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異世界転生したのに前の転生者にやり尽くされていた件  作者: ベルナルド
一章 キャンウィング領編

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第十七話 満ちる太陽に、刺さる影


 グッドモーニング。

 ……と、気軽に言えるほど、俺の朝は爽やかではなかった。

 結論から言おう。まったく寝られなかった。

 いや、正確には少しは寝たのかもしれない。

 けれど、目を閉じればすぐに意識が沈んでいくような、あの気持ちのいい睡眠ではなかった。

 浅い眠りの底を何度も蹴り上げられるように、俺は夜の間中、何度も目を覚ました。


 そのせいで、夜中に何度もトイレへ行った。

 緊張で腹が痛くなるというのは、前世でも何度か経験がある。

 試験前とか、発表前とか、好きな子に連絡を送ったあととか。

 だが、今世でここまで緊張したのは初めてかもしれない。


 ちなみに、貴族の屋敷のトイレはとんでもなかった。

 水洗式。便座は温かい。しかも、ウォシュレットらしき機能までついている。

 この世界に転生してから十年。俺は初めて、文明に心から感謝した。

 俺は決めた。いつか絶対に、このトイレを買えるくらい稼ぐ。

 勇者になれなくても、魔術師になれなくても、温かい便座を手に入れるためなら人は頑張れる。

 そういう意味では、今日の朝に得た目標はかなり現実的だった。


 ……いや、そうやって馬鹿なことでも考えていないと、手の震えをごまかせなかったのだ。


 身支度を終え、俺は領主館のロビーへ向かった。

 朝の領主館は静かだった。

 昨日見た時は、使用人たちが忙しそうに行き交い、エリシアの帰還で屋敷全体が少し浮き足立っていた。けれど、今はまだ空気が眠っている。

 高い天井。磨かれた床。壁に飾られた絵画。窓の外に広がる手入れされた庭園。

 俺たちの町では見たことのないものばかりだった。

 こうして領主館の椅子に座り、広い庭を眺めていると、世界は俺が知っているよりずっと広いのだと実感する。


 「ルークスおはよう」

 

