れ曲がる。下がった頭に向けて頭を吹き飛ばす勢いで、アッパーを繰り出す。振りぬいた右手にブラウンベアの顎を砕いた感触が伝わった。
悲痛な鳴き声をあげながら後ろに倒れたブラウンベアは、悶絶しながらも転がって起き上がり荒い息をつきながら飛び掛ってくる。
トーアはブラウンベアが起き上がる前に再び構えを取り、繰り出された腕の間を踏み込みながら避けた。そのステップで足の裏から腰、肩、腕へと力を伝えた渾身の左フックをブラウンベアの右側頭部にくらわせる。顎を殴ったときと同じような鈍く砕ける音と共に拳がめり込んだ。
めり込んだ拳を離すとブラウンベアはそのままうつぶせに倒れこみ、びくりびくりと痙攣し始める。
それでもまだ息があるのを確認し、止めを刺すためにブラウンベアの頭とあごに手をかけて、そのまま真横に捻った。二度目の乾いた音が響き、ブラウンベアはぴくりとも動かなくなる。
止めをさした事を確認したトーアは立ち上がり、深く息をつく。戦う事自体は決めていたものの、実際に対峙して戦うとなると負けることはないと思っていたが、異世界に来て初めて拳で戦ったのもあって緊張感があった。
――ふぅ……多分、大丈夫かな。とりあえずブラウンベアの解体を始めようっと。
リュックサックから荒縄を取り出してブラウンベアを手近な木に吊り下げ、血抜きを行い続けてナガサで解体する。
ばらばらになったブラウンベアを革袋に押し込み、チェストゲートに収納し別の獲物を探し始める。開けた場所でホーンディアと遭遇し、突っ込んでくるホーンディアの側頭部を上段回し蹴りで蹴り抜いた。
重い打撃音が森に響き、ホーンディアは蹴りが当たった側頭部を中心に一回転して、そのまま地面へと落ちる。
そのまま動かなくなったホーンディアを不思議に思いながら近づくと既に息絶えていた。落下時にごきりと鈍い音が響いたので自重で首の骨が折れたらしい。
ホーンディアの血抜きを行い、そろそろ解体しようと吊り下げた荒縄に手を伸ばす。近づく気配にその手を止めて辺りの様子を窺った。先ほどから近くに居ることは気が付いていたがブラウンベアとホーンディアを狩ったため、襲われない限り、手は出さないつもりだった。
こちらに真っ直ぐに向かってきているのを感じ、足を肩幅に開いて正拳突きの構えを取る。
呼吸を整えて待つと、鼻を鳴らしながらブラウンボアが顔を覗かせた。すぐトーアに気が付いたのか、鼻息を荒くして足元の土を足でかき始める。
「ブゴォォォッ!!」
額を突き出して突進してくるブラウンボアの動きに呼吸を合わせ、戦闘系アビリティ【拳】のスキル【鉄拳】を発動し、踏み込みながら正拳突きを放った。
辺りにゴシャッ、と生々しい衝突音が響く。
伸びきった腕の先にはブラウンボアの頭があり、眉間に拳がめり込んでいた。ブラウンボアは白目を向いており、耳や鼻から血が溢れ流れで始める。
めり込んだ拳を抜くと、ブラウンボアはそのまま真横に倒れて動かなくなった。【鉄拳】はただ拳の硬度を高めるだけではなく、当たる瞬間に腕の筋肉を締めて腕を一本の棒のように変える。さらにそれに体重を乗せて、肩、腰、脚、と全身の筋肉を同様に締めていた。
「……よしっ。久々だけどうまく行ったかな」
格闘の勘が大分戻ってきた事を実感しながらブラウンボアをホーンディアの隣に吊るして血抜きを始め、その間にホーンディアの解体を済ませる。
――うーん……お祝いにはちょっと多いかもしれないけど、多いに越したことはないし。そうだ、ギルたちがランクFになったし、これで異界迷宮にいけるようになったから……やっと、ホームドアに鍛冶場が作れる……!
