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それから

 目を覚ますと、車の中だった。軽やかなエンジン音に、やたらとバスドラムが喧しいBGM。どちらも全く聞き覚えは無いものだ。

「……あれ、ここは……?」

「やっと起きたかい、このボンクラ。本当にお前、手足は細い癖に重いのな」

 俺が寝そべっていたのは、大型自動車の後部座席。先程まで会話していた筈の声は、やたら近くから聞こえてくる。横に向けられていた体を、寝返りを打って、天井を向かせた。

「よっ、おはようさん――と言いたい所だが、もう夕方さ。さわやかな目覚めとは言い辛いだろうしねぇ」

「あんたは……あれ、ええと、え?」

 俺の頭は、あの赤髪の女の膝の上に有り、女の頭はやや高い位置から俺を見下ろしていた。座る時まで、しゃんと背筋を伸ばしている女は、タバコを口に咥えて、煙を車内に充満させている。

 あの、天使の様なひらひらした衣装は身につけていない。代わりに着こんでいたのは、髪と同色の、恐ろしい程に真っ赤なスーツであった。スラックスも赤、ネクタイも赤。下のシャツとネクタイピンだけが黒。右手には指輪を付けていたが、それもどうやらルビーで有る様で、赤だった。

 体を起こそうとしたが、思うように動かない。何故だろうと考えたが、手足が動かせなかったからだと気付いた。

 手足はまだ有るか? きっと俺の顔は、一瞬で真っ青になっていた事だろう――結論から言えば、有る。が、何かゴムチューブの様なものでグルグル巻きにされていて、全く動かせない状態になっていた。

「……ええと、なんで俺、縛られてるんだ……?」

「じたばた暴れられると困るからさ。外してやるから、もぞもぞとするのを止めてくれるかねぇ……あ、解くのめんどい」

 女は、大ぶりのナイフを使って、ざっくりとゴムチューブを切った。自由に動けるようになったのはありがたいのだが、体の近くに刃物が有るのは、どうにも落ち着かない。

 解放されて直ぐ、俺は体を起こして、座席にきちんと座った。膝枕というのは――相手が他の誰かなら兎も角――この女にされていると、只管に落ち着かないだけのものになる。そのまま喉にナイフを落とされるのではないかと、気が気でないのだ。

「変なツラしてるねぇ……大方、私を人殺しか何かだと思ってんだろ。まだ殺した事は無いよ」

「まだってなんだよ、まだって……」

「おお、いっちょまえの口の利き方だ。私には敬語を使え、じゃないとまたあの夢見せるよ」

「……夢? ――あ、あ……生きてる、俺、生きてる!?」

 そう言われた瞬間に、ほんの数十秒前の記憶が蘇ってきた。狼どもに貪り喰われながら、雪原で果てる筈だった俺を襲う、唐突な浮遊感と暗闇。そして、そこに至るまでに経験した全ての出来事までも、僅かに遅れて一辺に、頭の中で再生される。

 戦士様と持て囃され、鼻高々に街を闊歩した一日目。最低と罵られ、人格に価値を見出されていないと知られ、狼一頭さえロクに仕留められなかった二日目。これまでの人生に於いて、最悪の夢だった。

 これから先、俺はことある毎に、あの夢を思い出してしまうだろう。無残な少女の死体や、手首から先が無くなった自分の腕、口元を赤く染めた狼の群れ――そんなものが永遠に、形を持った恐怖として、俺の頭にこびりつく。

「なんで、あんな事を……」

「それが私の仕事だからねぇ。週六シフトの天使様の代わりに、世のグズ共に救いを与えるのが私だよ」

「どこが救いだよ、どこが!?」

 とてもじゃないが、良い体験などとは言えなかった。相手が女性で無ければ掴みかかっていたかも知れない――いや、俺にそんな度胸は無い。ただ、掴みかかりたいと一瞬だけだが、考える程度には腹が立った。

「……あんたねぇ、年収は幾らくらいになる?」

「え、ね、年収? なんでそんな事を聞くんだ……」

「敬語で話せと言ったろうが!! いいからさっさと答えな、余計な手間掛けさせて……」

「……今のペースなら、今年は450万から……500万くらいには、なる、なります」

 女の剣幕に押されながらも、俺は自分の拠り所である、実際に稼ぎだす数値を示した。これは、俺が7年を経て漸く稼ぎだせるようになった金額であり、俺の努力の結晶だ。同年代の他の連中の、平均よりは余程稼いでいる筈だ。

