1. 旅
いつの間にか、季節は春へと変わりつつある。
猛吹雪の中、息を詰まらせながら重い身体を引き摺って竜樹を探したあの日から、既に一月近くが経過していた。
叩きつけるような雪の音にこの世の終わりを感じたのが、もう遠い昔のようだった。
今晩は月も綺麗で、微かに風のそよぐ音と鳥の声が聞こえる程度。電気のないルミールでは、夜が更けるのが早いのだ。
夜の音に混じって誰かの足音や話し声が聞こえては来るが、それだって、決して耳障り過ぎることもない。
静かな夜が、更けていく。
◇
刺繍に編み物、裁縫教室、展示会。
紗良は少しずつ活躍の場を増やしていく。
人前に出るのは苦手ではないらしい。ずっと前からやっていたんじゃないかと疑ってしまうくらい、紗良は自然に何でもやってのけた。
『紗良が苦手なことって、ある?』
いつだったか佑が訊ねると、紗良ははにかみ『勿論あるわよ』と笑っていた。けれどそれが何なのか、とうとう聞かずじまいだ。
紗良はいつも、遠くを見ている。
佑の見ていないところで深くため息をつき、頬を涙で濡らしている。
『ねぇ佑。旅を……してみたいの』
初めての出会いから三年が経過した頃のこと。
思い詰めたように何日も塞ぎ込んでいた紗良が突然放った一言に、佑は呆然とした。
『た、旅……?』
『どこでも良いの。この周辺は佑も良く連れてってくれるから、私も随分慣れてきたけど……そうじゃなくて、どこか遠くへ。車とか……電車とか、宿に泊まったり、いろんな景色や観光名所見て回ったり、そういう旅』
唐突な申し出だった。
相変わらず佑と紗良はボロアパート住まいで、貯金も未だ少なかった。当然、車など持っておらず、運転免許証はあるものの、ペーパードライバー状態。車での旅をねだられても、遠くまで行ける自信はなかった。
『で、電車……なら、良いんじゃないかな。特急使うと金もかかるから、鈍行と快速でよければ』
『ありがとう、佑。行ける範囲で良いの。少しずつ地図を塗りつぶしていって……そしたら、どんどん世界が広がっていくようじゃない?』
紗良は無理矢理自分を奮い立たせるかのようにわざとらしく笑っているのだと、佑には分かった。
連日、紗良は考え事をしている。出会ったあの日からずっと、紗良は何かを隠し、何かに耐えている。
『良いけど……紗良、何かあったら、俺に相談して?』
『うん。大丈夫。ありがとう、佑』
笑う時、紗良はいつも悲しそうだ。まるで楽しむことを後ろめたく感じているような気がするのは、無意識に過去の自分と重ねているからだろうか。
そうやって邪推する度に、佑は首を横に振った。
聞かない。紗良の嫌がることはしない。
絶対に幸せにしてあげなくてはと、固く誓った。
いつか、心から笑える日が来るのを信じて――……。
◇
「何の夢、見てたの?」
ぼんやり頭で支度をする佑に、竜樹が訊ねてきた。
「寝言で母さんの名前呼んでた」
「え、そうなの?! 恥ずかしいな……」
朝の早い時間から使用人のジーンが部屋にやってきて、慣れない服の着替えを手伝ってくれていた。シルエットを整えるためか、見えないところに留め具や紐がやたらと多い。何度言われても上手に着れなくて、その度にジーンから小言を言われるのにも慣れてきたところだった。
「紗良の夢、ルミールに来てからよく見るんだ。紗良は旅が好きだった。……今思えば、紗良も俺達と同じように見知らぬ世界にたった一人でやって来て、旅を……してたんだ」
「奥様の……、ロザリー様のお姉様のお話ですか?」
上着を持ち上げて、佑の腕を袖に通しながら、ジーンが聞いてきた。
「うん。まさか……、こんなに文明の違うところからやってきたなんて微塵も思わなかったから、相当大変だったと思う。偉いよ、紗良は」
「追放されたお姉様の話は、よくロザリー様が零してらっしゃいました。賢明な方だったと。私はお人柄までは流石に存じ上げませんけど、セリーナ様と言えば、やはり刺繍ですわね」
「刺繍?」
佑と竜樹、声が揃った。
「丁寧な糸運びと模様の美しさに定評があって、貴族のご婦人やご令嬢の中で話題だったんですよ。お忙しいなか、こんなことまでなさるのかって。嗜みなんかで済ませてはいけないくらいに美しくて。ハンカチやポーチなんか、今じゃ手に入らないからって、高値で取引されてるらしいですよ。小さい刺繍の入ったものでも良いから、私だって何か欲しいくらいなのに、私の身分では手に入れるのは無理ですね」
「そんなことになってるんだ。確かに、店に出すと直ぐに売れちゃってたな……。家に戻れば、まだ在庫あるんだけど……残念、ジーンに渡す手段がない」
「あらァ、残念! もし手に入ったら、自慢出来ましたのに!」
ジーンはカラカラと笑いながら、佑のネクタイの形を整えた。
「あっ、ちょっと待って。ハンカチならあったはず……」
と、佑は上着のポケットに入れっぱなしだったのを思い出し、必死に漁ったのだが、何故か見つからない。
何度も首を傾げて、「あったはずなんだけどなぁ」と呟くと、
「昨日、エリックに差し出してたよね」
竜樹が言ったのを聞いて、佑はアッと声を上げた。
「……思い出した。そうだ、あげちゃったんだ。ごめん、ジーン」
エリックは白いハンカチを肉汁のついた手で握り締めていた。
ルミールに来てからも度々洗いながら大切に使っていたのだが、うっかり渡してしまったのだ。
「そういう方ですよ、侯爵様は。期待していませんでしたから、大丈夫です」
いちいちジーンの言葉は、佑の胸にグサグサと刺さった。
マズったなと首の後ろを擦って、半笑いして返すので精一杯だった。
「あのハンカチって、確か四隅に刺繍があった……」
竜樹は柄を思い出しながら目をつむり、首を傾げた。
「気に入りだったんだよ。汚さないよう、丁寧に使ってたんだけど……、仕方ない」
「売れば当分の間、エリック達は食べ物に困らないんじゃないの?」
「いや、もし価値が分かっても売らないだろう。大切にしてくれると良いけど」
佑と竜樹のやりとりを聞いて、ジーンは頬を緩めた。
「そのエリックって方が羨ましいですわ。きっと一生、お忘れにはならないでしょうね」
少しずつ朝の陽射しが強くなって、カーテンの隙間から白い光が差し込んできた。
清々しく吹く風が、優しく窓を叩いていた。