ホーンディアに続いて解体したブラウンボアの肉をチェストゲートに収めて、エレハーレに戻るためパーソナルブックを開いて地図を確認する。その時、身につけていた手甲付のグローブを見てある事に気が付いた。
「あっ……ああぁっ!?そうだ!異界迷宮に行くとかどうとかの前にギルの防具作ってあげないと!……私も手甲だけって訳にもいかないしっ……!ああ、フィオンの防具も新調するか聞かないと……」
今のギルの装備はウィアッドで譲ってもらった革のグローブしかない。似たような装備でトーアは『小鬼の洞窟』には行ったが、あの時は採掘が目的で魔獣や魔物と戦うつもりはあまりなかった。フィオンは出会った時から使っているハードレザーの手甲や胸当てを今も使っているため、金属製の防具に変えたいのか確認する必要があった。
ギルが何も言わずにいるのがいけないという八つ当たりのような言い訳をぼやきつつ、トーアはエレハーレに向かって真っ直ぐに走りだした。
昼を少しだけ過ぎた頃にエレハーレに到着し、そのまま冒険者横丁を駆け抜ける。鍛冶屋小道にある月下の鍛冶屋の扉を勢いのままぶつかるようにして開けた。
「わっ!?……って、トーアか……どうしたの?」
店番をしていたトラースが腰を浮かせるが、トーアと気が付くと椅子に腰を下ろした。ガルドに会いたいと伝え、食堂にいる事を教えてもらう。
真っ直ぐに向かった食堂にはガルドのほかにカンナとイデル、ミデール、フォールティがお茶を飲んでいた。トーアが顔を覗かせると一様に笑みを浮かべて迎えてくれる。挨拶を手短に済ませて、すぐに話を切り出した。
「ガルドさん、いきなりですみませんが、明日、鍛冶場をお借りしてもいいでしょうか」
「珍しいな、トーアがいきなりそう言うのは。何かあったのか?」
若干、目を丸くしていたガルドに事情である、ギルの装備品が革グローブしかない事とそれで異界迷宮に行くのもどうかという事を話す。すっかり忘れていたなどとは絶対に言えなかった。
「ギルビットのか。ふむ……作る予定の形状を教えてくれ。寸法については別にいい」
「それはかまいませんけど、ギルに注文を聞いたわけじゃないので、形状は私の予想ぐらいでしかありませんよ?」
それでも構わないというガルドが先ほど何かを考えた様子から何かあるのだろうと、広げられた紙に考えていた形状を書き込んでいく。ギルに作る予定の防具は今の革グローブに鉄板を取り付けた手甲付グローブ、膝までを覆うレガース、胸部を守る胸当ての三つで、ついでに作る予定のトーア用のレガースは紙に書き込まなかった。
書き終った形状を確認したガルドは一つ頷く。
「これなら問題なさそうだな。素材はどうする?」
「前に精錬した鉄がまだありますのでそれを使う予定です。あ、これおすそ分けです。今日狩ってきたので品質は悪くないと思います」
リュックサックを降ろしチェストゲートから、ホーンディアの脚肉が入った革袋をひとつ取り出す。怪訝そうにするカンナだったが中を覗き込むと、いい肉じゃないかとにっこりと笑っていた。イデルとフォールティが革袋の中を覗き込んで驚いた顔をしていたが、さすがトーアだなと笑われてしまった。
月下の鍛冶屋を出て、ベルガルムに交渉する内容を頭の中で纏めながらエレハーレの街を歩く。途中でカンナから教えてもらった店で防具の寸法を測るための布製の巻尺を購入する。流石のトーアも巻尺のメモリを正確に書き込むことは難しかった。
巻尺を買ったあとはほどなくして夕凪の宿に到着し、常連客たちの歓声に出迎えられる。
いつもなら酒を飲み始めている常連客が居るはずだが、テーブルに置かれた酒は減ってはおらず、酒のつまみも減っている様子は無かった。
「トーアが戻ってきたぞ!」
「こっちは昼を抜いて待ってるんだ、早く頼むぜ!」
「あまり金は溜まってないが……明日から頑張るから今日は飲むぞ!」
素面のままでのたまう常連客たちにむかってため息をついて、カウンターに近づく。ベルガルムもカウンターに深いボウルを取り出して魔獣の肉を受け取る用意を整えていた。
成果を聞かれ、ブラウンベア、ブラウンボア、ホーンディアを狩ってきたこと、ホーンディアの脚肉を月下の鍛冶屋におすそ分けしてきた事を話す。呆れた表情のベルガルムは溜息をつきながら、トーアが差し出した肉が入った革袋を受け取る。
