第2話:漆黒の靄(もや)と、赤いジャンパーの美少年
「おばあさんが……!」
喉の奥まで出かかった叫びを、肩を掴む冷たい掌が強引に押し戻した。
俺を引きずり込んだ少女は、ただ無機質に、ゆっくりと首を振った。
絶望が冷水を浴びせられたように全身を駆け抜ける。もう、手遅れだという意味だろうか。あんなヤバい、ドス黒い靄に飲み込まれて、無事でいられるはずがない。
「ああ……」
恐る恐る視線を戻すと、そこにはもう、何もなかった。
陽炎のように揺らめいていたあの漆黒の靄も、腰の曲がったおばあさんの姿も、まるで最初から存在しなかったかのように消え失せている。そこにあるのは、乾いた地面と、歪んだ木の影が静まり返る不気味な光景だけだ。
「……死んだのか、あのおばあさん」
絞り出すような俺の問いに、少女は表情ひとつ変えずに答えた。
「違う。……いつものことだ」
「いつものこと?」
思わず声を荒らげそうになる。
目の前で人が一人、化け物に飲み込まれたのだ。それを日常の出来事のように片付けられてたまるか。
ガクガクと震えが止まらない俺を、少女はじっと見つめた。生気を失った、吸い込まれるように綺麗な瞳が、わずかに動く。
「ここは、普通の、村じゃない」
少女は、温度のない声で言葉を継いだ。
「……ここは、閉じている。怪異と住人がいる。……余計なことは、するな」
「閉じられた場所……? 怪異って、さっきの化け物のことか? じゃあおばあさんはどうなったんだ。住人って、あのおばあさんもそうなのか?」
矢継ぎ早に問いかけるが、彼女はそれ以上言葉を返そうとはしなかった。俺が何を訊いても、小さく首を振るか、短く頷くか、あるいはただ無反応を貫くだけだ。その徹底した拒絶に、俺はそれ以上の追及を諦めざるを得なかった。
「……あのおばあさんは、無事なんだな?」
最後にもう一度だけ念を押すように訊くと、少女は小さく頷いた。その反応に、ようやく肺の奥に溜まっていた息を吐き出すことができた。
考えてみれば、あんな化け物が平然と徘徊している場所なのだ。あのおばあさんだって、最初から幽霊か幻の類だったのかもしれない。そうでなければ、この少女がこれほどまでに平然としていられるはずがないのだ。
いや、待て。そもそもこれは現実なのか? 俺が見ている夢じゃないのか? その方がずっと簡単に説明がつく。
(痛い……)
試しに頬をつねってみたら、普通に痛かった。
そんな俺をじっと見ている視線に気付いて、誤魔化すように笑う。
「へへ、夢かと思って」
おかしなことを言っているというのに、やはり少女に反応はない。段々と空回りするのにも慣れてきた。ともかく、今は右も左もわからない。とりあえずこの少女に話を聞かなければ、あの化け物についても何もわからない。
俺は、皮膚にこびりついたような、べちゃりとした嫌な感触を、震える手で拭った。
(あれ?)
