第五章 口福と狂乱の六日間 5
少女には夢があった。この世のおいしい食べ物を食べつくすという壮大な夢が。
それは病弱な幼少期に満足に食べることができなかったことや、少しでもと貴族である父と母が希少な果物などを用意したことが発端だったかもしれない。
体が成長にするにつれて、徐々に食べれる量は増えて健康といえる身体になった。
だが食べれるようになったことで、一時期は丸々と太ってしまった。それはそれで不健康と、食べる量が調節され減量のためと味気ない食事となったこともある。
それに堪えた少女は適量を楽しむことを覚えた。
「まだかしら……。それにしても『ピッツァ』……どんな味がするのかしら」
大きな通りの端に止めた馬車の中で少女は物憂げに呟く。
恋をしているかのような口調でつぶやかれた言葉だったが、内容は食べ物の話だった。
向かいの席に座るメイドは、その言葉を聞かなかったことにして目を伏せていた。
ラズログリーンに住む貴族の一人として情報収集――特に食べ物のこと――は欠かさない少女。その耳に露店市場で販売されている『ピッツァ』のことが入ったのは、昨日の夜のことだった。
話を聞いた限りでは、薄いパンにラカラベースのソース、ベーコン、チーズをのせて石窯で焼いたというもの。
探せば似たようなものは見つかりそうな気がしたが、少女の何か――主に食い意地――が食べねば後悔すると囁いた。
販売が終了しているという情報もともに知ったが、多少、無理を通せば食べれると少女は考えていた。
だが買いに行かせた従僕が戻り、報告を聞いた少女は目を吊り上げることになる。
「なんですって!?私が食べたいと言ったのにできないですって!!?」
「申し訳ありません、お嬢様!調理に特殊な窯を使うとこのことで、準備に時間がかかり、今日販売しているものが提供できなくなると店主から説明が……」
「そんなことはどうでもいいのっ!私はピッツァが食べたいのよ!!」
憤慨する少女に従僕は、冷や汗をかきながら断られた状況を詳しく説明する。
説明を聞くうちに、少女の吊り上がった眼は下がっていく。自分が抱いた怒りと同じものを並んだ人々も抱いたのだとわかったからだった。
食べ物に執着してしまうところは少女の悪いところだが、自身の感情を律することができた。
「……悪かったわ。私もおいしいものを食べれなかったら怒る……いえ、怒ってしまったわ。並んでいた者たちが怒り狂うほど美味ということなのだから、ピッツァが食べれないのは仕方のないことね……」
そして、少女は自身の非を認めて素直に謝罪ができる、できた主でもある。
まことに申し訳ありません、と恐縮しながらも従僕は、代わりに買ってきた『饅頭』を少女に差し出した。
「これが今日から販売しているものね」
「はい。四つありまして……」
従僕からどのようなものがあるか説明を受け、少女はピッツァと同じ具材が使われているという『ピザまん』を手に取った。
露店市場から多少離れているため、出来立ての温かさは失われていたが、手には十分な温かさは伝わってくる。
少女は手づからピザまんを半分に割り、伸びるチーズに目を輝かせながら片方を従僕に差し出した。
四つをすべて食べるには量が多いのもあったが、だれかと一緒に美味しい物を分かち合うことが、美味しいものを美味しく食べる秘訣であるというのが少女の持論であった。
「はい」
「お嬢様、ありがとうございます」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げながら従僕はピザまんを受け取りさらに半分に割り、メイドに手渡した。
毒見を兼ねて従僕が先にピザまんを口に運ぶ。もぐもぐと口を動かす従僕に続けてメイドも小さくかぶりついた。
こうして美味しい料理のおこぼれにあずかれる少女との外出は、争奪戦になるほど競争率の高い仕事だった。
だが貴族の娘である少女との外出には必要な技能も多いため、おこぼれのため屋敷の従僕とメイドたちの向上心はかなり高い。
今回の外出に同行した従僕もメイドも、少女を守るための戦闘の技術は屋敷の中でも高い部類にあった。だが熟練冒険者たちからの威圧には、さすがの従僕も冷や汗を流していた。
「どう、かしら」
「んっ……大丈夫です、お嬢様。温かなうちに、ぜひ御早く……!」
従僕とメイドは味については口にしない、だが目を輝かせ口角が自然と上がる様子は少女にとって期待を膨らませるには十分だった。
味について言及しないのは、少女があまり良い顔をしないためだった。どんなに説明を聞いたとしても、実際に味わう感動とは遥かな差がある。それを少女は知らずに理解していた。
手に持ったピザまんを小さな口をできるだけ開けて、真ん中からかぶりつく。
こうして食器を使わずに食べるという行為に忌避感はなかった。むしろ、こうして食べることのほうが、何倍もおいしく食べれることを少女は知っていた。
「んっ……んんっ~!」
最初に感じたのは温かなラカラの酸味、続けてベーコンの確かな弾力と脂の甘味だった。
噛み締めればとろけたチーズが、ラカラ、ベーコンの旨味と一緒になり、咥内を覆いつくす。
ほんのりとラカラの色に染まった艶やかな皮は、くどくなりそうな具たちを一つに包み込み、柔らかな食感は焼き立てのパンとは違った楽しみを歯に伝えてくる。
「おいしいわ……」
恍惚と言った様子で少女はつぶやき、再びかぶりつき味に耽溺する。