「そうだ、このお肉なんだけど……全部、ベルガルムに渡すから店に居る人に出す料理をタダにしてくれない?」
「……なんだと?」
内臓を入れたボウルに手を伸ばしたベルガルムは手を止めた。月下の鍛冶屋からの帰りに考えた内容は、三頭分の肉を対価に食事のみを無料にしてもらう事だった。
ギルド付を断った時の宴会は、ギルド長のリレラムから受け取った半金貨一枚を代金として全て支払ったが、今回は消費される肉を提供するということでベルガルムにメリットはなさそうな話だった。
だが道中に考えていた事を顔を寄せてベルガルムにだけ聞こえる声で話し始める。
「料理だけでいいよ。おいしい料理を出してがっつり飲ませること、ベルガルムならできるでしょう?私達……ギルとフィオン、アメリアが飲む分は私が出すから」
「へっ……そういうことか、残った肉はこっちで好きにしていいのか?」
「そこは残さないように夕食に使い切って欲しいけど、まぁ、いいよ」
「どうせあいつ等が食っちまうだろうしな。よし、交渉成立だ。トーア達が飲んだ分は後で請求するからな」
常連客たちに視線を送ったあと、明らかに堅気ではない表情でベルガルムが笑みをつくり、料金をかさ増しして請求しないように釘を刺してトーアも同じように頬を吊り上げる。
「……トーア、すごく悪い顔をしているよ」
「あ、ギルお帰り。これはちゃんとした取引だよ。と・り・ひ・き」
いつの間にか入り口に立っていたギルが非常に疲れた表情を浮かべていた。トーアが狩りに行っている間、ギルは休日という事でゆっくりと過ごしていたらしいが、灰鋭石の硬剣やアメリアとの決闘の一件で顔を覚えられたのか、街の人々に声をかけられる事が多かったそうだった。
フィオンも実家に顔を出すとかで朝から出かけ、アメリアはアリシャが経営する『フェンテクラン商会』の鍛冶場へ出勤している。
溜息を付いたギルとともにテーブル席に移動して腰掛ける。この席は、朝からベルガルムに言って予約しておいた席でもあった。
「それで……何の悪巧みをしてたのかな?」
「取引だってば。ギルとフィオンのギルドランク昇格祝い、アメリアの就職祝いに狩ってきた魔獣を対価に料理を出してもらうって話。あと料理だけは無料でみんなにも出して欲しいってのかな」
トーアの説明に聞き耳を立てていた周りの常連客たちが、目を見開き顔を向けて固まっていた。トーアの言ったことに耳を疑っているのか、指を突っ込んで回している客も居た。
「お祝いだし……あ、飲み物の代金は自分で払ってね」
釘をさしたものの常連客たちは歓声を上げ、気の早い面々は既に注文していた酒を掲げて乾杯をしていた。
その様子にギルと共に苦笑いを浮かべ、狩りの成果を話した。だがギルは、困ったようにこめかみを揉み、顔をトーアに近づける。
「僕のチェストゲートにある魔獣のことを忘れてないかな?」
「あ……」
灰鋭石の硬剣の騒動の時に勘を取り戻すためと狩られた魔獣は今もギルのチェストゲートの中に収められたままだった事をトーアは指摘されて思い出した。
「それは異界迷宮で材木を伐採したら、解体用の部屋を作ってからかなぁ……ああ、革なめしの部屋の準備も進めないと」
「ということは、そろそろ異界迷宮に行ってみる感じかな?」
ギルの言葉に頷く。
これでやっと材木を入手できる訳だが、その前にギルの装備を整えようと思っている事を話す。
忘れていたのかと思ったと言うギルから若干、視線を逸らしつつ、月下の鍛冶屋で話した手甲や脛当て、胸当ての形状をパーフェクトノートに書き、見せる。
「ん……こことここはもう少し大きめで。あとは特にないよ」
「ふんふん……あとで寸法取らせてね」
流石にギルがCWOで身につけていた白銀に輝く甲冑を再現するには素材が足りなかった。トーアの全盛期に身につけていた全身甲冑もまた、素材が特殊すぎて作る目処は全く立っていない。全身鎧のレシピを改良したもので、今もその内容はパーソナルブックに保存されてはいる。
――まぁ……あそこまでの物をもう一度作る必要があるかって話だけど……ないんだよなぁ。
ギルの言った修正点を書き込んでパーソナルブックを閉じる。
宴会はフィオンとアメリアが戻ってきてからと、トーアはギルと今後のことについて話し始めた。