戦士ヴィルテンと凍土の狼退治(4)
雪の中を歩いていく。剣と盾の与えてくれるステータス補正の為か、足は予想以上に軽く動く――とは言っても、膝も埋まる様な雪では限度があるが、今の俺は雪の重さを忘れている。
道を間違える事は無い。目を瞑っていても目的地に辿り着く自信がある程に、俺はこの世界を良く知っている、知り尽くしているのだ。
あれこれと考え事をしている間に、もう森が見えてきた。そこから狼を群れごと雪原に誘い出し、纏めて撃破するのが基本戦術だ。
「……やってやる、俺はやってやる、やってやる……!」
ここは『北の森』、狼の群れが住むエリア。序盤も序盤に、ソロでクリア出来る程度のクエストしか配信されない、安全地帯も良い所の区画だ。
但し、ここで安全なのは、この世界では俺だけだ。俺だけが力を持っていて、狼どもを雑魚扱いする事が出来る。あの町の誰もが恐れる狼を、俺は素手でさえあしらう事が出来る。
だが、それでは物足りない。過剰なまでに力を見せつけてやらなければ、俺の気が済まないのだ。
何故か。狼に食い殺された少女の為、かも知れない。俺に怒りを正面からぶつけてきた、宿の娘さんの為かも知れない。そんな風に、理屈は幾らでも並べたてられるが――本当はもう、気付いてしまっていた。
力有る戦士を求めている街の連中。なんてことは無い、それはつまり、自分に都合の良い労働力を欲しがっているだけではないか。望んだ時に戦地に向かい、危険に身を晒して問題を解決する便利屋を望んでいるだけではないか。
あいつらは便利屋に人格など求めていない。俺の人格なんて知ったこっちゃ無いだろう。だから、俺が役に立ちそうなら褒め称えて下へも置かぬ扱いをし、思うように動かないと知れば罵り、追い立てるのだ。
ならばお望み通り、力を見せてやろう。伝説の龍も冥府の王も抗えぬ、最強の力を見せてやろう。俺こそは戦士ヴィルテン、世界最強の剣士。結果だけが全てという世界なら、俺が何よりも正しい存在なのだ。
「居た……よーしよし、居やがったな……!」
目的の狼、その一体目は直ぐに見つかった。いつもアレは、森の入り口付近をウロウロしているのだ。所謂、斥候と言う奴である。
アレは高レベル帯のプレイヤーに対するトラップの様なものであり、一定レベル以上のプレイヤーを発見すると高らかに吠え、森エリアの全エネミーを呼び集めるのだ。
生半可なレベルであれば苦戦させられるだろう。だが、俺の様に高レベルプレイヤーであったのなら、一網打尽にする事はなんら難しいものでも無い。それどころか、撃破の効率が上がる為、寧ろ有り難い仕様であった。
「おい、さっさと仲間を呼べ!」
言葉は通じないだろうが、こちらに気付かせる事が出来ればそれでいい。後はあの見張り狼が勝手に吠えて、仲間を呼び集める筈だ。
「……あ、れ? おい、どうしたよ、仲間を呼べよ……お前だけじゃどうしようも無いだろ?」
そいつは低いうなり声を上げると、雪の上をすたすたと歩き、俺に近付いてきた。まるで、低レベルプレイヤーに遭遇した時の様な無警戒さで、だ。
俺の頭は一気に熱くなった。人間ばかりか、よりによって狼にまで舐められたのだ。俺は警戒に値しない雑魚だと言われたも同然だ――レベルが10も有れば倒せる雑魚敵に。
「てめっ、このやろおおおぉっ!!」
盾を体の前に構え、剣を高く振り上げて、唸る狼に向かっていく。こんな奴、一撃で斬り殺してやる。
剣が届く距離に入った瞬間、狼が視界から外れた。そう認識するより先に、左腕が急激に重くなった。狼が、鎧の上から噛みついていた。
「うおっ、あ、わっ!?」
痛みは無い。狼の牙で貫通出来る程、俺の鎧は脆くない。だが、狼は予想以上に重かった。小さい頃、犬にじゃれつかれた事は有るが、そんなものとは訳が違う。体が大きい分、重さが有る。そして、噛みついた状態から俺を引き倒そうとする脚、首も、尋常では無く力が強い。
「……っぐお、ああったぁっ!?」
持ち上げて投げ飛ばそうと、左腕に力を込めた。二の腕から肘に掛けて激痛が走る。無理に重量物を持ち上げようとして、筋がイカれてしまったらしかった。涙が出る程に痛い。零れた涙は、早々に頬の上で凍りつき始めた。
「くそ、離れろ、離れろこの雑魚、雑魚っ!!」
罵っても、狼に通じる筈は無い。
幾ら犬より大きいとは言っても、鎧を着込んだ俺よりは軽い筈だ。なのに俺は、狼に明らかに力負けしていた。揺さぶられ、幾度か倒れかける。膝までの高さが有った雪が幸運にも支えとなり、立っていられる様なものだった。
