第18話 あれで別れてなかったの?
さっき名古屋駅の待合室で聡子に気づいた時は心臓が止まるかと思った。
しかもその直後、僕に気づいた聡子が早足で近づいて来た時は、あまりの剣幕にそのまま心臓を止められるかと思った。
しかし、『私がいつ別れるって言ったのよ!』ってなんだ?どういうことだ?
僕はてっきり婚約を解消されて、別れることになったと思ってたけど、そうじゃなかったの・・・?
僕は名古屋駅から地元の駅に向かう特急の中で、窓の外を見ながら記憶を整理することにした。
ーーー
「僕が聡子の代わりにお義父さんの事務所を引き継ぐ。だから結婚しよう。」
そう聡子にプロポーズしたあのクリスマスから約1年後、僕は聡子のお義父さんが経営する成城綜合法律事務所で働き始めた。
これは予定通りだ。ただ誤算が二つあった。
一つ目はうれしい誤算。プロポーズした翌年に聡子が司法試験に合格したのだ。
僕が事務所を引き継ぐことになり、伝統の重みによるプレッシャーから解放されたことがよかったのか、ラストチャンスである3回目であるにもかかわらず、ダメ元でのびのびと受験できたと言っていた聡子は、それでも合格発表の日に自分の受験番号を見つけて、
「あった!やった!ありがとう、和央のおかげだよ~!!」と狂喜しながら隣で付き添っていた僕に抱きついてきた。
もちろん、僕も「よかったよ~!」と自分のことのように喜び、聡子を強く抱きしめながらも、「もしかしてこれで聡子のお父さんの事務所を引き継がなくてよくなったのでは?」と、心の片隅で期待していた。
ただ、聡子からも聡子のお義父さんからも、その後、僕が事務所を引き継ぐ話を白紙に戻すという話が出ることはなく、僕は僕で、引き継ぐのを止めると言ったら聡子に「じゃあ結婚もやめる」と言われるかもしれないと思い、それが怖くて何も言い出せなかった。
それで、そのままその年の12月に大手渉外法律事務所を辞めて、翌年1月から成城綜合法律事務所で働き始めたのだ。
もう一つは悪い誤算。成城綜合法律事務所の実情についてだ。
成城綜合法律事務所は、聡子のお父さんで四代目であり、戦前から続く名門法律事務所である。
ただ、聡子のお父さんの代ではだいぶ零落しており、かつてはたくさんあったであろう顧問先はほとんど離れ、聡子のお父さんと事務員一人だけで細々と経営を続けていた。
しかも・・・聡子のお父さんは・・・いや法曹界の先輩にこんなことを言うのは申し訳ないのだが・・・控えめに言っても・・・弁護士としても経営者としても・・・その・・・ポンコツだった。
毎年のように法令改正や法技術の進歩があるにも関わらず、昭和平成の頃の知識をアップデートしないまま技術を研鑽することもなく、かといって顧客開拓のための営業に力を入れることもなく、ただ惰性のように過ごし先細り続ける現状に何の対策もしなかった。
少なくとも僕の目にはそう見えた。
「うちには、和央くんに給料を払う余裕はないから、自分で案件を見つけて収入を得てもらえるかな。あと、事務所の経費についても折半でいいから負担してもらえるかな。」
お義父さんからそう言われた時は目の前が真っ暗になった。このままじゃ生活できない。
しかも、おそらく来年には聡子もこの事務所に入所してくるだろう。
聡子には給料が払えるように、その分も僕が稼がないといけない・・・。
こうなったらなりふり構っていられない!
