戦士ヴィルテンと凍土の狼退治(2)
異世界の朝、初日。俺は立ちあがり、体を動かしてみる。世界最高の防御力と軽さを誇る鎧は、せいぜい分厚いコートを羽織っている程度の重量感しか無かった。だが、硬質の手触りは確かに本物だ。これまで、映像と音は実際に味わう事が出来ても、この様な物理的接触までは不可能だったのに――
「間違いない、本当に俺は、この世界にやってきたんだ……!」
喜びのあまり、おかしな笑いが喉から出る。抑えようともしないまま、部屋の中で思いっきり拳を突き上げてみる。黒く輝くナックルのパーツは、傷一つ無く、俺の指を守っていた。
「戦士様ー? もう、早くしないとご飯食べちゃいますよー!」
「あ、ごめん! 直ぐに降りるよ!」
宿の娘の声が、階段の下から聞こえてくる。俺は、早くNPCの誰かに会いたかった。扉を開けて、階段を下りようとして、ふと気付いた事が一つ。
「あれ……そういえば、一緒にいたあいつは……?」
この村は、比較的序盤の拠点だ。本来なら冬人が――戦士ヴィルテンが滞在する様な所ではない。ここに居た理由は、ゲーム内の知り合いから紹介されて、とある初心者プレイヤーのクエスト攻略を手伝おうとしていたからなのだ。
「あの人は、この世界に転生するにはレベルが足りなかったのです」
「うおわっ!?」
全く何の予兆も無く、背後に、あの赤髪の女が立っていた。服装も、俺の部屋に来た時と全く同じだ。
「この世界はアント・アスマであり、しかし貴方の世界でプレイしていたゲーム内空間とはまた別物なのです。この世界にアクセスできるのは、選ばれた一部の者だけ。平凡なプレイヤー達は、訪れる事は出来ません」
「そ、そうなのか……」
心臓を鎧の上から抑え、女の説明を聞く。もしかしてこの女は、所謂ヘルプ機能なのだろうか。俺が疑問を持った時だけに現れ、説明をしてくれる、という。
「……あれ、それじゃあ、プレイヤーが運営してる施設ってどうなるんだ?」
「全てはNPCが……いいえ、この世界に生きる人間が、代わりに行っています。全く問題は有りませんよ、はい……スープ、冷めますよ?」
「おっとと、急げ!」
どたどたと階段を駆け下りながら、女の言葉の意味を考える。つまり、レア物を扱う様な変動相場の店も、全てこの世界の住人が経営しているという事なのだろう。
じゃあ、この世界に転生したというのは、俺以外には居ないのか――そうなのだろう、俺こそは選ばれた戦士なのだから。何百回と利用した勝手知ったる宿、一回の食堂に降りた。
「はい、今日はパンとスープ、それから取れたての卵のオムレツですよ!」
この宿は、NPCの主人とNPCの奥さん、それにNPCの娘の三人で経営している――プレイヤー経営の宿、というものは無い。娘のグラフィックと音声データの美麗さは好評で、ゲームとしてプレイしていた時も、俺は何度かここへ足を運んだ。
とんでもない、今の方がよっぽど美人じゃないか。現実にどれほど近くても、ゲーム世界は所詮作りものだった。今の彼女は、どれだけ近くで見た所で、どんな拡大ツールを使った所で、テクスチャの粗なんかみつからないのだ。
彼女が作ったオムレツも、ちゃんと味がする――予想通り薄味で、なぜかそのくせにしょっぱい。宿の娘は味音痴という萌え要素をも備えているのだから無理は無い。設定だけだった味音痴を実感できる事にさえ、俺は感動していた。
「戦士さま、今日はどちらに向かわれるのですか?」
物腰の丁寧な主人、低い声もHMD越しではなく、実際にこうして聞くと、中々心地よいものだ。
「ああ、今日は少し街を見て回って……明日、クエストを片付けに出るよ」
「クエスト?」
「ん? ……ああ、ええと、狼退治だ。俺一人で十分さ、あの程度」
