第八章 好敵手 6
夕日に赤く染まる宿屋通りを歩き、夕凪の宿に到着したトーアはスウィングドアを開ける。
「トーアちゃん、お帰り!」
「ただいま、フィオン。……何かあった?」
今日はクエストを受けて森に行っていたはずと、上機嫌なフィオンを不思議に思う。話しながらいつものカウンター席ではなくフィオンとギルが座っているテーブル席に腰掛けた。
「うん、これを見て」
笑顔でフィオンが差し出したのはフィオンのギルドタグで刻印された文字はGからFへと変わっていた。念願のギルドランクの昇格を果たした事でフィオンはは嬉しさを覗かせていたとわかった。
「ギルドランクがFに……昇格おめでとう、フィオン」
「えへへ……ありがとう、トーアちゃん!」
「ギルも昇格したの?」
「うん、ほら」
ギルのギルドタグもフィオンの物と同様に刻印された文字がGからFへと変わっていた。
おめでとうと言うと愛しむような優しい笑みと共に返事を返すギルを見ていられず、ぎこちなく視線をフィオンへと戻した。
「そ、そういえば、アメリアは?」
「うーん、まだ帰ってきてないよ」
「まだ作業してる……のかな?」
本人が居ないため確かめようがなく、トーアは先に夕食を食べてしまう事にする。
食事を終えてもアメリアが戻ってくる事もなく、不思議に思いながらも部屋に戻り、ホームドアを発動した。
その場で服を脱ぎ、お湯で湿らせたタオルで身体を拭って行く。シンクの近くには小さな鏡が初めから備え付けられており、ふと映った顔をまじまじと見る。
――……こうして鏡を見るたび、自分が明野幸太だった事を忘れていきそう……。
鏡に映るトーアの顔は真剣に鏡を覗き込んでいた。視線を下へ移すと少女が女性に変わる瞬間を形にした、絶妙な体型が目に映りこむ。
膨らみかけの胸、細い腰、丸みを帯び始めた臀部、肉付きは良いものの細さを保った脚、異世界にきてそれなりの時間が経ち、視界の低さにもトーアの声にも慣れた。むしろCWOのプレイやデスゲームを通して『リトアリス・フェリトール』に慣らされていた。そして、この世界に来てからは“女”という事にも慣れ始めている。
だがそれを怖いと思ったことはなかった。既にこの身体はリトアリス・フェリトールとなり、明野幸太の面影などひとかけらも残っていない。残っているのはトーアが明野幸太だったという記憶だけだった。
戻る事も出来ない明野幸太の体の事を考えるよりも、リトアリス・フェリトールとなった事を受け入れて、楽しく物作りに励んだ方がまさに生産的とトーアは思っていた。
だが、自身が女に、リトアリス・フェリトールと成っていく事よりも怖いことが一つだけあった。
「……それよりもギルの視線のほうが怖い」
この頃のギルの態度や、優しく愛しむような視線や手で触れてくるのを思い出すたびに、胸が締め付けられるようなざわつくような気持ちを味わっている。そして、その夜はなかなか寝付けない事も多くなってきていた。
その向けられる視線が“男が女を見る”ものだと最近、気がつき、ざわりとした寒気にも似たような粟立つような感覚にしばらく鳥肌が収まらなかった。だがその感覚が嫌悪感というのではなく、どちらかというと嬉しいと思っている事にトーアは驚きつつも悪く思っていない事にほっとしていた。
考えてみればギルがこの世界に来た理由は、すべてトーアのためであり、それは友情という類の物ではない事も気が付いていたはずだった。
「…………ちゃんと、向き合わないとダメ……だよね」
元の生活まで捨てて異世界にやってきたギルに対してそれは失礼だと思う反面、どうやって向き合うか考えると途端に臆病になるのを自覚していた。
――と、とりあえず思わせぶりな態度を取ってみる……とか?