腹をくくった僕は、大学時代の友人、公務員時代の知り合い、前にいた事務所の先輩、弁護士会で知り合った先輩、わずかな伝手をたどって片っ端から声をかけて仕事をもらえるようお願いし、また少しでも仕事につながりそうな場には積極的に顔を出した。
前に紗季が「先輩とかツレとかと仲良くしてくことはすごく大事なわけ。ちゃんと顔役に挨拶して、お祭りとか寄り合いとか、イベントにこまめに顔を出してかわいがってもらって、そんで困った時は合っていかないと!!」と偉そうに言ってたけど、僕はそんなことはとっくにわかってたし、ちゃんと実践してたのだ。
その成果か少しずつ仕事を回してもらえるようになったけど、最初は不倫とか離婚とか、変な詐欺師に騙されたとかそんな案件ばかりだった。中には怪しい新興宗教団体に取り込まれた娘を取り返すため総本山まで交渉に行って欲しいなんて話もあった。
かつてビジネス分野での渉外弁護士を志していた僕にとっては、畑違いのこういった案件ばかり取扱うことに、不本意なところはあった。
それでも必死に頑張り、経験を重ねるうちに、交渉の胆力とか事案のスジを見通す目とかの技術が磨かれ、徐々にフットワークの軽い使い勝手のいい若手弁護士という評判が広がり、案件を頼んでくれる顧客も増えていった。
お義父さんからは、「うちは戦前から続く名門だから、そういう変な案件ばかりだと困るな~」と、お小言を言われることもあったけど、売上は順調に伸びて、聡子が成城綜合法律事務所に入所する頃には、何とか聡子に恥ずかしくない給料を渡せるようになった。
こうして苦労はしながらも、なんとか事務所の経営にも見通しがつくようになり、余裕もできてきたので、そろそろ聡子との結婚の日取りも考えようかと思っていた矢先のことだった・・・・。
それは、僕が成城法律事務所で働き始めてから2年目の5月、連休の中日だった。
その日は、お義父さんと聡子は家族で海外旅行に出かけ、僕だけが一人事務所で仕事をしていたところ、事務所の顧問税理士から電話があり、調べて欲しいことがあると依頼された。
昨年度の確定申告で、事務所経費に占める『田中コンサルティング』へのコンサルティング費用の支払いがかなりの金額になっており、今後、税務署から指摘される可能性があるので、実態がわかるエビデンスを用意しておいて欲しいとのことだった。
帳簿を見るとたしかに金額が大きい。だけど、田中コンサルティングに何を頼んでいるのかまったくわからなかった。
「田中さんといえば、たまに事務所にフラっとやって来て、お義父さんと会議室で何か話して帰って行くおじさんだよな・・・。何か仕事を頼んでいるとは聞かないし・・・。たしかにあれだけのために、こんな金額支払うのはおかしいよな。」
う~ん、実態のないコンサルティング費用だと税務当局から否認されちゃうかもしれないし、確かにこれは調べた方がよさそうだ。でも、お義父さんは、事務所の経営に口を出すとすぐ不機嫌になるしな~・・・。
「そういえば、この間、田中さんが来た時、聡子も一緒に会議室に入ってたな。聡子に聞いてみるか。」
ーー
「ああ、田中さん?あの人は、おじい様の代から出入りしている人で、事務所に定期的に案件を紹介してくれるのよ。」
連休明け、一緒にご飯を食べた時にさりげなく聞いてみたら、聡子はあっさり教えてくれた。
「ああ、そうなんだ。でも、コンサルティング費用を払ってるみたいで、いったい何のコンサルティングを頼んでるの?いや、税理士から実態のないコンサルティング費用なんじゃないかって指摘されてて・・・。」
僕の質問に対して聡子は、ハハッと一笑すると、驚くべきことを言った。
「あの人がコンサルティングなんてしないわよ。ただ案件を紹介してもらう対価をコンサルティング費用の名目で払ってるのよ。ちゃんと紹介してもらう案件ごとに請求書も出してもらってるし問題ないわ。」
「えっ?」
僕は耳を疑い、そのすぐ後に血の気が引くのを感じた。
実態のないコンサルティング費用だったら最悪、修正申告したり追徴課税を払えばなんとかなる。
だけど聡子の話が本当だったら・・・これはまずい・・・。
聡子はまったくわかってないみたいだし、お義父さんに直談判するしかないか。
その日、すぐにお義父さんに時間を取ってもらい、二人で会議室に入った。
「お時間取ってもらってすみません。あの、田中コンサルティングへのコンサルティング費用の支払いについてなんですが・・・。」
「ああ、あの件ね。こっちにも税理士から連絡があったよ。実態のないコンサルティング費用って心配してたけど、案件紹介の謝礼として払っていて、ちゃんと案件ごとに請求書とか証憑を残しているって説明したら納得してくれたよ。」
お義父さんはちょっと不機嫌そうで、しかし、さも当たり前のような顔をしている。
ああ、やっぱりこの人もわかってないのか・・・。
「・・・・やっぱり案件紹介の謝礼として払っているんですね。これを見てください。」