「そうですか、ありがとうございます」
宿の主人が頭を下げる――が、その時に俺は気付く。宿の娘が俺に、どこか恨めしげな目を向けていた事を。
「…………ん、どうか、したの?」
「あ、いえ! いいえ、なんでも有りません……」
「そう、なら良いんだけど……」
急に、オムレツの不味さが嫌になった。コンビニのおにぎりの方が美味いと思ったが、出された料理である、どうにか完食した。
食事が終わってから、宿を出て、街を散策する事にした。
戦士ヴィルテンの名は、この街では子供にさえ知れ渡っているらしい。ただ通りを歩くだけで、木の棒を持った戦士気どりの少年が駆けよってくる。その誰もが、俺に憧れの目を向け、瞳をきらきらと輝かせているのだ。
「ねえねえ兄ちゃん、兄ちゃんってすごく強いんだよね?」
「ずっと向こうの方に住んでるドラゴンとか、一人で倒しちゃうんだよね?」
「ああ、俺は今までに何百頭もドラゴンを倒してきたんだぞー、ハハハ」
「うおー、すっげー!」
子供に自慢話など聞かせながら、俺は見慣れた通りを歩いていく。
その建物にも見覚えは有るのだが、解像度が全く違う。そこに有るのだという実感が違う。たった一歩歩くだけでも、足に感じる重さが違う。
「お、そうだ……確か、ここは……」
俺が足を止めた場所には、道具を預ける貸し倉庫が有った。俺の財産の大半は、そこに預けられているのだ。折角この世界に来たからには、じっくりと眺めていきたい。
「あのー、すいませーん」
「はぁい……ああら、戦士様。荷物の引き出しですの?」
無意味に色気がたっぷりの服を来た女性が、カウンターに凭れかかり、身を乗り出してくる。これまでもNPCとしてインパクトは有ったが、これは強烈だ。香水が好きだという設定が有ったが、女性の体臭と香水の香りが混ざると、こうも破壊的だとは知らなかった。
「ぁ、ぁはい、ちょっと倉庫に入りたいかなー、と思って……」
「良いわよぉ、こっちへおいでになって……ふふ、凄いんだから」
「あ、あれ……なんで、休業の看板を?」
貸し倉庫屋の女性は、緊急休業の看板――機能追加メンテ以外で見た事はない――を立て、俺をカウンターの内側、扉の向こうへ誘い入れる。従って付いていくと、扉に内側からカギを掛けてしまった。
「…………?」
「ヴィルテン様の倉庫は、この魔法鍵ね……対応する扉は、これ、っと」
この世界の貸し倉庫は、扉に鍵を差し込む事で、特定の異空間を開くものであるらしい。普段なら必要なものだけをカウンターで受け取るから、こうして踏み込むのは始めてだ。
「うおぉ……凄、これが俺の……!」
扉の向こうは、市民体育館の様な広さの空間だった。そこに、数えるのも面倒になる程の木箱が積み上がっていた。木箱の中身は、張り付けた紙に書いてあるが、装備品や金貨、換金用アイテムなど様々だ。あちこちに梯子が有るのは、それで登らなければ、上段の木箱を開けられないからだろう。積み上げる事が出来ないからと、そこに放り出された布袋でさえ、数十日分の宿代にはなるだろう高級アイテムがぎっしりと詰まっている。
「あいにく、こちらで預かっているのはヴィルテン様の総資産の5%前後……金額に換算して、30,000,000,000Gというところね……私の人生、何回分の収入かしらぁ……?」
三百億ゴールド、と、貸し倉庫屋の彼女は口にした。自分のゲーム内資産はこれまで把握していなかったが、それほどにもなっていたのか――この、序盤の街に預けてある分だけで。
ここまで膨れ上がっていたのなら、銀行業に投資するだけで、利子で食っていける――と、これまでの現実の考え方をして、俺は自分の馬鹿さに気付いた。