 然し、女はそれを、ガラス玉を掲げて宝石だと叫ぶ奴を見るかの様な目で嘲笑う。

「ほーう、そいつは結構結構。んで、一月の生活費と遊興費、それから課金の総額は?」

「……家賃が4万5千、食費が……一日に千5百円くらい。遊興費は殆ど使わなくて、課金は……月に、10万くらい」

「よーしよしよし、それじゃあ楽しいお勉強を始めようか。算数だ、何年ぶりだい?」

 咥えていたタバコを灰皿に移して、女は両手を開き、掌を俺に見せる。指を一本一本曲げる様子は、まるで小学生に勉強を教える時のやり方の様で、また少し腹が立った。

「食費から察するに、お前は自炊はしてないね。スーパーにもいかない、コンビニで買ってると見た。それも、主食だけじゃあ無くて、飲み物だの菓子だの、余計な物を買う金額だ。動かないお前じゃ、そう腹が減る訳もないんだからねぇ……」

「ぐっ……」

 図星である。片方の手で操作をしながら、もう片手でスナック菓子を摘み、ボトルのジュースを飲む。別に腹が減ってくる訳じゃなく、何か食べていると落ち着くのだ。レアな敵な湧くのを待っている間など、特に口寂しくなる。

「ってえ事は、だ。月に食費と家賃を合わせて9万、課金が10万だから……光熱費とか計算めんどくせ、合計がざっと20万。年間の生活費は240万って所だね。おーう、お大尽様ー」

「……だから、差し引きでこれからは、毎年200万以上は貯金出来る。それを、誰に文句言われる事も無い筈で――」

「まーあ待て待て、文章問題は終わってないよ冬人君。肝心なのは労働時間だ、これを考えてみようかねえ……」

 収支で言うなら大きなプラスを出していると、俺の唯一にして絶対の誇りを主張しようとしたが、女はやはり聞く耳は持たない。だが――続く、極めて冷ややかな計算、岡目八目は、俺の僅かな自信さえ砕くものだった。

「お前は日に16時間、それを365日続けている訳だ。計算すると、おおざっぱだが5800時間って事になるねぇ。年収を500万として、単純に割れば時給は860円。成程、地方都市のフリーターからすりゃ垂涎物かも知れないよ。が……普通の仕事ってもんは、或る程度時間以上働いたり、深夜に出勤したりすりゃ、相応に手当ってものが付く筈なんだ。

 仮に、時給700円のアルバイトだったとしようか。こいつは……ああ、12時から28時までの16時間労働をしたとする。この場合、まず最初の8時間は普通に働き、5600円を得る。分かるな?

 ここから、このバイト君は残業手当をもらう事になる……ま、100円も増えれば贅沢だろう。時給800円で、22時までの2時間。1600円が増えて、合計の収入は7200円。

 さーあこっから深夜手当の時間だよー。22時から29時まで所が多いだろうから、残り6時間は全部が深夜手当の適用範囲。25%増しとして、驚くなかれ時給は1000円に突入。一気に6000円も増えちゃいましたー。合計は13200円だ。

 ……つまりだねぇ、お前は時給700円のバイト君より、1日の収入が3000円も少ないのさ。1年で見るなら、100万円以上も損してるって訳」

 深夜手当とか、残業手当とか、そんな物は体験した事が無いから、良く分からない。だが、使われている数字は明確に、俺に損失を示していた。それは分かる。

「ちなみにあんたの場合、これだけ稼げるようになったのはつい最近。最初の2年くらいはまるで駄目で、その後3年くらいは日に5000円から6000円って所だった、こいつは調べがついている。そっから考えて、これまでに稼いだ総額を、1750万としてみようか。500万が2年、250万が3年だ」

