第一章「午前六時の独房棟」
午前六時、刑務所の独房棟には冷たい鐘の音が響き渡る。重い鉄扉の向こうで、ひとり、またひとりと目を覚ます音が連鎖していく。
目を覚ましたのは房番号13の三宅達也。42歳。殺人未遂で懲役八年。出所まであと三年を残す。
鉄製のベッドから起き上がると、天井のひび割れに目をやる。昨日と変わらない景色に胸を撫で下ろす自分に、いつも苦笑いが漏れる。変わらないことがここでは救いであり、呪いでもある。
廊下を挟んだ向かいの房番号14からは、朝の読経が聞こえる。刑期二十年の住職崩れ、柴崎。殺人犯だが、誰よりも穏やかな声をしている。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」
抑揚のないその響きが、まだ薄暗い独房棟にじんわりと溶ける。
房番号10では若い男の咳が続いている。覚醒剤取締法違反で服役中の佐原。入所して二ヶ月足らずだが、禁断症状から来る咳と震えはなかなか収まらない。
「…っく、…っく」
小さな嗚咽混じりの咳が聞こえるたび、三宅は無意識に眉間を抑えた。
覚醒剤中毒の若者が、刑務所で再生できることはほとんどない。それでも彼が生きているうちは、この棟の住人として関わり続けなければならない。
号令が響く。鉄扉の向こう側、看守長の柏木が無表情で歩いてくる音が近づき、各房に朝の確認をする声が順に響く。
「房番号十三、三宅達也!」
「異常なし。」
「十四、柴崎真一!」
「異常なし。」
「十、佐原大輔!」
返事はない。数秒の沈黙のあと、再び咳が聞こえた。
「異常…ありません…」
その声を聞いた柏木は短く息を吐くと、何も言わず次の房へ向かった。
刑務所内での朝は、否応なく日常を突きつける儀式だ。
彼らにはそれぞれ、外の世界に残してきた罪と人生がある。
人を殺した者、騙した者、薬で壊れた者。
この独房棟には、社会の底から零れ落ちた様々な人間が寄せ集められ、そして奇妙な秩序と沈黙の中で生き続けている。
三宅は房の小窓から覗く廊下をぼんやりと見つめた。
今日もまた、誰かが壊れる音を聞くのだろうか。それとも、誰かが救われる瞬間を目にするのだろうか。
頭上の蛍光灯が一段と強く光を放つ。
看守が去った後、柴崎の読経は再び静かに流れ始める。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
朝の読経と、若い咳と、変わらない鉄とコンクリートの匂いが、刑務所の一日をゆっくりと動かし始めていた。