 柔らかい声がして、俺は顔を上げた。


 「おはようサラ」


 ロビーの入り口に、サラが立っていた。

 青い髪はいつもより少しだけ乱れていて、目元も重そうだった。


「サラも寝られなかったのか?」

「え、ルークスも?」

「緊張してな。何度も目が覚めた」

「ルークス君も緊張するんだね」

「そりゃするだろ。俺を何だと思ってるんだ」

「何でもできる人」

「そんな万能じゃないよ」


 サラは小さく笑った。

 その笑い方を見て、俺は少しだけ安心した。

 サラも緊張している。俺だけじゃない。そう思えるだけで、胸の奥に張りついていたものが少し緩む。


「サラは大丈夫だろ。昔から聖魔術みたいな力を使えてたし」

「でも、正式に分かるのは今日だから」


 サラは自分の手をそっと見下ろした。


「もし、思っていたものと違ったらって考えると、少し怖いよ」

「……そういうものか」

「うん。ルークス君だって、そうでしょう?」


 サラの言葉に、俺はすぐには答えられなかった。


 そうだ。怖い。

 期待しているから怖い。

 期待している自分を認めたくないから、余計に怖い。


 何もないと分かっているふりをしながら、本当は何かあることを願っている。

 そんな自分が、どうしようもなく情けなかった。


「まあ、俺も少しはな」

「少し?」

「かなり」

「正直でよろしい」


 サラは少しだけいたずらっぽく笑った。

 その時、屋敷の廊下の奥から、朝に似つかわしくないほど元気な声が響いた。


「おはよう、みんな!」


 レンだった。

 寝起きとは思えない声量である。

 こいつの身体には、朝のだるさという概念が存在しないのだろうか。


「おはよう、レン。元気だな」

「おうよ!」


 レンは胸を張った。

 目はきらきらしている。緊張など一切見えない。むしろ、これから冒険に出るのを楽しみにしている子供そのものだった。


「お前には緊張ってものがないのか?」

「あるぞ」

「本当か?」

「今日、俺が勇者になるかもしれないって考えたら、わくわくして眠れなかった!」

「それは緊張じゃなくて遠足前の小学生だ」

「ショウガクセイ?」

「なんでもない」


 レンは首を傾げた。


 この男は、本当にまっすぐだ。

 自分が勇者になると疑っていない。いや、正確には、勇者になれるかどうかではなく、勇者になると決めている。

 その根拠のなさが、時々うらやましくなる。

 俺はどれだけ考えても、どれだけ準備しても、不安を消せない。

 こいつは何も持っていないように見えて、いつも真っ先に走り出せる。


 たぶん、それも才能なのだろう。


 しばらくすると、ガードナーさんやエリシアも起きてきた。

 そこで、ひとつ気づく。


「師匠は?」


 いつもなら、ジャンは誰よりも早く起きていそうなものだ。

 あの男は普段ふざけているが、生活のリズムは妙にしっかりしている。森で生きる狩人らしく、朝には強い。


 まさか酒場にでも行ったのか。

 いや、この屋敷でそれをやったら普通に迷惑だ。

 そう思った時、領主館の扉が開いた。


「よう、帰ったぜ」

「お帰りなさいませ、ジャン様」


 執事のミシェルさんが、自然な動作で頭を下げる。

 扉の向こうにいたのは、ジャンだった。

 肩には弓。手には、鳥のような魔物か野鳥か分からないものをぶら下げている。


「どこ行ってたんだよ」

「かかか。朝飯の材料を取ってきた」

「屋敷に泊まってる客の行動じゃないだろ」

「うまいもん食えるんだからいいだろ」

「助かります、ジャン様」


 ミシェルさんが本気で助かったように受け取っているので、俺はそれ以上言えなかった。


「俺も行きたかったぜ」


 レンが悔しそうに言う。


「おめぇ、朝弱いだろ」

「今日は起きてた!」

「寝癖つけて言うな」


 レンが慌てて髪を押さえる。

 サラがそれを見てくすりと笑った。


 こういう何気ない朝のやり取りは、いつも通りだった。

 でも俺の胸の奥には、ずっと小さな棘が刺さっていたままだ。


   ◇


 朝食は、相変わらず豪華だった。

 昨日の夕食は、いかにも貴族の洋食という感じだった。

 だが、今日の朝食は違った。


 白飯に味噌汁、目玉焼き、焼いた魚。日本かよ。


 いや、日本ではない。ここは異世界だ。

 分かっている。分かっているのに、目の前の朝食はあまりにも俺の前世を刺激してきた。

 俺が固まっていると、ミシェルさんがそっと近づいてきた。


「パン派でございましたか?」

「え、いや、うちはずっとパンだったので、珍しくて」


 俺がそう答えると領主様が穏やかに笑った。


「この国の主食は確かにパンだ。だが、我が家では米を食べることも多い」

「おじい様が、アレス様に憧れていらっしゃたのです」


 エリシアが少し誇らしげに言う。


「アレス様の好物が米だったと伝わっておりますので、我が家では特別な日や客人を迎える朝に、米を出すことがあるのです」

「なるほど……」


 米を食べる文化。味噌汁に似た汁物。

 箸ではなく匙やフォークで食べるところだけは異世界らしいが、それでも俺にとっては十分すぎるほど見覚えがあった。


「この国で米は作れるんですか?」


 俺は思わず尋ねた。

 ゴルゴン王国の主食は陽穂草(ようほそう)だ。

 本で読んだ知識では、米に相当する作物は一般的ではなかったはずだ。

 領主様は、少し感心したように目を細めた。


「ほう。よく勉強しているようだね」

「本で少しだけ」

「君の言う通り、この国では米はほとんど作れない。これはAZ財団から買っているものだ」

「AZ財団……」


 その名前に、俺は聞き覚えがあった。

 俺が旅商人から買った本。

 アレスの発明品について書かれた本。

 そこに記されていた出版社の名前が、たしかAZ財団だった。

 てっきり、本を出している会社だと思っていた。

 だが、どうやらそれだけではないらしい。

 本を売り、米を売り、アレスの遺した文化を流通させる。

 それが財団と呼ばれるほど大きな組織なら、単なる出版社ではないのだろう。


「ただ、最近は米も高くなってしまってね。普段はパンの方が多い」


 領主様は苦笑した。


「おっと、すまない。客人の前でする話ではなかったな」

「いえ、ありがとうございます。勉強になりました」


 俺はそう答えた。


 その時、ふとジャンの方を見る。

 ジャンはいつものように適当な顔で飯を食っていた。

 だが、AZ財団という言葉が出た一瞬だけ、その目が曇ったように見えた。でも気のせいかもしれない。


 