声を聞いた時に違和感を覚えていたが、改めて少女を見て気付いた。
(うわ、女の子かと思ったら、男じゃん)
ラフなTシャツとジーンズに、オーバーサイズ気味の鮮やかな赤いジャンパーを着ているせいで気付かなかったが、よく見ると喉仏もあるし、声も女子にしては低い。
(……しかし、綺麗な子だな)
彼が気にしない様子なのをいいことに、じっくりと顔を見てしまう。
長いまつ毛に色素の薄い瞳。オリーブグリーンのキャップを被った長めの髪は明るく染められて、とても柔らかそうに見える。日焼けしていない肌は白く透き通るようで、ほんのりと赤い唇はとても形が良い。
正直、顔だけ見たら、美少女にしか見えない。
(良かった、女の子扱いする前で……)
男だとわかっても、目を離せない。
造形の美しさだけじゃない、危うさや儚さが無表情の向こうに見える気がする。
じっと見入っていると、唐突に彼が口を開いた。
「……この村には、決まりがある」
美少女改め、美少年は、無機質な視線を俺に向けてきた。
その瞳は吸い込まれるように綺麗だが、内側に光が灯っていない。どことなく浮世離れした雰囲気が漂っている。
彼はまるで何度も繰り返してきた台詞を読み上げるかのように、淡々と語り始めた。
「『お護り様』と目を合わせてはいけない。呼ばれても返事をしてはいけない。ここの食べ物は、何があっても口にしてはいけない」
表情を一切変えずに告げる姿は、まるで精巧に作られた人形のようだ。
その美しい造形に目を奪われつつも、俺は冷静に考えた。
ここは化け物がいるような異常な場所だ。これほど整った顔立ちの少年がいることと、人形のような態度に、言い知れぬ不安を感じた。
何はともあれ、俺はここではよそ者だ。
せっかく与えてくれた情報は活用した方がいい、と思考を切り替えた。
「『お護り様』っていうのは?」
「さっきの、黒い、やつのことだ」
まあ、そうだろうとは思ったけど。
こういうことはきっちり確認しておかないと、万一の時に命取りだ。
禁止されなくても、あんな化け物と関わるつもりは全くない。
(あとは、食い物を食うな、か……)
俺は心の中で反芻した。
まあ、不気味な村だし、食中毒でも怖いのかもしれない。まあ、最初からこんな気持ちの悪い村に長居をするつもりはない。
きっと彼も、俺のような外から来た人間が化け物に目を付けられないよう、独自の自衛手段を教えてくれているのだろう。そう結論づけて、俺はおとなしくその言葉を聞き入れた。
「ちなみに、その決まりを破ったらどうなるんだ?」
「……さっきのやつの、仲間になる」
迷いのない、冷え切った答えだった。
仲間になる。それはつまり、あのおばあさんと同じようにあの靄に飲み込まれ、人間ではなくなるという意味なのだろうか。それはさすがに怖すぎる。
「…………」
彼は伝えるべきことは伝えたとばかりに、考え込む俺に背中を向けた。
「待ってくれ! まだ聞きたいことがあるんだ。この辺に電話はないか? バス以外の交通機関とか、タクシーを呼べる場所とか……」
俺はすがるように問いかけた。しかし、彼は俺が何を尋ねても、はっきりとした返事をしない。言葉そのものを失っているかのように、ただ首を振るか、無反応を貫くだけだ。村のルールに関わることには答えられるようだが、それ以外の話題には意識が追いついていないようにも見えた。
意思疎通が上手くいかなくてもどかしい。どうにかして、コミュニケーションを取ろうとさらに口を開きかけた時、彼がふいに口を開いた。
「……帰るつもりか?」
「当たり前だろ。友達との約束もあるし、こんな場所に長居するつもりはないよ。でもバスは3日待たないと来ないみたいだし……だから」
その瞬間、彼の眉がわずかに動いた。
「3日、後……?」
彼が初めて見せた、掠かな反応だった。
しかし、彼はそれ以上の追及をすることなく、くるりと背を向けた。そして、俺に一言も掛けないまま、バス停の方向へと無言で歩き去っていく。
「あ、おい、キミっ!」
しかし、呼びかけに応えることはなく、背中はすぐに見えなくなってしまった。さすがにもう一度あの気持ち悪い森の中に入る気分にはなれなくて足踏みする。もちろん、ここに一人でいるのも怖いのだが。
「なんだよ、怖くないのかよ。あんなのがいるのに一人で……」
村へ一緒に行って欲しい。
その言葉が口から出る前に、彼は離れて行ってしまった。
「……大丈夫だ。電話さえ借りられれば……それぐらいなら、一人でも……」
俺は自分に言い聞かせるように呟くと、意を決して、先ほど見えた民家の方へと足を向けた。
「…………」
少年は物憂げな表情で、バス停に貼られた時刻表を眺めていた。
ずっと、そう、ここに来た時からずっと、何も書かれていなかった時刻表に、確かに3日おきの曜日と時刻が書かれている。
これまで『迷い人』にとって、バスは常にチケットを手に入れた翌日の昼に来るものだった。だが、実際に3日後を示している時刻表が目の前にある。これは彼がこの村にいた長い時間の中でも、初めての現象だった。
「なんで……?」
毎日毎日、同じことの繰り返し。
昼夜の区別すら曖昧なこの世界で、彼は日課のようにバス停に通い続けてきた。その間、時刻表は空白だったはずだ。
「う……」
思考が霞む。
考えが、続かない。
思考が、途中で、――途切れる。
「…………」
勝手に動き出した脚が村に向かう。
いつものように。