乾いたタオルで身体を拭きながら考えるが、思わせぶりな態度とかどうやって取るんだとつっこみをトーアは入れていた。
ホームドアを出てベッドに寝転がるまでトーアは考えたものの、以前と同じように名案などすぐに浮かばず、拠点もなしにそういう話もできはしないと結論付けた。
「……お店、持つまで愛想尽かされないかな」
危惧としてはそこだが、それを回避するにはやはり思わせぶりな態度をという事になるのかと、悩んでいるうちにトーアは眠りに付いていた。
翌朝、トーアは月下の鍛冶屋で剣を砥ぎ上げて、中子の部分に、専用のインクを使い、木の枝の筆で『リトアリス』と書き込んだ。
「……ふ……ふふふ……」
日の光を歪み無く反射する刀身をうっとりと撫でながら、思わず含み笑いが漏れていた。
トーアが納得する出来栄えであり、試剣術に使うのではなくそのまま今使っている剣と交換したいくらいであった。
そして、やすりを手に取り刃を撫でるように走らせる。これで刃には斬った際の取っ掛かりとなる極々小さな傷が付き、より斬れやすくなる。
出来る事ならば油に一晩刀身を浸けて、切る前に水をかければより良いが、『獣斬り』の手順にはそのようなものはなかったため、トーアが出来る工夫はここまでと言う事になる。
仕上げを終えて覗き込んだ鏡のような刀身には、少し引くくらいににんまりと笑ったトーアの顔が映りこんでいた。思わず誰も居ないことを確認したあと、刀身を一度おいて頬を揉み解した。
表情は戻ったと思い、運搬のために布に丁寧にくるんだところでトラースが砥ぎを行う部屋にやってくる。
「トーア、ギルドの人がやってきたぞ」
「うん、こっちの用意も終わったから今行くよ」
刀身を抱えて立ち上がり、ギルドの職員が待つ店舗側へと向かった。
何度かギルド内で見掛け、ゴブリン討伐の際に夕凪の宿やエレハーレの宿に連絡を渡して回った男性職員が月下の鍛冶屋の店舗側に飾られた武器を眺めていた。
やって来たトーアに気が付いたのか、自然な笑みを浮かべて軽く腰を折り、頭を下げる。
「おはようございます、リトアリスさん。刀身が完成したというお話は伺っております。そちらがリトアリスさんの剣の刀身でしょうか?」
「はい。お願いします」
刀身を差し出すと男性職員は恭しく両手でしっかりと受け取った。
「お預かりします」
「……そういえば、アメリアのほうはどうなっているか知っていますか?」
「アメリアさんのほうは別の職員が担当していますが、昨日の時点ではまだ完成していないと聞いています。では、責任を持って運ばせていただきます」
「はい、お願いします」
刀身を大事に抱えた男性は再び腰を折ってお辞儀をした後、店を出て行った。
「…………」
「行ったか」
少しだけ胸に寂しさを感じながら男性職員を見送るとガルドが鍛冶場側から姿を見せる。
「はい。あとは私の手を離れましたし……決闘の日までまた待つことになりそうです」
「そうだな。今日は帰ってもいいぞ」
「え、何時も通り働いていこうかと思ったんですが……」
「今日は休んでも誰も文句は言わん」
ガルドの遠まわしな労いの言葉に、照れたような気持ちになりながらもトーアは素直に頷いた。
昼前に夕凪の宿に戻ると、カウンターには目の下に隈を作ったアメリアが座り、小さなコップをちびりちびりと傾けていた。
「ああ、トーア、刀身は出来たのかしら?」
「そうだけど……まさか、アメリアも?」
「もちろんよ。私を舐めないでほしいわ」
少し待つことになるかと考えていたトーアにとって、アメリアが鍛冶を終わらせていた事は驚きだった。
それだけ生産系アビリティ【鍛冶】のレベルが高いのか、はたまたライバルと明言する以上、意地を見せたのかはわからなかった。
自信有りげに胸を張るアメリアの隣の席に座る。目の下の隈の事には触れないでおこうと思った。
「ならあとは決闘当日になるまで、待つだけだね」
「そうね。こういうとき、物を作るって事に少しだけ寂しさを感じるわ。作っている時が楽しい分、余計にそう感じるのかもしれないけど」