   ◇


 朝食を終え、俺たちは教会へ向かった。


 キャンウィング領の教会は、昨日見た時よりもさらに大きく感じた。

 その前には、すでに子供たちと親が集まっていた。


 不安そうな子。

 期待に目を輝かせる子。

 何も分かっていなさそうに親の服を掴んでいる子。

 その横で、親たちは祈るような顔をしている。


 魔術回路があるかどうか。

 それは、この世界では人生を大きく左右する。


 特に平民にとって、魔術回路が見つかるというのは、ただ才能があるというだけではない。

 それは、人生が変わる可能性そのものだ。

 ただの平民として一生を終えるより、ずっと多くの道が開ける。


 もちろん、逆もある。

 何もなければ、何も変わらない。

 ただ今まで通りの人生に戻るだけ。

 それだけのはずなのに、期待した後の「何もない」は、思っているよりずっと重い。

 俺はそれを、今から受けるのかもしれない。


「お前には緊張がないのか」


 隣のレンを見ると、相変わらず自信に満ちた顔をしていた。


「俺は勇者になる男だぞ」

「さすが、勇者様だ」


 洗礼の儀式は、思っていたよりも簡素だった。


 壇上に子供が上がる。神父が手をかざす。神の名を唱え、洗礼の魔術を発動する。

 その結果、手の甲に痣のような印が浮かぶ。

 正確には、痣そのものが魔術回路というわけではないらしい。

 体内にある魔術回路を、洗礼の魔術によって外側に映し出したものだという。


 印が濃く、大きく、複雑であるほど、魔術回路の質が高い。

 逆に何も浮かばなければ、魔術回路はない。

 分かりやすい。分かりやすすぎて、残酷だ。


 「我が主なる神よ、どうかこの者に、神秘なる力の有無をお示しください」


 神父が子供の手にそっと手をかざした。


「第三階位――神の洗礼(みこと)」


 淡い光が、子供の手を包む。

 だが、手の甲には何も浮かばなかった。

 子供の母親が、少しだけ肩を落とす。

 神父は優しく声をかける。


「落ち込むことはありません。魔術だけが人生ではありませんよ」


 その言葉は正しい。

 正しいからこそ、胸に刺さる。

 その後も、何人かの子供が洗礼を受けた。

 結果はほとんど同じだった。


 平民に魔術回路が現れることは珍しい。

 貴族が魔術を誇る理由も分かる。彼らは血筋によって、最初から特別なものを持っているのだ。


 やがて、サラの番が来た。

 サラは小さく息を吸い、壇上へ上がった。

 神父が、サラの手に手をかざす。


「我が主なる神よ、どうかこの者に、神秘なる力の有無をお示しください」

「第三階位――神の洗礼(みこと)」


 淡い光がサラの手元に集まった。

 次の瞬間、サラの手の甲に、白く繊細な印が浮かび上がる。

 花びらのようにも、光の羽のようにも見える痣だった。


 教会の中に、小さなどよめきが広がった。


「おい、見ろよ」

「くっきり出てるぞ」

「しかも、綺麗な印だ」


 神父の顔にも、驚きと喜びが浮かんでいた。


「おめでとうございます、小さな魔術師様」

「ありがとうございます、神父様」


 サラは丁寧に頭を下げた。


 俺は素直に嬉しかった。

 サラは昔から、人を癒やすような力を持っていた。

 だから、魔術回路があることは分かっていた。

 それでも、正式に認められるというのは別の話だ。


 サラはちゃんと選ばれた。

 彼女の力は、本物だった。

 羨ましい。でも、嬉しい。

 その二つの感情は、俺の中で何とか共存していた。


 サラが壇上から降りる。

 俺と目が合うと、少しだけ不安そうに笑った。


「おめでとう、サラ」

「ありがとう、ルークス君」


 その声は小さかったが、確かに嬉しそうだった。

 そして、歓声が完全に止む前に、俺の名前が呼ばれた。


「次の子、上がりなさい」


 俺は息を吐いた。


 足が重い。

 たった数段の階段が、やけに遠く感じた。

 壇上に上がると、教会中の視線が俺に集まった。

 期待の目があった。俺の胸が嫌な音を立てる。


 やめろ。

 そんな目で見るな。

 期待されるのは、嬉しい。

 でも、その期待に応えられないと分かっている時、視線は刃になる。


「では、手を貸してくれるかな」

「は、はい」

「すぐに終わりますよ」


 神父は優しく微笑んだ。

 俺は手を差し出す。

 神父の手が、俺の手の上にかざされた。


「我が主なる神よ、どうかこの者に、神秘なる力の有無をお示しください」

