第4話:名前の禁忌。『先客』が語る恐るべき掟
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
しばらく走ると、すぐに畑に突き当たった。人気がないのを確認してから脚を止める。走ったことだけが原因じゃない心臓の高鳴りが、耳に響いてきた。
今も目の前に広がる村の景色は、牧歌的でのどかに見える。しかし、決定的におかしいのだ。どうして、菜の花が咲き乱れている奥で、柿が橙色に実っているんだ。空はまた青空に戻ってるし。
怖い、とにかく怖い。
化け物が怖いというのとは、別種の怖さだ。夢じゃないなら、ここは天国、いや地獄なのか……?
(怖い……動きたくない。でも、ここも怖い……)
蹲って膝を抱えたい気分だが、そうやって視界を遮るのも怖い。一度目を瞑ったら、次に目を開けた時にどんな光景が広がるのか、想像するだけで怖い。あの黒い靄が近付いてきたのに気付けなかったら捕まってしまう。それだって怖い。
(ああ、やっぱりあの子に着いて行けば良かった)
あの少年、言葉は少なかったが、それでも最低限の会話は成立していた。それにバス停まで戻れば、少なくとも3日後にバスは来る。それを待てば良かった。バス停が安全とは思えないが、それでも脱出の手がかりすら見えない村の中にいるよりはいい。
緊張した目線で周囲を見張りながら恒一は考える。
(このまま来た道を戻るべきか……)
ふと、木立の向こうに何か赤いものがあるのに気付いた。
(鳥居?……ああ、神社か。……そう言えば、そんな話も聞いたっけ)
鳥居の方向を見ていると、お参りしているのか、出入りする住人の姿が見える。ひょっとしたら、村で一番人が集まる場所かもしれない。
(行った方がいいのか、行かない方がいいのか……)
また気持ちの悪い『神社のようなもの』を見せられるのかもしれない。住人が集まって、意味不明な儀式でもしているかもしれない。
それに、これまで何もされなかったからといって、これからも危害を加えられないとは限らない。
(やっぱり引き返そう)
不安な気持ちは変わらないが、呼吸はすっかり落ち着いた。それにじっとしていると、そのうち動けなくなりそうで、それも怖かった。それならせめて、逃げる方向へと脚を動かす方が精神的にも負担が少なそうだ。
変わらず周囲を警戒しながら、ゆっくりと来た道を引き返す。しかし、その道を神社に向かって歩く見覚えのある赤いジャンパー姿の少年を見つけた。
「あ、キミ!」
思わず上げた声に反応して、少年が振り返った。
「…………」
やはり無言だ。そして目に力がない。
それでも他の住人と違うのだけはわかった。
「神社に行くの?」
何でもいいから声が聞きたくて、少年に駆け寄った。
「行く、神社、……まいにち、参る」
「そ、そっか。信心深いんだな」
たどたどしいとはいえ、ちゃんと意味の通じる回答だった。間違いなく、他の住人たちとは違う。
この村は一体どうなっているのか、問い質したい気持ちが湧き上がってくるが、それをぐっと堪える。
「ねえ、俺は須々木恒一って言うんだけど、キミの名前、聞いていい?」
「……っ!」
名前を告げた瞬間、少年の顔色が変わった。慌てて周囲を見渡して、そのまま腕を掴んで隠れるように道から逸れた。
「ダメだ、名前、ダメだ」
周りに誰もいないのを確認してから、少年は必死な口調で注意してきた。
「あ、ごめん、名乗るの駄目だった? もう言わないよ」
こんな不可思議な場所だ。名前を言うだけで何かのペナルティでもあるのかもしれない、と冷や汗が出る。
俺の言葉に少年は焦りの色を消して、また無表情に戻った。
「ちがう、……名前、知られると、あいつが、呼ぶ。返事すると、捕まる」
「……それは、ああ、うん」
青年の言葉に、さっき言われた村のルールを思い出した。
『お護り様と目を合わせてはいけない。
呼ばれても返事をしてはいけない。
ここの食べ物は、何があっても口にしてはいけない』
ゾクッとした。
この村が普通じゃないのは、もう身に染みてわかっている。絶対にタブーは犯してはいけない。それだけは死守しないと。
もうダメだ。これ以上ここにはいれない。
さっき見た黒い靄はもちろん怖いが、もうこの村全部が怖い。気持ち悪い何かが、べちゃりとへばりついて取れないような不快感が耐えがたい。
とにかく少しでも離れたい。どれだけ距離があるのかわからないが、徒歩でバス道を歩こう。さすがに3日もあれば、どこかにたどり着くだろう。
「あ、あのさ、バス停に戻りたいんだけど、一緒に来てくれない?」
年上の矜持なんてものは欠片も残っていない。縋れるものなら、何にでも縋りつきたい。例えこの少年が化け物の仲間だったとしても、この言葉すら通じない世界で、一人でいる恐怖に勝るものはなかった。
「神社、行かないのか」
「え? 行った方がいいの?」
「バスに乗るなら、……、……、……?」
少年の口の動きが止まった。同時に体もピタッと動きを止め、目だけが周囲をキョロキョロと見渡している。
「帰る、なら、チケットを……?」
「チケット……」
あのバスはチケット制だったのか。そう言われてみたら、降車時に現金を支払った記憶はない。料金箱やICカードが使えそうな機器なんて、何もなかった気がする。
「そのチケットってどこに……」
移動してきた村の中に店舗は見当たらなかった。そのチケットを手に入れるまで、この村からは出られないのか。
「……そう、そうだ。……チケットは、神社で手に入る」
言葉は詰まりながらだが、段々と声に力強さが宿ってきている。