お義父さんの前に、弁護士職務基本規程の条文を示した。
『第十三条 弁護士は、依頼者の紹介を受けたことに対する謝礼その他の対価を支払ってはいけない。』
「・・・これがどうしたんだ。実際には紹介の謝礼を支払うことなんかどこでもやってるだろう。」
強気な言葉とは裏腹に、お義父さんは目に見えて動揺している。やはり気づいてなかったか・・・。
「非弁提携として弁護士法27条違反、刑事罰の対象にもなります。また弁護士会から懲戒処分を受けて除名や退会命令を受けて弁護士を続けられなくなりますよ。」
「大丈夫だ・・・どこでもやってることだし、非弁提携で懲戒処分を受けた例なんて聞いたことがない・・・。」
「実際に非弁提携で懲戒処分を受けた事例が多数あるから、こう申し上げているんです。自由と正義のバックナンバーをちょっとご覧になればわかるはずです。」
強いまなざしで断固とした口調で伝えると、お義父さんは動揺したのか、黙り込み、貧乏ゆすりを始めた。
「もうやってしまったことは仕方ないです。でも、懲戒処分で少しでも情状を認めてもらえるように、すぐに田中さんへの謝礼の支払いは止めてください。」
しかし、お義父さんは首を小刻みに横に振ってから、机を叩いた。
「だめだ!田中さんとは先代からの付き合いだ。それに田中さんから案件を紹介してもらえなくなったら、この事務所の経営が成り立たない!!」
「でも、これ以上続けたら懲戒を受けて、弁護士業自体を続けられなくなるかもしれないんですよ。お義父さんも僕も、もしかしたら聡子も!!」
声を張り上げたお義父さんに気迫負けしないよう、僕も声を張って、お義父さんを強く見つめ返す。
「案件の紹介がなくなっても・・・穴埋めできるように頑張って他の案件を探してきますから、すぐに止めてください。」
強い決意を言葉に込めたつもりだった・・・・だけど、お義父さんには届かなかったようだ。
「穴埋めするって、君が取ってくる案件は、やれ不倫とか離婚とか、債権回収とかそんなんばっかりだろう。うちは四代続いた名門の法律事務所なんだよ。田中さんが紹介してくれる案件を捨てて、そんなゴミみたいな案件ばかり取り扱えって?差し出がましいことを言うな!!」
お義父さんは机を叩き、そのまま会議室から出て行ってしまった。
その後も、何度もお義父さんに忠告した。その度にお義父さんからは拒否され、ついには、「君はうちの法律事務所にも、成城家にもふさわしくないようだ。言うことが聞けないようだったら出て行ってくれて構わない!!」とまで言われてしまった。
売り言葉に買い言葉であることはわかっていた。
だけど、これだけ言葉を尽くしてもわかってもらえなかった。もし僕が事務所を辞める意思を示すことで、事の重大さがわかってくれれば、それでお義父さんが改めてくれて聡子が助かるなら・・・そう思い僕は成城綜合法律事務所に辞表を提出した。
その直後に、聡子から呼び出されて猛烈に怒られた。もちろん、僕も事情を説明し、あのまま非弁提携を続けていれば、お義父さん、僕も、聡子すら弁護士を続けられなくなるかもしれないと説明した。
しかし、聡子は、「お父さんが大丈夫って言ってるんだから大丈夫でしょ!!」の一点張りで、僕の言葉を聞き入れてくれない。
ついには、「お父さんの事務所を辞めるんだったら結婚もやめなきゃいけないよ」とまで言われた。
それでも、僕が意思を曲げず、引継ぎと荷物の整理を終えて、正式に成城綜合法律事務所を退所すると、その日からLINEをブロックされ、電話は着信拒否され、聡子とは一切連絡が取れなくなった。
ーー
「あ~あ・・・これからどうしよっかな・・・。」
しばらく休んでこれからのことをじっくり考えたかったけど、生活もあるしどうしようかと弁護士会のウェブサイトの求人案内をぼんやりと見ていると、『山田市 任期付職員募集』という求人を見つけた。
「まあ・・・1年くらい地元に帰って、ゆっくり次の仕事を考えるのもいいかな。」
こうして僕は仕事も婚約者も失い、1年の期間限定で地元に帰ってきたのだ。
ーー
う~ん・・・。やっぱりこの経緯で婚約解消してないとか、別れてないって無理があるんじゃ・・・。
さっきから頭の中でグルグルと同じことを考えている。
「元カノさんがやり直したいって言ってきたらどうする~~?」
どうする?どうするって?う~ん。でもお義父さんとの関係もあるし、さっきの聡子の話しぶりだとまだ非弁提携も続けてるだろうし・・・。
「それは現実的じゃないかな・・・・。」
その瞬間、ブルっとスマホが震えた。
スマートウォッチで着信を確認すると、聡子から『絶対に連絡してよ』というメッセが入っているようだった。
ああ、LINEブロックも解除したのか。
もし聡子が婚約解消していないつもりだったら、それを放置するわけにはいかないか。
まずはそこから手をつけなきゃ・・・。




