第2話 こんなの勘違いするに決まってますわ、と悪役令嬢は言った。
決定的な言葉を聞くのが怖くて、逃げ出した。
わたくしとした事が、なんて無様なありさまでしょう。
やってきたのは社交パーティーが開かれていた王城の外、馬車の停留所付近。
下馬評という言葉がある通り、ここは貴族やその供の者がスピーディーな情報戦をする場所でもある。
そんな場所柄のせいか、足元にひらりと新聞の切れ端が飛んできた。
ドレスの裾に当たって乾いた音を立てたそれには、こう書かれている。
「“氷の貴公子の心を温める「春の方」あらわる”……ね」
氷の貴公子とは、わたくしの婚約者・ユージン殿下のこと。
あまりにも美しく、文武両道で気高く、心を他人に見せることのない……つまりは神秘的な王子を崇めるようにつけられた通り名だ。
その心を温める女性──これはわたくしではなく、聖女セレスティア様のことであろう。
新聞にはわたくしとセレスティア様の写真が並んでいるが、少し文章を読めばセレスティア様の方を賛美していることがわかる。
おおっぴらに聖女勝利と書かないのは、わたくしの実家から訴えられたくないからだろう。
わたくしは夜空を見上げて呟いた。
「思えば、はじめから大失敗の連続でしたわ」
わたくしは元々、怖がりで口下手であがり症なのに負けず嫌いという、貴族に向かない気質を持って生まれてきた。
それでも誉ある侯爵家の人間として、訓練でそれを隠せるようにして。
マナーも勉強もすべて頑張る姿勢を見せたことで、親の信用を得たからこそ結べた婚約だった。
──ユージン殿下のことは一目惚れだった。
わたくしにとっては、建前ではなく、恋心を伴う婚約だったのだ。
始まりは四歳の時。
父は高位貴族であったので、わたくしの陛下への顔見せは特別早かった。
わけも分からず手を引かれ、四歳で王城へ伴われ、国王陛下にご挨拶した。
陛下は優しくわたくしの頭を撫でてくださった。
その帰りだ、初めてユージン殿下をお見かけしたのは。
ユージン殿下は息抜きのためか、薔薇の咲きほこる中庭に出て、メイドと共に散歩をされていた。
そこにばったり出くわして、ぺこりと遠巻きにカーテシーしてからお暇して。
ほんのりと、微笑まれただけ。
それだけだったのに。
わたくしは──王子殿下に魅了された。
冷たいとも取れる表情なのに、溢れるオーラはどこか木漏れ日のように優しく。
暗紫色の宝石のような瞳は、わたくしを見た瞬間、底から静かにキラリと輝いたように見えて。
「ああ、わたくしの運命はこの方だ」と、なぜだかハッキリ思ったのだ。
それなのに。
……婚約をしたあと、わたくしは早々に第一の失敗をした。
今思えばありえないほど稚拙な罠にかかったものだが、王城に登城したある時、あるメイドからこう言われたのだ。
“お可哀想なディアナ様。このたびご婚約されたユージン殿下はあなた様のことが大変にお嫌いだそうです”
幼いわたくしは愕然とした。
“一目見て嫌だと思ったそうで……。でも、貴族の結婚なんてそのようなものです。どうかお気を落とさずに。私はお嬢様の味方ですよ”
後日そのメイドは敵対派閥から送り込まれた捨て駒だったことが判明したのだが、なにしろ子供だ。その場では事の真偽などわからない。
その言葉に酷く傷ついたわたくしは、反射的に「わ、わたくしも殿下のことが嫌いだから、構いませんわっ」と返した。
そして。
それを──なんと殿下に聞かれていた。
それなのに。
「僕は好きだよ」
「!!」
色んな意味で心臓が爆発するかと思った。
後ろから、耳元へ、殿下の涼やかな声が吹き込まれたからだ。
だが……すっと後ろから現れた殿下は、固く冷たい表情だった。
それもあって、言葉が本心なのか、メイドから聞いた話の方が本当なのかが、まったくわからない。
それでも耳から浸透してきた爆弾のような愛の言葉に耐えられなくなったわたくしは、為す術が無くなりメイドの後ろに逃げ隠れてしまった。
──その態度は無礼の上塗りとなったらしかった。
殿下はよろよろと後ずさり、口元を抑えた。
そんな無礼な態度を他者から受けたのは初めてだったに違いない。