 金は稼げているんだ、それは俺の拠り所の一つだった。周りが何を言おうと、確かに稼げているのだから良いじゃないか、と。

「7年間、5800時間ずつ。計算が面倒にならないように、お前の総プレイ時間は4万時間としよう。さあ、時給は幾ら?」

 こんな簡単な算数なら、少し鈍った頭でも解ける。1750÷4イコール437.5。時給438円のアルバイトなんて、どこの誰が応募してくるだろう。俺だって嫌だ。

「……そーいう事。ついでに言うなら、お前が稼げなかった頃の生活費、お前は親に出してもらってた、その分を返済しようと考えた場合……ああ、もう言わせないで欲しいね、分かるだろう? 大損だよ、大損。お前は決して、勝ち組みなんかじゃあ無かったのさ」 認めざるを得ない、少し考えれば分かる様な事実。沈黙の中、車は舗装道路を真っ直ぐに走り続ける。BGMは何時の間にか、聞きなれた『ワールドクリエイター』の音楽に――『雪中行・狼の森』に切り替わっていた。

「う、ぅ、っぐ……ぅえ、ぁ……」

 酷く気分が悪くなった。その音楽を聞いているだけで、俺はあのフィールドを鮮明に思い描ける。という事はつまり、俺が狼に食い殺されそうになったあの場所さえ、完全に思いだせるのだから。自分の孤独な死の現場を、他人が観察している様に思い描ける。それは、どんなグロテスクな画像より、余程吐き気を催すものだった。

「おいおい、吐くんじゃないよ。汚されたら面倒だ――おうい、まだ着かないのー?」

「もうちょっとです、師匠!」

 運転席から返ってきた返事は、確かこの女の連れの少女だ。見た目が15、6の少女が車を運転している事さえ、今の俺には指摘する余力が無かった。



 口を手で押さえて俯いたまま、暫くは車に揺られていた。車体がガクリと揺れる程の急ブレーキで、目的地に到着した事を知らされた。海岸線沿いの、ただの駐車場。ラインを完全に無視して、斜めに駐車が完了している。

「さ、降りな。外なら幾ら吐いても構わない――ん、まあ、新鮮な空気を吸えば気分も変わるかねぇ」

 後部座席のドアが開かれ、赤髪の女が社外に出る。その後に続いて気付いたが、この女は靴まで赤で統一していた。

 何もかもが赤い、目への優しさが皆無の背を、俺は追う。どこへ行くのだろうか、何も聞かされていない。あの少女は車内に残る様だし、寒くなってきた時期であった為、海で遊ぼうという者もいない。砂浜には、俺達以外には、海鳥の気配しか存在しなかった。

「この辺りでいいかねぇ……ま、座んな。砂の上でも岩の上でも」

 椅子の用意されていない浜辺で、海に張り出した岩に、女は胡坐を掻いた。おれも同様に、彼女に向かい合って座る。

「……実はねえ、私がお前をこうして引きずり出したのは、お前のかーちゃんの依頼なのさ」

「か――母さんが、ええ!?」

「息子が大学もやめて、何年もゲームだけやってりゃあ、そりゃ心配にもなるってもんだろうからねぇ。なけなしの金を集めて、そりゃもう見ちゃいられない程に頭を下げて這いつくばって……そうまでされちゃ、働かずには居られないさ」

 母さんが、頭を下げて――その光景が、俺にはすんなりと想像できなかった。母さんの顔さえ、鮮明に思い出すのに、暫く時間が掛かった。優しくもなく、厳しくもなく、そこになんとなく居るだけの様な母親――それでも、俺を大学に行かせて、中退を決めた時も引き留めはしなかった。俺がやりたいと思った事を、全てやらせてくれた母親。

 その代わりに母さんは、俺がやりたくないと思った事は、全くやらせようとしなかった。宿題もそうだ、習い事もそうだ、外に出るという単純な行動さえもそうだ。『ワールドクリエイター』だけやり続けていれば良かった俺は、その温さが心地好くて、したくない事は何もしなかった。

 だから、俺がやりたいと思っていた事を、金を誰かに払ってまで止めようとする母さんの姿が、まるで思い浮かばないのだ。

「……母さんが。そうですか、かあさんが……は、ははは……」

 然し、絵が浮かばなくても、一つ、分かる事がある。間接的にだが、俺はもしかしたら生まれて初めて、母さんに怒鳴りつけられたのかも知れない。自分が無能で無価値で、貴重な時間を浪費してきた存在だと、口汚く罵られたのかも知れない。

「頃合いかねぇ……おお、今日は晴れてる、最高だ。なあ、冬人」

「……なんですか? って、ちょちょ……掴まないでくださいって」

 乾いた笑いを上げる俺の顔を、女はがしとわしづかみにした。力がそこまで有る訳ではないのだが、振りほどいて良いものか、と悩む。女の手は、俺の顔を無理やり右側――海の、水平線の方へと向けた。