コップを片手に呟いたアメリアをつい凝視していた。その言葉は刀身を持って去る男性職員を見送った時と同じ感情。そして、トーアは自然と笑っていた。手塩にかけた物が手を離れて行く瞬間の一抹の寂しさは、愛情を持って物作りを行う人間が感じる感情かもしれない。だが、別の嬉しい事もある。
「そうだね、でも、手を離れて行った物が大切に使われているところを目にしたり、綺麗な姿で戻ってきた時は嬉しい……かな」
「……わかるわ」
コップの中に視線を落としたアメリアはどこかしんみりさせながら頷いた。トーアと同じようにその時の感情を思い出しているのかと思った。
「でも粗末な扱いを受けて手元に戻ってきた時は……許せないわ」
別の感情を思い出したらしいアメリアの苦々しく呟いた表情は苛立ちとむなしさを滲ませていた。それ以上声をかける前に、コップの中身を呷ったアメリアはカウンター席から立ち上がる。
「少し寝てくるわ」
「あ、うん……おやすみ」
小さく欠伸をしたアメリアは後ろ姿をみせたまま手を振り部屋のある二階へと去って行った。
アメリアの一言は痛いほど理解出来た。似たような経験で記憶に新しいのは灰鋭石の硬剣の切っ先が折れた瞬間のことで、そう何度も味わいたくはないものだった。
あれほど苦々しく、表情から伝わるほど苛立ちを見せたという事はそれほど前に味わったのだろうと思う。
――そういえばアメリアの生い立ちも、どうしてエレハーレに来てまで決闘を申し込んだきたのかも聞いてないや。
前に王都に居たという事は聞いたがそれ以外は何も知らないことに気が付いたが、聞き出すタイミングを完全に逃していた。決闘が終わってから聞いてみるかと思い、ベルガルムに昼食を頼んだ。
そして、明日、決闘が執り行われる事を夕食が済んだ後、リグレットが伝えにやってくる。
トーアとアメリアの刀身が完成するタイミングを計り、数頭ブラウンボアが狩られ、今はギルドの解体を行うための部署で【刻印】を使用した大型の冷蔵庫に保管されているとのことだった。剣に関してもギルドにある大型の金庫の中で安置され、ギルド長と他のギルド職員二人の三人が揃わないと開けられないようになっているらしかった。
「公明正大に行うってのがやっぱり、あるべき決闘の姿だと鍛冶屋組合でも満場一致で決まってな」
「ギルドもよく引き受けてくれましたね」
前回の灰鋭石の硬剣の一件は、その場に居合わせたリレラムを巻き込んだような形であるため、今回のように協力を申し出たわけではない。
「灰鋭石の硬剣の一件で立場がある公平な第三者として、そういう依頼も出来ると認識されたみたいだぞ」
「……なるほど」
つまりは大体トーアのせいでもあるとわかり、素直に頷いておくことにした。
「なら、明日は頼むぞ!」
「わかりました。全力でやらせてもらいます」
リグレットはギルの肩を叩いた後、意気揚々と酒場を出て行った。
「初めはどうなるかと思ったけど、こうして明日になったわね」
「……本当、無計画だったよね」
目の下の隈が大分薄くなったアメリアがしみじみと呟いたのを聞いて、初めてアメリアと会ったときの事を思い出したトーアは、思わず呟いていた。
「う……まぁ、済んだ事はいいわ。明日も早いだろうし、私は部屋に戻るわ」
「うん、おやすみ」
テーブル席から立ち上がったアメリアを小さく手を振って見送る。
――いよいよ明日か……と言っても、私がどうこう出来る範疇はすでに超えてるし、あの刀身は今の私の全力で手抜かりなく作った。あとはギルに……。
傍に座るギルに視線を向けると、視線が合う。
「……ギル、明日、頑張ってね」
「もちろんだよ。だけど依頼された仕事上、贔屓は出来ないからね」
「うん、贔屓なんてしたらダメというか、出来ないようになってるし、全力でブラウンボアを叩き切って。私が作った刀身はそれが出来るようしてあるから」
あとは全てギルの腕に懸かっている。それはトーアもアメリアも同じ事で、ギルもまた全力で事に当たってくれるようだった。