そのまま黙り込んでしまった殿下は呆然とした様子でお付きの者に支えられて行ってしまい、そこでやっと、わたくしは。
──嫌われた、と分かった。
メイドの言葉の真偽はともかく、だ。
まさに、今。
嫌われた。
そのことに、思い至った。
なんてことをしてしまったのだろうと思った。
本心はともかく、殿下はきっと関係を改善するために「好きだよ」と言ってくださったのに、それを拒否するように逃げたものだから、決定的に不快にさせてしまったのだ。
焦ったわたくしはその日の夕方、父に頼み込んで殿下に面会できるよう頼んだ。
到底無理だと思っていたが、その願いは聞き入れられ。
侍従によって寝かせられていたらしい王子は身を起こして対応して下さり。
しかし──そのお顔はやはり冷たかった。
わたくしが好きになった、物静かで神秘的、という意味でのお顔ではなく。
わざと唇を引き結んで冷たくしているような、そんなお顔。
結局。
その日王子は、わたくしが半泣きで謝り倒しても明瞭なお言葉を返して下さらなかった。
完全に、心、ここにあらず、だった。
……その後も失敗は続いた。
令嬢たるもの、殿下の社交ダンスが壊滅的に下手くそでも、本当は口出しをすべきではなかった。
それでもだ。
殿下の名誉に関わるレベルだったので我慢できずにアレコレ言ってしまって。
きっと、殿下のプライドを傷つけてしまったことだろうと思う。
これ以上まだあるのかと言われそうだが……私の両親が大事業に失敗しかけた時もそうだ。
「殿下とのご縁もある。王家を頼るしかない」だなんて有り得ないことを呟いたのが聞こえたものだから、わたくしは急いで殿下との関係を絶とうとした。
暴言を吐き、プライドを傷つけてくる生意気な女だと思われているだろうに、さらに今度は迷惑をかけてくる女だと思われるなんて。
そうなったらもう、生きてはいられないと思ったからだ。
だが……殿下は優しすぎた。
幼いながらに、どうやってか我が家の窮地を救って下さり、「安心していい」と仰ってくださった。
安堵と感謝で、心からお礼を言った。
そのお礼に、殿下は「いいんだ」と返事をくださった。
──凍えるような目線で。
……もう……。
今度こそ、ダメなのだと思った。
救ってはくださったが、やはり、嫌われている。
こんなに人から軽蔑されることがあるのだと、その日の夜は心が恐怖に凍りついて。
涙すら出なかった。
結果としてわたくしは「態度が悪いのに手のかかる最悪の女」ということになったのだろう。
これ以上「愛されない」要素があるだろうか?
このままでは、婚約解消されてしまうのでは。
そんな恐怖から、更に会話がうまくできなくなった。
それではダメだとわかっているのに、なおさら言葉が出てこなくなった。
元々無口な殿下との会話は、みるみる減って。
殿下は変わらず婚約者としてお茶会やお出かけを共にしてくださったけれど、こちらから誘うことなど出来るはずがなかった。
そうして時が経ち。
気づいた時には──光り輝くような聖女、セレスティア様が王子の隣にいた。
これはおそらく、婚約者という関係に甘えてきたわたくしへの、順当な罰だった。
彼女は、類まれな浄化の力を持つという「聖女」だった。
歴史を紐解けば、聖女認定された女性はそのほとんどが王族と婚姻している。
時間の問題だと思った。
ただのコネと慣習からきた婚姻よりも、聖女との婚姻の方がよほど国民から祝福されるだろう。
彼は、幸せになれるだろう。
なにより国益になる。
いくら陛下とわたくしのお父様の仲が良くても、王族の求心力を上げる材料が目の前にあって、国王陛下が使わないはずがない。
第一王子はすでに結婚してしまっているから、候補となるのはユージン殿下だけだ。
焦ったわたくしは、いまさらながらに王子と会話を試みようとしては失敗し、繰り返しては失敗し、でしゃばっては空回りを繰り返した。
貴族学園の環境もあり、状況は悪化の一途をたどった。
同じ生徒会に属しているのに、セレスティア様はわたくしの五倍は王子と会話していたと思う。
それを憎らしく思って見ているうちに、噂が立ち始めたのだ。