「ぉ、おおおおおああぁ!!」
そこで漸く俺は、自分が右手に構えている剣の存在を思い出した。腹一杯の空気を吐き出し、裏返った奇声を上げながら、剣を狼の背に振り下ろした。これまでなら、これで確実に殺せる筈だった。
いや、致命傷を与えたのは確かだ。俺の剣の威力はやはり凄まじいものであり、自由落下と然程変わらない速度であっても、狼の背骨に深く食い込んだ――そう、剣の速度は、自由落下と変わらない。俺は剣を振り下ろしたのではなく、構えた腕の力を抜いただけだ。
剣は、予想を超えて重かった。アイテムによるステータス補正が有るというのに、振り回せば肩が持って行かれそうな程だったのだ。
「ッグゥ、ウルルルル……ルル、ゥ……」
「っはぁ、は……ど、どうだ雑魚め、この……!」
一撃で殺せなかった相手の背から、剣を引き抜こうとする。背骨に剣は固く食い込んでいた。狼を踏みつけ、大根でも抜く様に引っ張らなければ取れなかった。
踏みつけた狼の肉、その下の骨は、とても固かった。野生動物の筋肉は人間の、それも俺の様に体を鍛えていないものとは――待て、待て、待つんだ。
何かがおかしかった。そうだ、おかしい事ばかりなのだ。
今までの俺は、狼一頭にてこずる様な男だったか? こんな狼など、片手で木に投げつけ、叩き殺せる戦士では無かったか? 雑魚的の代表例である狼など、数頭重ねて一刀両断してのける技量と力を持っているのではないのか?
いいや、俺はそんな事を出来る筈が無いし、した事が無い。俺は剣を持った事など無いし、狼に噛みつかれた事も無い。七年はまともに運動をしておらず――いや、いや、いや。
違う、この世界の俺は世界最強の剣士で、でも俺は実際に剣の振り方だって知らなくて魔法も何も使えなくて、違う俺は戦士ヴィルテン最強の男。
でも、でも、でも。だったら、今の俺はどうして――
「ぅう、うううううう……!」
――こんな狼一匹を、怖いと感じている?
「うわああああああぁ! 死ね、死ね、死ねえええ! 死んじまええええっ!」
遠からず死ぬだろう狼を、俺は何度も蹴り付けた。剣は重いから、振り上げて振り下ろす様な真似はしない。簡単に動かせる足で、踏みつける様に蹴り続けた。
何回目かで、もう死んでいただろう。だが、踏みつけた際にぴくりと動いたのが、まだ生きている様に感じられて、俺は暫く狼の死体を蹴り続けた。何かの視線を感じ、思わず顔を上げるまで。
「……ぅあ、あああ……馬鹿、有り得ないだろ……?」
気付けば森の中から、十数頭の狼が俺を観察していた。灰色の毛皮の大柄な連中のど真ん中に、真っ白の更に大きな奴が一頭。足元の狼がまだ若い未熟な固体だと、その時に気付いた。
もう、恥も外聞も意地も無い。狼共に背を向け、俺は逃げ出していた。
その結果がこのザマだ。
雪原に仰向けになり、両手は狼の牙で粉々に砕かれ、生きたまま貪り喰われている。つい先程までは痛みが有った、今はもう無い。ただ、ただ、寒かった。
「おい、なぁ、おい……聞いてるんだろ? 出て来いよ……!」
鉛色の空に向かって俺は叫んだ。俺が求めた人物は、これまでと同様に何の予兆も無く、俺の直ぐ近くに現れた。
「もしかして、呼びましたか?」
赤い髪の、天使の様な格好の女。そいつは今も、雪に足を沈める事なく、展示品の様な笑顔で立っていた。
「何なんだよこの世界、おかしいだろ!? 俺は世界最強の戦士で、俺は――」
「今更、何を言ってやがるんでございますか? 頭にウジ虫が湧いた揚句に蝿となって巣立って穴だけ残りましたか?」
俺は、この世界に俺を呼び寄せておきながら、何の力も与えなかった女を、言葉の限りに罵倒してやろうと思い、呼びつけたのだ。それが、たった二言で、決意を切り崩された。
営業用の笑顔を浮かべている癖に、その女の声は、やけにドスが利いていた。やくざ者が出るドラマなんかが有るが、それに出てくる登場人物にも劣らない程だ。
「貴方は、この世界に転生した。戦士ヴィルテンの代わりに、彼が築き上げた多大な財と装備、アイテム、知名度を受け継ぎ、最初から何もかも満たされた状態で人生を始めたのです。そこに不満が有るとでも?」
「あたりまえじゃないか! 俺は――戦士ヴィルテンは、こんなに弱い筈が無いぞ!?」
はぁ、と女は溜息をつく。俺の息は真っ白なのに、向こうには息の色が無い。きっと寒ささえ感じていないのだろう、不公平だ。
