世界が灰に沈んだ五日後、僕は誰かを踏みつけた
世界が灰に沈み、五日が経とうとしていた。
灰が舞い始めて最初に消えたのは電気だった。
次いで水道が絶えた。
ガスは使えたが、ペットボトルの水がなくなると、夜間の明かりぐらいにしか役に立たなくなった。
充電の切れたスマホ、テレビ、パソコンは、ただの箱と化した。
ラジオも懐中電灯も持っていなかったことに、男は初めて後悔を覚えた。
朝――おそらく――目を覚ますと、昨日までは聞こえてきた音が途切れていたことに気がついた。耳を澄ませても、なにも響いてこない。自分の息遣いと悪態だけが、耳を慰める。
男は薄闇の中で世界から取り残されたような数時間を過ごし、外へ出ることを決めた。
外は灰色の世界だった。十メートル先さえろくに見通せず、生物の気配もない。男は、本当に自分一人を残して世界は滅びたのではないかとすら思った。どこへ向かえばいいのか迷い、一先ず通りへ出ることにした。
歩き出して、すぐに引き返した。
不織布のマスクをつけて出てきたが、それだけでは足りないと気づいた。大気を覆う細かな粒子は、呼吸をするとマスクの隙間から侵入してくる。無防備な目は、瞬きをする度に痛みが走った。地面に降り積もった粒子が歩く度に舞い上がり、サンダルと素足の間にざらついた感触を増やしていった。
男は家に取って返し、ゴロゴロと痛む目を強くこすった。苛立ちのためなのか、痛みのためなのか分からない涙が、目の中の異物を洗い流した。
男は、火を灯したガスコンロと、ほのかな外からの光だけを頼りに家中をさらい、準備を整え直した。
購入しながら一度も使うことのなかった水中ゴーグル。冬物の衣類から取り出した、ミカンのイラストが入ったパーカーと、厚手の靴下。
他にも、なにかないかと収納ケースの中身をキッチンの床にぶちまける。Tシャツの山の中から見つかったのは、皺だらけのバンダナだった。苦い思い出が蘇り、顔をしかめる。
使う気になれない、と放りかけたが手を離せなかった。
舌打ちすると、苛立ちを吐き出しながら装備を整えた。
パーカーを着て、マスクとゴーグルを装着。バンダナをマスクの上から巻いた。これだけ着込むと、さすがに暑かった。だが、身を守られているような安心感も覚えた。
***
二重のマスクに息苦しさを覚える。しかし、粒子が鼻や口に入り込むことはなかった。降り積もった粒子に少し足を取られるも、スニーカーのゴム底を通してアスファルトの揺るぎない固さを感じた。その確かな感触に男は歩幅を大きくした。
水中ゴーグル越しに灰色となった世界を見回す。青々とした葉を茂らせていた街路樹。飾りのついた街灯。カフェのおしゃれな看板。賑やかしい幟。行きつけの居酒屋の提灯。すべてが翳み、輪郭を失っていた。
見慣れた風景が、見知らぬ場所のように思える。
道路と歩道の境界を失った道には、灰色の自動車が塊となって止まっていた。街路樹に突っ込み、反対車線の車と顔を突き合わせ、ドアは開きっ放し。そこで何が発生したか一目瞭然だった。
灰が世界を覆い始めた日のことを思い出す。外から聞こえてきた悲鳴、怒号、騒音。煩わしく、イヤホンをつけて動画を見ていた。こんな世界など想像することもなく。
男はマスク越しに息を深く吸い込んだ。マスクが口に張り付き、咳き込む。ガードレールを蹴りつけると、男は役立つものがないかとドアが開いたままの車を数台あさった。
ティッシュペーパー、血に汚れたひざ掛け、サッカーボール、スナック菓子の空袋、空のペットボトル、粉ミルクの缶。
「くそっ」
男はピンク色をした可愛らしいウサギのぬいぐるみを掴むと、灰色に沈む道路に投げつけた。道路に降り積もった細かな粒子が舞い上がり、男の神経を逆なでした。
男の声はかすれていた。最後に水を飲んだのは夕べ、寝る前のことだった。ほんの一口分。口の中を潤す程度で、喉と体の渇きを癒すには到底、足りなかった。
この四日間、朝になれば、朝になれば復旧している。そう信じて男は眠りについた。
しかし、希望は裏切られた。
べたつく口内に唾をため込み、飲み込む。口の中にはざらついた感覚が残った。
男は街をさまよい歩いた。コンビニのガラスは割られ、棚は空になっていた。ドアが破られた喫茶店の冷蔵庫も、残るのは調味料ばかり。閉ざされたシャッターはこじ開けることが出来なかった。
なにも見つからない。誰ひとりとしていない。
男は手にしていた幟の竿で、書店の看板を殴りつけた。吹き飛んだ看板が大きな音を立てて、灰色の粒子をかき乱す。叫び出したかったが、声は喉に張り付き、口から放たれることはなかった。静寂が戻る。
滲む視界に、ぽつりと光が見えた。
***
男は初め、目の錯覚かと思った。それでも希望にすがるように光へ向かって歩き出した。
ゴーグルの中で目を凝らしながら進む。光も動き続けていた。ぼんやりと灰の粒子を白く染め上げ、火の玉が浮遊しているようにも見えた。
一瞬、地獄へ誘われている錯覚を覚えたが、違う。
懐中電灯だ。誰かが懐中電灯を持って歩いている。
男は世界が広がったような気がした。足を速め、前を行く人に近づいてく。
光の中の影が輪郭を持ち始める。背は低いが横幅がある。すぐに大きなリュックを背負っているからだと気がついた。
