4. 瀬名紗良
「蛇口の捻り方を、彼女は知らなかった。お湯の出し方、シャンプーの仕方、身体の洗い方も。最初は冗談かなと思ったけど、そうでもなくて。一体どうしたらこんな年まで何も知らずに育つんだろうって、半信半疑でした。……文字が、読めないと知ったのは、その時です。シャンプーとコンディショナーの、その表記がもう、読めなかった。……日本人じゃないからかもと、その時は思ったんですけど。結局は、異世界人だったから。彼女はルミールの人間だったから、向こうの文字は全部、読めなかった。そういう……、ことだったんですよね……」
◇
洗面所に連れて行かれたところで、彼女は動かなかった。
佑は疑問に思って、『どうしたの』と聞いてみる。
『シャワー……って、何……ですか』
『え? シャワー、知らないの? お風呂派? 一人暮らしだと、水道代とガス代勿体なくて、いつもシャワーなんだよ』
『お……、ふろ? 湯浴み、でしょうか』
『湯浴み? ……まぁ、そうだね。あれ? もしかして、アパートの風呂場、使ったことない? こっち捻るとお湯が出て、こっちに捻ると水が出るから、丁度良いところを探って……』
風呂場に入り、丁度良い湯加減になるようにシャワーの温度を調整する。
『よし、オッケー。着替え、脱いだのはそこのカゴに入れといて。あとで洗濯しておくから。タオルも、これ使って。バスタオルはこっちね。シャンプーとコンディショナー、ボディーソープはこっち。洗顔フォームもさっき買ったヤツ持って来ようか。トラベル用のヤツ。家のはメンズのだから、君の肌には合わないと思って』
佑なりに丁寧に、親切に言ったつもりだったのに、彼女は益々顔をくちゃくちゃにして、しまう。
『わわ。ごめん。どう……したの』
『ちがっ、違うんです。親切なのは、とても嬉しいんですけど。私……、あのッ! ……ごめんなさい。覚えます。分からなくて。一人じゃ、やり方が……』
『――ご、ごめん! そ、そうだったのか。気付かなかった。文化の違い……とかも、あるし、ね』
『いえ、そうじゃなくて。湯浴みは、日中にするもので。それに、……身体を清めるのでしたら、普段は布で拭き取るくらいで』
風呂に入る習慣がない……?
そういえば、日本人くらいだと聞いたことがあった。毎日風呂に入って温まってから寝るのは、日本人くらい。習慣になっていた佑は、もしかしたら異邦人かもしれない彼女の意志を一切無視してシャワーを勧めてしまったことを後悔した。
『あ、嫌なら無理にシャワー浴びなくても。でも、雨でだいぶ冷えてるだろうし、温まるだけでも……どう?』
『はい。……そう、します』
◇
「セリーナ王女は優秀だった。だから、適応したのだ」
リディアはポツリとそう言った。
「俺も、そう思います。高校卒業したばかりで、社会人なりたての俺が傷付かないよう、必死に言葉を選んでくれていた。だから、気付かなかった。周囲にも、常に気を配っていて。彼女が異世界から来たなんて、微塵も考えなかった。そのくらい……、彼女は完璧に、自分を偽っていたんです」
◇
シャワーを浴び、濡れた髪の毛を拭き取った彼女にドライヤーを当ててやる。雨の臭いがまだ染み込んでいる。本当はシャンプーをしっかりしてあげたいのに、同性でない自分がするわけにはいかないのがもどかしい。
自分もサッとシャワーを浴び、明日からのことをぼんやりと考えた。
『仕事……。休むしかない』
彼女を一人にしておくわけにはいかないと思った。
何者かも分からない彼女は、とても危なっかしく見える。
いつまでも一緒にいるわけにはいかないという考えはどこかにあったが、せめてそれまでは、自分が彼女を守らなければと、そんな責任感すら芽生えていた。
佑がシャワーを終えるのを、彼女は座って待っていた。
ベッドの手前、普段は食卓代わりにしている折りたたみテーブル。その前に足を崩して座る美少女。しかも、新品とはいえ、自分のジャージや下着を身につけている。
どんな夢だと佑は一瞬、目を疑って、頬を一発自分で叩いた。夢じゃない。ヒリヒリした頬を擦っていると、彼女は不思議そうに佑を見上げている。
『あ、あの。お名前、伺っても』
そういえば、名乗ってもいなかった。
『俺、曽根崎佑。佑でいいよ。君は?』
聞いた途端、彼女は言葉に詰まった。どうしたんだろう。思っていると、
『せ、セ……ナ、――サラ……』
『せな、さら?』
日本人名だ。
佑は驚いて彼女を見た。
『え?』
『瀬名、紗良さん?』
彼女は目をぱちくりしている。佑は紙とペンをたぐり寄せ、テーブルの上で読み取った名前を書いた。
『“せな、さら”さん。で、合ってる? 漢字は、こうかな?』
『か、カンジ?』
『君の名前、漢字で書くと、こう?』
ひらがなと漢字。両方で彼女の名前だろう字を書いた。
彼女は、困ったような顔をした。
『ご、ごめん。間違ってた?』
彼女は、唇を噛みしめ、首を振る。
『字が。よ、読めなくて』
『え?』
『字、分からないんです。だから、名前も、どう書くのか、知らなくて』
佑の頭から、一気に血の気が引いた。
字が分からない。まさか。
この時代、字が読めない人が存在するなんて。そんなわけ。
『君、学校は……?』
彼女は首を横に振った。
『字、習ったこと、ないの?』
また、彼女は首を傾げる。
『そうか。そう、なんだ……』
学校にも行かせて貰えない子どもの話を、佑はどこかで聞いたことがあった。
親が何らかの都合で出生届を出さなかったために無戸籍となってしまった子どもがいる。その子達は、存在を認めて貰えず、学校にも通うことが出来ずに、ひっそりと生きているのだと。
少し前の、テレビのドキュメンタリーだったか。
『少しずつで良いよ。言いたくなったら、君のこと、教えて。俺、君が話したくなるまで、何も聞かないから』
“瀬名紗良”は、こくりと、深く頷いた。
◇
「彼女のこと、俺はずっと“瀬名紗良”だと。でも、さっきリディアさんに王女の名前を聞かされて、ハッとしました。セリーナのところを瀬名、リサラのところを紗良と、俺が勝手に聞き間違えてた。以来彼女のことはずっと、紗良と呼んでいたんです。……そうか。恥ずかしいな。ミドルネームの方だったんだ」
「彼女は嬉しかっただろうよ」
リディアは言った。
「知らない土地で、知らない文化で、名前の仕組みさえ違うような世界で、不安だったろうに。お前が彼女の名前を聞き間違えたことで、新たな名前を付けてくれたことを、彼女は嬉しく思っていたのじゃないか」
「だと良いです。もう、確認する手段も、なくなってしまいましたが」
佑は、リディアの背中で、静かにそう答えた。