第11話:柳ヶ瀬の消滅。止まっていた時間が動き出す時
清廉な空気――――
目の前には、神社の本殿を臨む拝殿。
鈴から垂れる鮮やかな布、賽銭箱、そして、巫女装束を着た黒い怪異。
そして、見慣れたブラウンのアウトドアジャケットの背中。
恐ろしいほどの静寂の中、
パンッ、パンッ!
高らかな柏手の音が響いた。
「柳ヶ瀬義和、帰郷したいです」
先客――タクミは、柳ヶ瀬の後方から、じっと成り行きを見守っていた。
理由がわからないままにこの世界に来て、柳ヶ瀬と出会った。柳ヶ瀬は別の『迷い人』から情報を得て、帰還方法(バスチケットの入手方法)を知っていた。
だから、今日。柳ヶ瀬がチケットを手に入れたら、そのままタクミも同じようにして、チケットを手に入れるつもりだった。
なのに――……
名乗って願いを伝えてから、柳ヶ瀬はしばらく動かなかった。
手を合わせ頭を下げた姿勢のまま、じっと固まっている。
やがて、黒い巫女が初めて言葉を告げた。
――――ヤ、ナ、ガ、セ、ヨ、シ、カ、ズ……
その音ではない『声』はタクミの頭の中に響いた。
ゆっくりと体を起こした柳ヶ瀬は、正面から巫女と視線を合わせて返事をした。
「――はい」
しばらくの静寂が流れた。
不意に、柳ヶ瀬の体が、ぐにゃりと曲がった。
次の瞬間、恐ろしい勢いで、体がねじ切られるように形を変えていく。
メキメキ、バキャ、ゴキ、グチュ、と、人体から聞こえてはいけない音が辺りに響く。
「……は、」
何が起こっているのか、タクミには理解できなかった。
逃げるどころか、微動だにできないうちに、柳ヶ瀬だったものは、ぷちぷちと念入りに潰され、やがて小さな塊になり、最後には煙を上げて消えた。
「……はあ、はあ、はあ……」
あまりに非現実的な光景を目の当たりにして、心臓の音がうるさい。気付けば、汗がドッと流れていた。
状況を理解しようとする理性を、本能的な恐怖が邪魔をしている。訳が分からない、ただ、怖かった。
ゆらり、と巫女が視線をタクミに向けたのがわかった。
そして、右手がゆっくりと上がり、その指先が誘うように、タクミに向かって振られた。
ズリ、ズリ、と足が勝手に拝殿に向かって進んでいく。
「……や、……いやだ……」
ただただ、恐怖しかなかった。
ぐしゃぐしゃに潰れて消えた柳ヶ瀬の姿だけが、頭の中で再生され続けている。
「柳ヶ瀬さんっ!!!!」
助けてくれる人なんて、誰も、いない。
ただ、一緒に帰ろうと言ってくれた大人だった。でも、もういない。いないのに、彼の名前を呼ぶことしか出来なかった。
「柳ヶ瀬さんっ!!!!」
大きな声が森の中に響く。
「せ、先客?」
いきなり叫んだ先客に驚いて、恒一が駆け寄る。
しかし、この場合は名前を呼ぶのが正解かもしれない、と思い直した。先客の肩を持ちながら柳ヶ瀬が歩いて行った方向を見ると、彼は立ち止まって、こちらを振り返っていた。
「柳ヶ瀬さんっ、イヤだっ、柳ヶ瀬、義和さんっ! 行かないでっ!」
悲鳴に近い叫び声に、恒一は先客の怯えを知る。
ただ呼び止めたいだけなら、こんな悲痛な声にはならないはずだ。
柳ヶ瀬は、呆然とした顔でこちらを見ている。
「――うん」
頷いた表情は、どこかぎこちないながらも、笑みの形で――
「行かないよ。たくみくん」
そして、ゆっくりと、崩れ落ちた。
「柳ヶ瀬さんっ、柳ヶ瀬さんっ!」
真っ青な顔で駆け寄った先客の前で、地面に横たわった柳ヶ瀬の体は、水に解ける砂糖のように形を保っていられなくなっていた。
肉が解け、骨が解け、砂となって消えていく――……
「……なんでだよ……」
二人がかりで柳ヶ瀬の上半身を支えるが、指先からもこぼれ落ちて、掴もうとしても残らない。
「たくみくん……ありがとう」
「イヤだ、イヤだよ。柳ヶ瀬さんも一緒に帰ろうよ……っ」
先客の言葉に、柳ヶ瀬は弱々しく首を振る。
「俺はもう、帰れないんだ……だから、このまま……」
「イヤだっ!」
駄々っ子のように柳ヶ瀬に縋り付く先客をたしなめるように恒一が背中をさする。
「……先客」
「やだ、ダメだよ、こんなの……」
すでに柳ヶ瀬の体の半分は無くなっている。残る部分も透けて、今にも消えてしまいそうだ。
「たくみ、くん、……おれを、覚えて、いてくれて……」
さらさら、さらさらと、皮膚が、肉が、骨が、髪が、砂のようにすり抜けては消えていく。
僅かに、息を吸う気配のあと。
「ありがとう……」
その言葉を最後に、柳ヶ瀬の姿は腕の中から消え失せた。
「う、う、う……ううっ、うううっ」
空っぽになった腕を抱きしめて、先客が咽び泣く。
それを黙って支えていると、スウッと周囲が薄暗くなった。目線だけで確認すると、そこにはもうログハウスも薪もなく、森の木々が日照を遮っていた。
今、先客が蹲っている場所も、土の地面だったはずなのに、いつの間にか下草が茂っている。
(……今、何が起きた?)
住人になったとはいえ、つい今までそこにいた柳ヶ瀬の痕跡も何ひとつ残っていない。
消えた、といえば、そうなんだろうが。
この村に来て初めて見た『迷い人』の末路。その現実を見て、恒一はじわじわと這い上がってくる恐怖に震えそうになる。
すん、と鼻をすする音がして、ぐしぐしと先客が目をこする。
「……ちょっと、ごめん」
真っ赤になった目を伏せて、先客が立ち上がった。
一人になりたい、という気配を感じて、恒一は無言で頷いた。
(無理もない……)
とはいえ、何が起こるかわからない世界だ。
ショックを受けて心を落ちつけたいと思う先客とは違い、恒一は先行きの不安を感じていた。
視界に入る位置を維持しつつ、恒一は道へ向かう先客の背中を見守った。
腹に力を入れて、地面をしっかりと踏みしめた。
そうしないと、足元から崩れてしまいそうだった。