人影が、ふと立ち止まった。
気配を感じたのだろうか? 男は思い、少し緊張を覚えた。どう声をかけたらいいのか、迷ったからだ。
男も足を緩め、街路樹の細い幹に身を隠すようにして立ち止まった。
人影は懐中電灯を辺りに向けて見回したが、男の存在には気づかなかったようだ。前を向くと、再び歩き出しながら軽くリュックを揺すり上げた。
――チャポン。
鳥の声も、虫の音も、機械の唸りも、人の息遣いも。
なんの音もしない世界で過ごす内、耳が鋭敏になっていたのだろうか。リュックの中から聞こえた、かすかな水音を男は聞き逃さなかった。
水……。求め続けていた、水。水が、そこにある。
男は、乾いて剥け始めていた唇を舐めた。
心臓の鼓動が早まり、血が逆流する。荒くなった呼吸が、やけにうるさく感じられた。
抗えない衝動に突き動かされ、男は街路樹の陰から飛び出した。
灰色の霞をかき分け、人影に迫る。気配に気づいたのか、人影は立ち止まり振り返ろうとした。男は、その背中を力の限り押した。
「あぅっ」
響いてきたのは女の声だった。
突き飛ばされて地面に転がった女の腰を、男は踏みつけた。喉の奥で悲鳴を上げながら、女は逃げようとする。細かな粒子が舞い、すでに薄汚れていた黄色いレインコートを白く黒く染めていく。
男の目には、女の背中にあるリュックしか映っていなかった。
これさえあれば……。
男の動きに躊躇いはなかった。リュックを掴み、引っ張る。女の腕に引っかかり抵抗が生まれたが、それでも強引に奪った。
女の苦痛と恐怖の悲鳴が静まり返った街に響いた。
「止めて……お願い、します……」
女が男を振り仰いだ。女もまた、男同様にゴーグルとマスクを着けていた。ゴーグル越しに二人の視線が絡み合う。女の怯えた眼差しに、男は高揚感を覚えた。マスクの下からねばついた笑いが漏れ出す。
女の足を蹴りつけると、男は踵を返して走った。
抱えたリュックの中で水の跳ねる音が響いた。
***
どれほど走ったか。男は脇腹の痛みと息苦しさに、ようやく足を止めた。肩で息をしながら振り返る。女が追ってきてはいないか、耳をそばだて、目を凝らし、灰色の幕の奥を注視した。しかし、なんの気配も感じられなかった。
男は荒い呼吸を繰り返しながら、辺りを見回した。一刻も早く灰色の粒子が少しでも存在しない場所で水を口にしたかった。
どこかに、そんな場所はないかと探す。
汗をかいたせいかゴーグルの中が薄く曇り、よけいに視界が利かなくなっていた。男は面倒になり、その場で抱えていたリュックを下ろすと中身をあさった。
早く。早く……! 水はどこだ?
着替えや化粧品など、どうでもいいものを放り出して探る。リュックに詰まった荷物を半分ほど捨て、ようやくペットボトルを引き出した。
軟い透明な2リットルのペットボトルに満々と満ちた、澄んだ水。灰色に覆われた世界で、これほどまでに美しいものが残っていたことに男は感動を覚えた。
ごくりと喉が動く。白い蓋に手をかけると、ぐっと力を込めて回した。パキリと小さな音し、蓋が緩んだ。
男は自分の顔に巻いたバンダナを、その下のマスクごと引き下ろした。呼吸をすると、鼻と口からざらついた粒子が入り込んできたが、気にならなかった。なによりも水を欲していた。
蓋を開こうと、手をかける。
ゴッ。と、右耳の、すぐそばで鈍い音が響いた。そして、世界が赤く染まった。
何が起こったのか分からないまま、男は地面に倒れた。頭が痛い。そこに心臓が移動したかのように激しく脈打つ感覚が生まれた。
息を吸うと、地面に積もった細かな粒子が口の中に雪崩れ込んできた。喉を刺激し、咳き込む。その度に頭にも強い痛みが走った。
灰色と赤色に染まった世界。目の前に転がったペットボトルから、水がこぼれだしそうにしていた。
――俺の水!
男は痛みを堪え、ペットボトルへと手を伸ばした。
その手を、厚い底をしたブーツが踏みつけた。男は悲鳴を上げ、手を引き抜こうとした。だが、それより早くブーツが男の顔面に飛んできた。
男の世界は一瞬、白く輝いた。しかし、すぐに薄暗くなった。
腹に、足に、肩に、喉に衝撃が走る。呼吸がしづらいのは、息を吸う度に入り込んでくる粒子のせいなのか、それとも喉を蹴りつけられたせいなのか、男には分からなかった。理由を知る前に意識が遠退いていった。
体への衝撃が止んでも、男は身じろぎ一つ出来なかった。
ぼんやりと滲んだ世界越しに、美しいペットボトルが何者かの手によって取り上げられるのを見つめた。
ペットボトルとリュックを抱え、ブーツが立ち去っていく。
男の唇に温かな水分が触れた。男はゆっくりと唇に触れた水分を舐めとった。味のついた水分だったが、口の中の粒子とすぐに混ざり合い、どんな味であったのかは分からなくなった。錆のような、それでいて生臭いにおいだけが、かすかに鼻腔を上ってきた。
薄れていく意識の中で、男の脳裏に文字が浮かび上がった。
――いつまでも他人事であると思わない方がいいですよ。
「くそ、が。おま、え……の、せい……で……」
男は事切れた。
読了ありがとうございました。
これは火山噴火をモチーフに書いたものです。
火山灰が数センチでも積もれば、なにが起こるか?
それを考え、書いてみました。