小さな口をあけてはぐはぐと夢中で食べる様子を、従僕とメイドは柔らかなまなざしで見つめていた。
少女がピザまんを食べ終わるのを見計らい、メイドは温かなお茶を差し出した。
温かさを保つように作られた特注の水筒に入れられたお茶は、口の中をさっぱりさせる。
一息ついた少女は、次に肉まんへと手を伸ばした。
従僕は肉を使った具が入っていると説明している。期待を込めて饅頭を半分に割るとふわりと湯気が立ち上る。
半分を従僕へと渡し、早く食べるようじっと見つめる。
従僕は慌てながら半分に分け、メイドに渡しながら肉まんを口に運んだ。
メイドとともに口を動かしながら何度もうなずいていた。
少女はすぐさま肉まんにちいさな口でかぶりつく。
かぶりついた途端、少女の口の中に餡に閉じ込められた肉汁が流れ込む。
「んんっ!」
荒めのひき肉を噛み締めれば肉汁とともに野性味を感じさせる肉の食感を伝え、ともに練りこまれた野菜やキノコは、肉とはちがう食感と風味が少女を楽しませる。
「ふふ……」
満足げな吐息を漏らした少女。従僕とメイドも饅頭のおいしさにうっすらと笑みを浮かべていた。
少女は三つ目の饅頭に手を伸ばし、無言のまま半分に分け従僕へ差し出す。
従僕が三つ目の『野菜まん』を受け取ったのと同時に、少女は饅頭へかぶりついた。
生臭ものが食べれない種族、主義、宗教向けの饅頭である『野菜まん』。
少女はそういった料理も口にすることがあるが、比較的、素材の味がそのままのものが多く、味気ないと思っていた。しかし、この野菜まんは違った。
『餡掛けおこげ』のようなとろみがある餡は塩がきき、歯ごたえが残る野菜やキノコ、辛みのきいた香味野菜が単調な味に変化を加える。
あっさりとした『野菜まん』は、こってりめの『肉まん』の後に丁度良かった。
「おいしい……」
吐息のような少女のつぶやきに、従僕とメイドは何度も小さく頷いていた。
お茶を一口飲み、小さく息を漏らす。
「最後の一つになってしまったわね……」
「お嬢様、そちらなのですが……非常に甘いとのことです」
「甘い?」
続けて従僕から生臭ものが食べれない人々が、狂乱とも言える状態であんまんにかぶりついていた様子が語られる。
その話を聞き逃しつつ少女はわずかに顔をしかめていた。
甘い、と聞いて少女が最初に思い浮かべたのは、貴族の間で流行っている菓子だった。
美味しくないわけではないが、頭が痛くなるほど甘いものも存在し、何かが違う気がして少女は敬遠していた。それでもおいしいと話題に上がるものは口にしてはいたが。
従僕やメイドたちも、そういった甘味の時の競争率は低めであった。
最後にはずれが残ってしまったことを残念に思いつつ、少女は『あんまん』を二つに割る。
現れたのは黒いペースト状の具。想像していたものと全く違う中身に少女はわずかに眉を寄せる。
「真っ黒ね」
半分のあんまんを従僕に渡し、従僕とメイドが口に運ぶのを眺める。
恐る恐るといった感じに口に運んだ従僕とメイドが、目を驚きに見開くのを見ながら少女もあんまんに小さくかぶりつく。
――どうせ、ただひどく甘いだけなんでしょう?
今までの饅頭の出来栄えゆえに落胆さえ覚えながら、あんまんをゆっくりと噛む。
「ッ……!?」
落胆し油断した少女の舌に、甘いだけではなく濃厚でコクのある甘味が襲い掛かる。
驚きに座っていた腰かけからずり落ちながらも、驚きの表情のままあんまんをゆっくりと咀嚼していく。
噛めば噛むほど餡の甘味が咥内に広がっていく。どれほどの砂糖が使われているかわからなかったが、それ以上に鼻に抜ける独特の風味、ねっとりとした餡がゆっくりと溶け、名残りを残さず消えていく。
「なんて……なんてことなの」
一口目を驚きのままゆっくりと飲み込んだ少女は、決めつけ油断した自分を恥じた。
今まで食べてきた甘いだけの菓子とは全く異なった、むしろ同じものとは思いたくない代物だった。
先に食べた三つの饅頭と並ぶ、いや、超える美味を少女は見つけた。
小さな口で惜しむように、あんまんを食み、ゆっくり味わいながらも咀嚼する少女。
最後の一口を惜しむように口にした少女は、目をつぶり神に祈るように咀嚼して味わい、ゆっくりと嚥下した。
ゆっくりと息を吸い、そして、あんまんの余韻を堪能するように吐き出す。
「……なんて……幸福なのかしら……」
自然と漏れた一言は、恋焦がれる相手を思うように甘かった。事実、少女は恋をしていた。ただ甘いだけではない黒い餡を白い衣に包み込んだ『あんまん』に恋をしていた。
「明日でお別れなのね……」
包み紙を丁寧に折りたたみ、少女は嘆息する。
手の届かない相手に恋焦がれるかのような気持ちに、少女はもう一度、息をついた。
今日のリトアリス・フェリトールの態度から、今後の販売がいつ行われるか定かではない。明日を逃せば、二度と食べれないかもしれなかった。
そう気が付いた少女は自然と、両親にもこの饅頭を食べてほしいと思った。
「お嬢様……?」
「明日も出かけるわ。できればお父様とお母様にもご一緒したいとお伝えして」
「かしこまりました。旦那様と奥様のご予定には問題がないか確認いたします」
メイドはすぐにうなずく。従僕は素早く馬車から降り、馭者席に座ると馬車を走らせ屋敷へと急ぐ。
流れる景色を横目に、少女は四つの饅頭の味わいを思い返しつつ、明後日販売される三つ目の商品に思いをはせた。