既に今の時点で、俺は毎日を豪遊した所で、使いきれないだけの金を持っている。この世界の宿一泊は、確か1000~5000Gというところの筈なのだ。毎日を最高の宿に宿泊した所で、一年の宿泊費は二百万Gにもならない。そんな金、俺には端金というにも軽い。
「ふふふふふ……そうか、俺は、俺は……! ははっ、俺は、これだけの人間なんだぞ……!」
「ええ、貴方は世界一の戦士様。素晴らしいお人なのよ」
自分が世界の支配者になった、そんな錯覚さえ覚えて、俺は高笑いを響かせる。声は倉庫の中に響いて、金貨の袋を振動させた。
ひとしきり笑い、自分の財産の実感を得て、俺はまた通りに戻ろうとした。と、背中に人の重さを感じる。振り向いてみると貸し倉庫屋の女性が、俺の肩に背後から手を掛けていた。
「……あのー、何か?」
「ねぇ、戦士様。貴方がとても強いのは知っているけれどぉ……夜の方も、やっぱり最強なのかしら?」
「え!? あ、ええ、夜っていうと、つまり男女の……」
いきなり飛躍した話題に、俺の喉がひきつった。頭の中では、このNPCのデータを思い出そうとする。この世界の事ならなんでも知っている、直ぐに記憶は見つかった。貸し倉庫屋の女性、セクシーな衣装と豊満な肢体で、男を誘惑して今の仕事の基盤を築いた……。
「ふふ。その顔だと――まだ何も知らない、そう見えるわよぉ? 勿体無いわ、折角の体を鎧に隠しちゃって……」
「ぁ、あ、待って下さい、俺は」
「教えてあげても……ふふ、良いのよ?」
咄嗟に俺は、彼女を振り払って逃げた。間違いない、彼女は俺の財産を巻き上げようとしている。根拠? そういうキャラだという裏設定が、彼女には用意されていたのだ、当然だろう。そしてあのままでは、俺は彼女の誘惑にころりと引っ掛かってしまったに違いない。
だが然し、考えてみれば二十七年の人生に於いて、異性にあの様に迫られた事が有っただろうか? 無い。バレンタインデーに義理チョコを貰った記憶さえない。同級生女子を地元の祭りに誘った時は、予定が有ると断られた――後で、友人がその女子と歩いているのを見かけた。
今の俺は、何をせずとも、女が向こうから寄ってくるのだ。今回は金目当てだったが、それもまさか、俺の財産全てを奪おうなどとは考えてもいるまい。もし、もし仮に、いつか俺がその気になったら――幾らかくれてやって、わざと騙されるのも良いかも知れない、と思ってしまった。
その後も、見慣れた街の見慣れぬ側面を、俺は一つ一つ堪能して回った。喧しいだけだと思っていたパン屋のおばちゃんは、改めてじっくり観察すると、非常に心を落ち着かせてくれる、親しみやすい顔をしていたことが分かった。街外れの館の未亡人は、設定年齢より明らかに数歳以上、外見年齢が若かった。熟女に興味は無いと言っていた俺が、その方向性を改める程に。
「ははは、最高の世界だ……そうだ、俺はこの世界の英雄なんだよな!」
夕食を終え、宿の二階の客室、ベッドの上で俺は笑っていた。この高揚感は、これまでの人生で一度も味わったことがない。敢えて似た状況を上げるならば、誕生日プレゼントの箱を手に、蝋燭の火を吹き消していた、本当に小さな子供のころ。狭い世界の全てが自分を祝福し、存在を無条件に褒め称えられたあの時に似ている。
「あいつは、こんな世界を味わってたんだよなぁ。俺が育ててやった癖に、はは……」
「ええ、そうなりますわね。貴方が操作していたキャラクターは、これに非常によく似た世界を経験していました」
「わっ!?」
忘れかけていた存在、赤髪の女が、何時の間にかベッドの脇に立っていた。
「あんた、どうして普通に出てこないんだよ?」