「第三階位――神の洗礼(みこと)」


 光が走った。

 同時に、手の甲にちくりとした痛みが走る。

 前世で受けた注射に似ていた。


 だが、それだけではない。

 何かが俺の身体の中を探っているような、ぞわりとした不快感があった。

 皮膚の上ではなく、もっと奥。血管の中、筋肉の隙間、骨の裏側を、細い指でなぞられているような気味の悪さ。


 これが洗礼か。

 神聖な名前に反して、感覚はあまり気持ちのいいものではなかった。


「うむ……」


 神父が俺の手を見る。


 俺も見た。何もなかった。

 綺麗な手の甲。傷ひとつない、ただの子供の手。

 何度見ても、そこには何も浮かんでいなかった。


「むむ……」


 神父はもう一度、俺の手に光を当てる。

 それでも、何も出ない。時間が長く感じた。


 周囲の空気が変わっていくのが分かる。

 期待が、戸惑いに変わる。

 戸惑いが、諦めに変わる。

 そして最後に、少しだけ同情が混じる。

 その視線が、一番嫌だった。


「どうやら、魔術回路はないようです」


 神父の声は穏やかだった。


 でも、俺にはそれが、判決のように聞こえた。


 分かっていた。分かっていたはずだ。

 俺は平民だ。

 貴族の血もない。

 勇者の血筋でもない。

 聖女の血筋でもない。

 転生者だからといって、この世界の仕組みが俺に都合よく変わるわけではない。


 そんなことは、最初から分かっていた。

 なのに、どうして、こんなに悔しいんだ。


「落ち込む必要はありませんよ。魔術だけがすべてではありません」

「ありがとうございます、神父様」


 俺はそう答えた。


 声が少し低くなったのが、自分でも分かった。

 笑えていただろうか。分からない。

 壇上を降りる時、足元が少しだけふらついた。


「かかか。人生、そう簡単じゃねえよ」


 ジャンが笑った。


 いつもなら腹が立つ言葉だ。

 だが、今は妙に優しく聞こえた。


「ルークス君は、魔術なんかなくても立派だよ」


 サラが言った。

 その声は本気だった。

 だからこそ、余計にみじめだった。


 励まされるほど、自分が落ち込んでいることを自覚してしまう。

 慰められるほど、自分が選ばれなかったのだと突きつけられる。


 俺は、うまく返事ができなかった。


    ◇


 そして、レンの番が来た。

 レンは壇上に上がると、なぜか教会中に向かって片手を上げた。


「俺は勇者になる男だ!」


 一瞬、教会が静まり返った。

 次の瞬間、笑い声が弾けた。


「ははは!」

「坊主、それ十年後に思い出して苦しむやつだぞ!」


「俺も昔言ったなあ!」


 大人たちが笑う。

 子供たちもつられて笑う。

 だが、レンは堂々としていた。

 笑われても、胸を張っている。

 しかし、神父だけは笑っていなかった。


「ふむ。立派な志です」

「そうだろ!」


 レンは満足そうに頷いた。

 神父はレンの手に手をかざす。


「我が主なる神よ、どうかこの者に、神秘なる力の有無をお示しください」


「第三階位――神の洗礼(みこと)」


 光が走った。


 その瞬間、空気が変わった。

 俺やサラの時とは違う。

 ただ手元が光ったのではない。


 レンの手の甲から、眩い光が溢れ出した。

 太陽だった。そう思った。

 教会の白い壁が、金色に染まる。

 窓から差し込んでいた朝日さえ、その光の前では薄く見えた。


「ぬっ……!」


 神父が弾かれるように後ろへ吹き飛んだ。

 周囲の大人たちが悲鳴を上げる。

 子供たちが目を覆う。

 エリシアが息を呑む。

 サラが俺の隣で、小さくレンの名を呼んだ。


「レン……?」


 俺は無意識に声を漏らしていた。

 光が収まっていく。

 その中心に、レンが立っていた。

 レンは自分の手を見て、それから俺を見た。


「ルークス」


 いつもの馬鹿みたいに明るい声ではなかった。

 それでも、迷いはなかった。


「俺は、勇者になるぞ」


 レンの手の甲には、光り輝く印が浮かんでいた。

 それは、サラのような繊細な印ではない。

 普通の魔術回路を示す痣でもない。

 太陽のような、剣のような、見る者の目を焼くような印。

 選ばれし者、勇者の印だった。


 俺は、思わず目を細めた。

 眩しかった。本当に眩しかった。

 太陽を直視すれば、目が焼ける。

 だから人は、自然と目を逸らす。