“王子の婚約者が聖女様をいじめている”
“運命の二人を妬んでいる”
“引き際も分からないみじめな女”
……心底悔しかった。
そして寂しかった。
でも、せめてユージン様の婚約者として背をピンと伸ばそうと思った。
そうするほどに、「愛されていない女が見栄を張ってバカみたい」と笑われた。
いよいよ、どうすればいいか分からなくなった。
分からなくとも、背は伸ばし続けなければならない。
なぜならわたくしは侯爵令嬢であり、一国の王子の婚約者だからだ。
わたくしが背を丸めるということは、国の背が丸まって見えると言い換えてもいい。
……しかし、とうとう、ユージン様が公務である視察にも聖女を伴うようになって。
「その時点で。もうどうにもならないと、お父様に相談すればよかったのかしら」
ザアッと夜風に吹かれながら思う。
そっと目を閉じた。
「……でも……」
きっと。
いつかの幼き日。
王子が、綺麗だとお世辞を言ってくださった、己のこの金色の髪を見る度に、思いとどまってしまったことだろう。
きっと。
王子が似合うと言ってくださった赤いドレスに袖を通す度にも、一緒に飲んだ紅茶の香りを感じる度にも、きっと。
一緒にお出かけして、僅かばかりの会話を繋げたカフェを見る度にも。
一時でも希望を持てた日の空の青さを見る度に、きっと。
どんなに小さな記憶を思い出しても、どんなに短い会話を思い出しても。
そのひとつひとつが記憶に残っているだけで、きっと。
わたくしには。
「婚約解消だなんて、言い出せるわけが無かったのですわ」
「そうしてくれると、助かる……っ!」
──間髪入れない後ろからの声。
デジャビュにくらりとした。
ぎゅうっと、右手が熱くなる。
そう知覚して、誰かに手を握られていることに気づく。
いいや、誰かだなんてとぼけることなどできない。
誰よりも追ってきた。
誰よりも知っている、その気配。
……王子に。
後ろから、右手を、握られている。
それに気づいた瞬間、ボンッと感情が熱くなって痛いほど目が潤んだ。
だってこんなの。
「でぃ、ディアナは存外、足が、早い……っ。はぁ、はぁ」
ドッドッドッと心臓が鳴って、胸に熱が集まる。
一瞬で泣きそうになった。
信じられない思いで、少しづつ振り返る。
最初に、冬の湖のような澄んだ水色の髪が映った。
次に暗色の宝石のような瞳。
夜空に映える美しい白肌。
──ほんのりと額に汗をかいたユージン殿下が、息を切らしてわたくしを覗き込んでいた。
「……ぁ、……っ」
どうして。
なんで。
なぜ追ってきたの。
なぜ手を掴んでいるの。
どうして。
そんなに焦った様子で、息を切らして。
期待しそうになって、慌てて希望を握り潰す。
何度も繰り返した絶望をまた味わいたいのか。
「は、離してくださいませ」
「嫌だ」
「!?」
突然直球で感情をぶつけられて、驚いた。
弾かれるように見上げる。
「でんか……?」
「……」
なぜ、あなたが苦しそうな顔をするの。
泣いていたのはこちらのはずなのに、すぐにそれが気になってしまう。
……それは好きだからだ。
駄目だ、駄目。
ここで希望を持ったりしたら、本当に潰れてしまう。
「なぜ逃げたんだ」
「……っ!!」
その言葉に、ザッと血の気が引いた。
まさか。
あの場に残って、ありもしない罪を聞いていろと?
大人しく断罪されろと。
聖女と正式に結ばれるところを見ていろと。
そう、言いに来たの……!?
真っ黒な絶望に圧死させられそうになる。
そう思った瞬間、手をグイと引かれて向かい合わせになった。
たたらを踏む。
こんな風に扱われたことはなくて、びくりとしてしまう。
「どう考えても、逃げるべき場面ではなかっただろう」
「……え……」
「真実を話すべきだ」
その言葉は、今のわたくしには。
──「自白して社会的に死ね」と。
そう……言っているように聞こえた。
お前が罪を素直に認めて消えれば、世界がハッピーエンドになると。
そういう風に……。
魂が、音を立てて凍りついていく。
意識が落下していくのが先だったか、体が力を失ったのが先だったか。
わたくしの視界は、為す術も無く急速に暗転した。