「私はこの世界の住人ではなく、システムです。普通に存在する事は許されないのですわ」
「ふうん……やっぱり、ヘルプ機能だったりする?」
「ヘルプ、兼データビューワーですわね。閲覧したいデータを、適宜検索し、提供いたします」
ぺこり、またあの、腰から曲がるお辞儀。どうやらこの女は、俺に専属の便利ツールと見て良いらしい。そんなものが有ると分かれば、さっそく使ってみたくなるのが人情だ。
「じゃあ、じゃあさ。NPCに設定されてる反応パターンって、どれくらい有るの?」
「パターンなどございません。無限通りでございます」
「無限!? すげえ、どういう作りなんだ……」
「……あらあら、まだこの世界について、認識が足りていないのでは有りませんかしら?」
人間がプログラムしたものならば、当然だが限界が有る筈だ。『ワールドクリエイター』の世界は広大だが、必ず何処かに果てがある。実際、村のNPCとの会話など、俺は殆どコンプリートしていた筈だが。
「ここは『ワールドクリエイター』の世界でありながら、同時に、本物の人間が生きる世界でもあるのです。存在するのは全て、一個の意思を持った人格。自分の知識と感情に基づき、その時々に応じて万事を判断する……反応パターンなど、そうなれば無限に生まれるのです」
「……生きてる人間と同じ……いや、生きてる人間そのものなんだな?」
「はい。ですので当然ながら、彼らにはHPという概念は有りませんし、好感度なども数値として閲覧は出来ません。閲覧できるとすれば所持金や装備品など、具体的に数値化できる要素だけですわ」
「その数値とかを、ちょっといじったりするのは?」
「その権限は私にはございません。世界の創造者が許可をお出しになれば、あるいは」
これまでも、計算プログラムを使用しない限り、好感度などは数値として見る事は無かった。やり取りやアイテムの贈与などで上昇する値を記憶しておき、そこから現在の値を推測していたのだ。やる事は何も変わらない、俺はそう認識する。
「そうかー……うん、やっぱりここは『ワールドクリエイター』だな――おっと、いけね」
頷き、ベッドの上で布団を被ろうとして、鎧を身に付けっぱなしだった事に気づく。外して、今日は寝て、明日も街を見て回ろう。なあに、どうせ狼退治なんて数分で終わるんだ。無傷で帰ってきて、あの子供達をまたはしゃがせてやるさ。
「……むむ、こっちの部品がこうで、ここが……外しにくいな、くそ」
鎧を外すという初めての体験に十分くらいは苦戦をしながら、俺は布団を被って、心地よい疲労に目をつぶる。
眠る前に、本当に些細な事が気になった。
「そう言えば……おーい、ヘルプ機能ー」
「はい、ここにおります」
名前を知らないが、システムに無理に名前を付ける事もないだろう。呼びかければ直ぐ、片時も離れていなかったかの様に、声が帰る。
「俺が、こっちに来ただろ? じゃあ、向こうの俺ってどうなってるんだ?」
「あちらの貴方には、こちらの世界でいう『wirten』――戦士ヴィルテンが成り替わっております。急に人間が消えるという不自然を世界は許しません、必ず数合わせの代償を要求します。貴方は戦士ヴィルテンの立場になり、戦士ヴィルテンは貴方の立場に。あちらの世界では戦士ヴィルテンが、貴方の部屋のベッドに横になっているでしょう」
「ははっ、運が無いなあいつ。あんなつまらない世界で、あんな男の立場にされちまったのか!」
世界最強の戦士だった男が、今は安アパートでごみに囲まれている。その光景を想像すると、俺はおかしくてたまらなかった。対岸の火事、他人の不幸は蜜の味。良く言われる事である。
充実した明日を夢見ながら、俺は何年かぶりに、好ましい睡眠というものを味わった。