「お前はお前だろうが、このくそ甘ったれの図体ばかりでかい無能童貞がよォ? 何処かの戦士サマは強い、そりゃあ分かってるさ。だからと言って、お前が強い道理はねぇだろう!? 腹の弛んだ引きこもりが! 階段を上るだけで息を切らす豚が! 魔王や龍と互角に渡り合った戦士と、同格になれる理屈はねえだろう?」
目が据わった女は、とても服装に似つかわしくない汚い響きで俺を罵った。俺の身体的特徴ばかりか、些細なコンプレックスまでを指摘した揚句――続いた言葉は、完全に、俺の僅かな希望さえ殺してしまった。
「じゃあ……じゃあ、俺は!? 俺は、どうなるんだ!?」
「知らないよ、どうにかすれば良い。そんな立派な剣を、盾を、鎧を持ってるんだ。見張りだって、初心者どもがやるようにさぁ、仲間を呼べない距離まで誘い出して、ポーションでも使いながら削り殺せば良かったんだ。これだけ恵まれてる装備環境なら、その内、戦いにも慣れて――」
「デスペナ、デスペナは!? これ以上弱くなるとか、アイテムを取られるとか……」
女の目は、相手を憐れみ見下している人間に特有の、慈悲と高慢さを併せ持つものに代わる。は、と俺の言葉を、鼻先で笑い飛ばして言うには、
「んなもんねーよ、死ねば終わりだ。王様も奴隷も神の子も、死ねばそれまでアンコール無し。肉は獣の餌になり、武具は誰かが拾うだろう。これぞ素晴らしき世界の循環だよ」
デスペナルティを追っての復活、それさえも認められない。ここで死ねば、俺は狼の餌になるだけだという。嘘だ、信じたくなかった。どんな初心者プレイヤーだって、最初は何度か死にながらも、経験と技術を身につけて――
「大体よぉ、上等な死に方じゃね? 毎日毎日薄暗い部屋でHMD被って、カチカチカタカタやらかしてさぁ、七年も好きな事だけやって生きてきたんだ。普通の人間が費やせる時間の何倍も、娯楽って一点だけにさ?
その果てに、世界中の天才どもが努力して努力して努力しつくしてもたどり着けない、異世界冒険なんてスバラシイ体験までさせてやったんだ。お前の無能のケツ持ちなんてやってる程、私は暇じゃあないんだよ」
「頼む、帰らせろ、帰らせて――帰らせてください!」
両手を合わせて拝もうとしたが、その両手はもう、狼の胃袋に収まっていた。胸を狼に踏みつけられて、起き上がる事も出来ず、懇願する声は雪に吸い込まれて薄れていく。
「帰る? 今更どこにだい。お前はこの世界の人間から、その立場を奪い取って成り変わった。って事はだ、あっちの世界でお前の立場に、誰が居ると思う?」
「それは、ぁ――」
「そーうその通り、どんな怪物にも身一つで立ち向かう、世界最強の戦士様だ! 始まりは小さな狭い部屋かも知れないが、何せあいつは人間兵器。どんな世界のどんな国でも、自分の力だけでのし上がる。娯楽だってこの世界よりゃ、向こうの方が多いだろう。きっと毎日毎晩、良い酒飲んで女を抱いて、良い思いだけして百まで生きるんだろうねぇ……っはは、あーあ面白い」
無くなった手で、ログアウトの操作を繰り返す。メニュー画面は開かないし、当然、ボタンも一つも表示されない。
「とまあ、そういう訳で冬人くん、いやさ戦士ヴィルテン様。どうかどうかこの雪土の肥料と成り果て、春には美しい花を咲かせます様に。では!」
「いやだ、待って、いやだぁ! 何でだよ、俺は帰りたい、生きたい、死にたくない……! なあ、頼むよ、今度だけは……!」
女は、呆れた様な表情はそのままに、少しだけ諦めの様な色までも見せた。妙な既視感を覚えたが――それは、俺の母親が、俺に何度か向けた事の有る目だ。
「その言い訳、どんだけ使ってきた? 今だけ、次から変える、こう言う奴が何か改めたのを見た事が無いね。七年間、気付くチャンスは幾らでも有った筈だ……お前の生き方は、現実を生きちゃあ居ないってさ。お前の現実はこっちの世界だったんだ、だったらこっちで死ぬのがお似合いだろうが」
女は、俺に背を向けた。ああ、遠ざかる、立ち去ってしまう。あの女に見捨てられたなら、俺は本当に――
「今日から、今日から俺は変わる!! 外にだって出る、仕事も探す、だから――だから、助けてくれ! 助けてくれえええぇっ!!」
必死に、本当に死を覚悟して、俺は救いを求めた。生きて居られるなら、他に何も要らなかった。艱難辛苦の一切も、生きられるという報酬と比べれば、軽すぎるものだと思った。
気付けば、周りには狼もいないし、体の下に雪も無い――視界が暗転し、奇妙な浮遊感を味わっていた。赤い二つの光が、何時までも俺を睨み続けていた。