「――ぁ」

 俺は、日本海側の浜辺に居たらしい。岩の上から見た海は、百八十度、何の遮蔽物も無く、茜色に染まっていた。雲の合間を飛ぶ海鳥は、黒い影と成り、揺らめく海面に映る。寄せては返す波の飛沫は、ざあ、と耳に心地好い。丸い夕日は、今この瞬間、海の向こうへと消えていくさなかだった。

「解像度もfpsも無限大の夕焼けだ、綺麗なもんだねぇ。7年も引きこもってたお前じゃ、こんなもんは見た事無いだろう? ただの無能のお前だって、これが分かる感性は持ってると信じたいよ」

 女の言葉、母の思いは、堪らなく悔しいし、屈辱的だ。自分の全てを否定され、7年という時間を無駄だったとされた。なのに――なのに、嬉しくて堪らない。

 頬を涙が伝っていた。拭う事も忘れて、瞬きも惜しんで、太陽が水平線の向こうへと行ってしまう様を見ていた。視界はぐしゃぐしゃに滲んでいるし、それと同じくらい、俺の顔もぐしゃぐしゃになっていた筈だ。

 ゴミの様な街並みに辟易して、退屈な日常に倦んで、俺は『ワールドクリエイター』に没頭した。あの世界は刺激的で、絵画の様な風景に満ちていた。

 でも、こんな美しい景色を、俺は見たことが無かった。海風の潮臭さも、岩に座る尻の痛さも、靴に入った砂のざらつきも、そして夕日が目を刺す痛みさえ、全てが美しかった。

「……いらなかったんだ、なにも……」

 夢に浸る為の仰々しい装置も、1時間置きに目覚める為のアラームも、柔らかい椅子も何も要らない。世界はただ、在るがままに美しかった。


「なぁ、冬人。このタイミングで、本当に申し訳ないんだがねぇ……ちょい、ちょい」

「……ん、なんですか……?」

 日が海の向こうに消えて、夜が忍び寄って来る。うっすらと肌寒さを感じ始めた頃に、女に肩を叩かれた。涙を拭い、鼻水を啜り、最低限見られる顔を作って振り向いた。

「はいこれ、請求書。お前のかーちゃんに渡して」

 差し出されたのは、小学校なんかで配布されていそうな、質の悪い1枚のA4用紙。大雑把に、これまた赤いインクで、呪いの手紙を思わせる乱筆が踊っていた。

 項目は、女の言うとおり、請求書であるらしい。調査費用だの交通費だの、とにかく雑多な項目がずらりと並んでいる――が、最後の項目を見た瞬間、俺の感動は一気にどこかへ引っ込んだ。

「……サービス料、一千万也――は、はああぁ!?」

「私みたいな美人の膝枕で8時間も寝てたんだ。1時間100万円、それに長時間拘束の追加料金。妥当な請求だろう?」

「ば、馬鹿っ、こんな金を払える訳――」

 払える訳が無いだろう。貧乏ではなくとも、裕福でも無い家計だ。知人や親戚に金持ちが居る訳じゃなし、どう転がってもそんな大金は生まれてこない。

「払えない、ってかい? それは困ったねぇ、私も慈善事業をしてる訳じゃないんだ。どうしてもって言うなら、別な形で払ってもらうしかない……まあ、目玉とか? 腎臓とか? 皮膚も結構使い道は有るし? もしくは――」

「そ、そんな悪徳借金取りみたいな……!」

 片方無くても生きて居られるから大丈夫とか、そういう問題ではない。確かに、生きて居られるならそれだけでいいとは願ったが、内臓を持っていかれるなんて御免だ。女から逃れるように後ずさった俺だが、直ぐに片腕を掴まれる。そして女は、ぐうと身を乗り出して、

「――もしくは、お前のアカウントを私に売るか、だ」

 これ以上無くむかつく程に清々しい笑顔を、俺に見せた。

「あ……あんた、もしかして最初っから……」

「アッハッハッハッハ、そりゃそうさぁ! まーさかお前の家みたいな所から、何百万も引きずり出せる訳無いだろう? お前があれだけの廃人っぷりを見せてなきゃ、そもそも仕事を蹴ってたってーの!