 その時の俺も、そうだった。


 レンが眩しすぎて、見ていられなかった。


 教会は静まり返っていた。

 誰も声を出せない。

 さっきまでレンを笑っていた大人たちも、口を開けたまま固まっている。

 最初に動いたのは、神父だった。

 彼は震える手で胸の前に祈りを作り、その場に膝をついた。


「おお……神よ」


 その声は震えていた。


「この場に導き合わせてくださったこと、誠に感謝いたします」


 神父は何度も祈った。


 それから立ち上がり、教会中に響く声で叫んだ。


「皆の者よ!」


 その声に、全員が顔を上げる。


「今、この世界に六十三人目の勇者様が誕生なされた!」


 沈黙が破裂した。


「うおおおおおおおおおお!」


 教会の窓が震えるほどの歓声が上がった。


 誰かが泣いていた。

 誰かが祈っていた。

 誰かがレンの名前を叫んでいた。


 エリシアは、まるで本物の伝説を目の前にしたように、レンを見つめていた。

 サラは驚きと喜びと、不安の混じった顔をしていた。

 ジャンは口元だけ笑っていたが、目は笑っていなかった。


 そして俺は、何も言えなかった。

 

   ◇


 それからは大変だった。


 レンは神父たちに囲まれた。

 どこからか酒が出てきた。

 町の人々は、あっという間に祭りを始めた。


 領主様もやって来て、正式に今日を祝日とすることが決まった。

 教会本部から大司教が来るらしく、レンは精密な検査を受けるまでキャンウィング領に滞在することになった。


 俺たちも、しばらく領主館に泊まらせてもらえることになった。


 ガードナーさんは、一度ゼケルの町へ報告に戻るらしい。

 父さんと母さんに伝えるためだ。

 レンが勇者だったこと。

 サラに魔術回路があったこと。

 そして、俺には何もなかったこと。


 ……何もなかったこと。


 ああ、嫌だ。

 認めたくない。


 普通、転生したら俺に何かあるだろ。

 魔術回路くらいあってもいいだろ。

 現代知識チートはアレスに潰された。

 血筋チートもない。魔術の才能もない。

 それなら、せめて努力でどうにかなるものをくれよ。


 俺は十年間、必死にやってきた。

 魔力炉を鍛えた。

 身体を鍛えた。

 ジャンに何度転がされても立ち上がった。

 赤眼熊にも勝った。

 なのに、世界は俺を選ばなかった。

 それどころか、すぐ隣にいた。本物の主人公が。


 レンは悪くない。

 あいつは何も悪くない。

 俺は、レンを祝福しなければならない。

 幼馴染として。友達として。隣で一緒に戦ってきた仲間として。

 でも、心の奥底で、どうしようもなく黒いものが膨らんでいた。


 どうして俺じゃない。

 どうして、いつも俺の隣なんだ。

 どうして、俺が欲しかったものを、そんなふうに当たり前みたいに持っていくんだ。


 そんなことを考えてしまう自分が、何より嫌だった。


 祭りの喧騒は、夜遅くまで続いた。

 誰もがレンの名を呼んでいた。

 誰もが勇者の誕生を祝っていた。


 俺はその中で、笑っていたと思う。


 たぶん。

 きっと。

 うまく笑えていたはずだ。


 でも、胸の奥にはずっと、刺さった影が抜けなかった。


     ◇


 次の日の朝。


 まだ屋敷が完全に目覚める前に、俺は領主館の扉を開けた。

 空は明るくなり始めていた。

 夜と朝の境目のような薄い光が、石畳を静かに照らしている。


 腰にはショートソード。

 その柄を握る手に、自然と力が入っていた。

 手の甲を見る。何もない。

 血管だけが浮き上がっている、ただの手だった。


 背後の屋敷からは、まだ昨日の祝福の名残が聞こえる気がした。

 誰かがレンの名を呼んでいる。

 勇者様と呼ぶ声が、耳の奥に残っている。


 俺の名を呼ぶ声は、どこにもなかった。

 ああ、そうだ。

 嫌だし、認めたくない。

 でも、認めてやるよ。俺はこの世界でも、主人公には選ばれなかったことを。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

ああ、かわいそうなルークス君。でも仕方がない、現実は残酷なのだ。

特に印象に残った場面や台詞がありましたら、一言だけでも感想をいただけると、とても励みになります。

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