「どうして、忘れてたんだろう……」
ゆっくりと顔を上げた少年の瞳に、人間らしい光が宿っていた。
「えっと? じゃあ神社に行かなくちゃならないのか……?」
「ちょっと、こっち来て……」
「え、ええ、ちょっと、神社はあっち……」
少年は強引に手を引くと、神社と反対方向に進んでいった。
「うん、大丈夫、……ここなら誰も来ないと思う」
少年に連れられて来た場所は、木造の粗末な作りの小さな家が立ち並ぶ一角だった。
家と言っても見慣れないタイプの建物だ。時代劇のセットのような、茅葺きで土間があって竈がある。その奥には板間の部屋が続くだけのシンプルなものだ。
「ここは……」
「神社に近い場所は、こういう家が多いんだよ」
「そうなんだ」
説明になってないと思いながら、そんなことはどうでも良いことだと思い直した。この村がおかしいのは、今更な話なんだから。
「どうして、ここに?」
「聞かれたら、困るから……」
「あ、はい」
整った顔で困ったように言われると、つい素直に頷いてしまう。が、それも今は安心材料でしかない。ちゃんとした反応が返ってくる。それだけで一緒にいるのが、『人間』だと、確信出来るからだ。
「……ここは、閉じられた村だ、ってのは最初に言ったよね」
「うん。怪異と住人がいるって聞いた」
「そう。そして、僕とあなたは、『迷い人』なんだ」
「迷い人……」
「本来の住人じゃない人間が外の世界から、文字通り迷い込んできたんだ」
淡々と話す少年は初めて会った時と比べるとまるで別人だ。
緊張しているのか表情はまだ固いが、それでも以前のような人形めいた印象はない。儚げだと感じたガラスのような瞳が、感情が揺らぐことで輝きを増して、より綺麗に見えた。
危うくまた見惚れそうになって、考えるふりをして視線を外す。
「……てことはやっぱり、死後の世界とか、異世界とか」
「わかってるのは、ここが霧守村ってことと、多分、江戸時代とか、それぐらいからずっと閉じてる世界らしいってことだけ……」
「江戸時代……」
じゃあ、この時代劇のセットのような家は、その当時のものってことか?
「あ、でも、途中で入った家が変で……あ、いや、家だけじゃなくて、季節とかバラバラだし、村の人もなんか……」
「怪異が作り出した世界だからだよ。この辺り……神社に近い場所ほど古い建物が残っていて、村はずれに向かうほど近代的な住宅になってる。住人も同じだよ」
「そうなんだ。その情報って誰から? それとも自分で調べたのか?」
「……それが」
少年は目を瞑って、顔を顰めた。
「思い出せないんだ。さっきあなたに言われるまで、帰りたいと思ってたことすら忘れてたし……」
「え、こわ」
「本当に、怖いんだよ……」
その言葉に嘘はないんだろう。彼は腕を抱くようにして身震いした。
「……僕、いつからここにいたのか、覚えてない。チケットのことも、どうやって知ったのか……」
「他に迷い人は、いないのか? キミだけ?」
「多分、今はいないと思う。何人か元の世界に戻ったはず、だけど。……それを確認する方法はないし」
「ここの住人の人たちって……」
「元は人間だよ。もう死体だけど……」
「…………」
絶句した。
明らかにおかしいとは思ってたけど、はっきり死体と言われてしまうと、恐怖がまたもや襲ってくる。
この世界に、『迷い人』は俺と彼しかいない。ということは、生きた人間はこの少年と自分しかいないということじゃないか。
「あなたは『旅人』」
「え?」
「名前の代わりに、……ここじゃそう呼ぶよ。……絶対に、名前は言わないで」
「わ、わかった。キミのことは?」
「僕のことは……『先客』とでも呼んで」
(なるほど。俺たちは住人じゃない。あくまで『客』と『旅人』で、帰る場所のある人間という意味か……)
「じゃあ、先客。キミはたった一人で、今までどうやって生活していたんだ? 食事は?」
根本的な疑問を尋ねてみる。
彼が長期間をこの村で過ごしてきたのなら、生き残るための手段があるはずだ。
「食べてない。眠くもならないし。……ただ毎日、神社とバス停を往復して……迷い人が来たら警告する。……役目だった気がする」
返ってきた答えに戦慄した。
食べない、眠らないって……
「それって……」
「大丈夫、僕はまだ生きてるよ。……危なかったけど」
先客は苦笑を浮かべつつも、俺の顔を見上げた。
「……あなたが来なかったら、正気を失ったまま、そのうちあいつらの仲間入りしてたんじゃないかな。僕に気付いて、話しかけてくれて、ありがとう」
そう言って頭を下げた先客に、ふとした疑問が浮かぶ。
「他の迷い人が元の世界に戻ったって言ってたけど、帰れるのか?」
「さっきも言ったけど、外とは連絡が取れないから、本当に帰れたのかは確認出来ない。ただ、出ていったのは間違いないよ」
「先客はその方法を知っているのか?」
「……うん」
「じゃあ、どうしてここに残ってるんだ?」
「…………」
(ひょっとして、マズイこと聞いたか?)
そう思ってしまうほど、先客がぎゅっと眉間にシワを寄せた。
「その辺りも曖昧なんだ。……多分、失敗したんじゃないかな」
「そんな難しいのか?」
「難しくは……ないはず」
先客は顔を顰めたまま、思い出そうと考え込んでいる。
「……どうして、……僕は、帰れない……?」
「おい?」
返事がない。
その瞳は、またさっきまでの、あの光のないガラス玉に戻ろうとしているように見えた。
いつの間にか、先客の顔色は真っ青になって、ガタガタと震え始めた。