 いやまあ、いい取引だと思うよ、うん。マイナス1千万を抱えたベリーベリーハードで人生を始めるか、100万と就職先をゲットしたイージーモードで人生を始めるか、それだけの選択肢だもの。私なら、迷う事なんて無いけどなぁ……」

「ったははは……ひでえ、あんたひでえ!」

 俺のアカウントは、世の金持ち廃人ゲーマーがこぞって欲しがる、超高額の商品だ。売ろうとしてこなかったから値段の見積もりは無いが、強化値をカンストした武器を50本も売れば、100万なんて直ぐに稼げる筈。

 つまりは、最初からそれが目的で、この女は俺を外へ引きずり出した。仕事を達成したという成果を作って、取り立てに正当性を持たせた。法に訴えれば勝てそうなやり方では有るが、それを選択した時に、どんな報復が在るか分かったもんじゃない。

 女が、指をパチンと鋭く打ち鳴らす。女の人差し指に炎が灯り、取り出したタバコに火を着けた。あまりに突然の事で――更に言えば、あんな夢を見せられた事も有って――俺はその光景に、なんら疑問を抱かなかった。

「ジュリア=ファイネスト、ファイネスト天使代行業社長さ。これからは私を社長と呼びな。なあに、世界は面白いもんさ、こういう不思議も転がってるしねぇ」

「……了解です、社長」

 タバコの煙を顔に吹き付けられながら、俺は頭を下げる。否と答える事は、請求書の赤文字が、彼女の赤目が、異様な重圧を放っていて、とても叶わなかった。




 あれから数カ月。俺はジュリア社長の下で、『魔術師』の見習いなどという事をやらされている。

 この科学全盛の時代、魔術なんて物が存在する事さえ俺は知らなかった。社長が言うには、世界にはまだ数千も数万も、魔術師という輩は存在するらしい――が、あまり表に出ないように各人が尽力する事で、一般人には存在を知られていないのだとか。

 あの日、俺が悪夢を見させられたのも、社長がタバコに火を付けたのも、その魔術とやらの一端らしい。俺も修行の成果で、1分も有れば金属製スプーンを、ぐにゃぐにゃに曲げる事が出来るようになっていた。

 魔術の勉強時間はきっかり8時間、うち半分は社長の講義で、半分は自分一人でも出来る基礎修練。睡眠時間は6時間も有れば足りる体になってしまっているので、残り10時間を、食事や仕事などに割り振る。

 とは言っても、仕事なんて、そうたいしたものではない。社長お手製特殊モニタの前に座り、『ワールドクリエイター』のBOTを走りまわらせ、情報を集めるというだけの事だ。

 本来ならHMDで無ければ見られない筈の画面を、平面のモニタに強制的に映し、数台を同時に監視する。面白そうな会話が聞こえてくれば、その会話のログを採集し、社長の助手の少女――そう言えば、まだ名前を知らない――に渡す。すると彼女がログを分析し、儲け話を探してくると言う訳だ。

 最初の内は、どういう会話を集めればよいのか分からなかった。だが、その内に少しずつ理解してくる。あまりゲームに慣れておらず全体チャットで叫びまくる初心者、人数を集める事こそ至上と思い込むギルドのトップ、サーバー内では有名な廃プレイヤー。そういう連中の近くでは、金が動きそうな話題が有ったり、現実の生活が窺えそうな話題が有ったり、或いはプレイヤー同士の揉め事が有ったりと賑やかである。

 BOTには、戦闘行為は一切させていないし、アイテム採集もさせない。ただ走らせ、会話を集めさせるのみ。仮に武力が必要になったら――その時は俺のアカウント、『wirten』が出動する。

 あの日から俺は、このゲームを殆どプレイしていない。自由時間にログインしてみた事も何度か在るが、気が乗らない。街で宿の娘を見る度、クエストの張り紙を閲覧する度、雪原の狼達の記憶が蘇るのだ。あれ程に恋い焦がれた大地は、俺のトラウマとして、しつこく心に張り付いていた。

 それでも、フィールドBGMを聞くだけで吐き気を催す様な、極端な状態にはない。ただ、これまでが狂ったように熱中していただけに、普通に戻る事さえ、異常に感じられているのかも知れない。

「……うっし、こんな所か……時間だな」

 会話の採集は、社長助手の分析が追いつく程度にしなければならない。そうなると、仕事の間に何回か、比較的纏まった時間が出来る。そんな時、俺は、近所を軽く走りに行くのだ。体力が無ければ魔術師は務まらないという、社長の方針も理由である。

 ファイネスト天使代行業の事務所は、場所は言えないが、どちらかと言えば太平洋側にある。太陽は山に沈み、山から昇ってくる。茜色に染まる海など、見るべくもない。

 だが、季節に併せて移り変わる風景は、それはそれで心安らぐものだ。最近は道端に花も増えて、蝶などもひらひらと飛びまわるようになってきた。今日はうららかな小春日和、風は丁度、追い風だ。

「よーう、今日も労働御苦労、出来の悪い弟子君。タイムの伸びが悪い様だねぇ?」

「いや、これでも最初に比べればかなり良くなった方で……」

 後ろから声がした――かと思えば、となりに声の主が移動した。赤ジャージに赤運動靴という、これまた派手な格好をした社長である。喫煙者の癖に恐ろしく体力がある様で、息も乱さずに喋っている。

「そういやさ、次の依頼が舞い込んだよ。結構な金額だ、こいつは完全に――つまり、要求された倍の結果を出して、3倍の金はせしめたい」

「あくどい、実にあくどい……もう少し手心加えて上げたらどうですか?」

 俺自身も、自分で決めたペースでなら、支障なく会話は出来る程度に、体力は付いてきていた。まだ腹の肉は落ち切らないが、体は随分軽くなったように思う。

「それがさぁ、そーいう訳にもいかんのよ。依頼主はちょっとした会社の社長で、ターゲットはそのボンボン。『kaiza-』ってプレイヤー、知らない?」

「ああ、俺の鯖の……課金額が半端無くて、取り巻きの女キャラまできらきらさせてた奴でしたっけ。そっか、ボンボンだったのか……」

 最近のプレイヤー事情は、会話ログを追うという仕事柄、かなり広く理解している。そう言う、いわば侮蔑混じりに話題にされる様なプレイヤーなら尚更だ。

「まずはゲーム内で、取り巻きをお前が奪え。現金は50万まで使っていい、どうせ向こうに請求するんだからねえ」

「貢ぎまくって、取り巻きをこっちに引っぺがせって事ですか? 『virten』でそれをやるのは拙いな……」

「ダミーアカウントはもう作ってあるよ。登録1カ月、ログインだけして放置して、プレイ時間は廃人級。課金と、それからアイテム譲渡を使って、ダミーを金キラに飾ってやりな」

 社長の『廃人潰し』のやり方は、まずその居場所を切り崩す所から始まる。酷い時など、所属100人規模のギルドから30人程を買収し、内紛を引き起こして解体した事も有る――狙いは、ギルドリーダーただ1人だった。

 が、今回は、それでは済まないらしい。「まず」と言った以上、もう1枚の札が在る。

「……で、社長は何時も通りに?」

「中学生の餓鬼だっていうしさー、今度はサキュバス風で行こうと思うのよ」

 処女の血を媒介とした、超強力な幻術。五感の全てをジャックし、外部からの刺激で、思うように幻覚を展開させる。それが夢であるとは気付く事が出来ず、快感も苦痛も感じるが、決してその中で死ぬ事は無い。俺が見た世界も、それだ。

 やけに楽しそうな社長の顔を見る限り、カイザー君とやらは、きっと巨大なトラウマを抱える事になるのだろう。女性恐怖症に陥らなければ良いが――と、余計な心配をしてしまう。

 仮想現実の希薄な人間関係に溺れるくらいなら、少々のトラウマを抱いて現実に生きる方が良い。この世界、龍は見た事は無いが、魔術師は俺の隣に居る。レンガ作りの建物だって、海の向こうには幾らでも在る。地平線までの雪原だって、天を突く山脈だって、何処かには存在しているのだ――ただ、俺が知らないだけで。

「本当に社長、悪魔みたいですよね」

「天使様よ、天使さま。働かない神、週六シフトの天使、そして年中無休の私とお前。おーお、かくて幾何時を経たもうや」

 廃人撲滅天使代行、開業時間は社長の気分次第。営業妨害にならない範囲で、ひっそり事務所を構えています。

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