6. 奴隷
昔の話をしだした途端、佑の手の中は汗でじっとり濡れ始めた。
十八年間過ごした家なのに、愛着どころか恐怖を感じていたなんて、きっと奇妙に見えるだろう。
不思議なことに、その恐怖は二十年近く時間を超えてもなお鮮明に思い出されて、今も佑の肩や膝をガタガタと震えさせている。
情けない。こんな歳になってもまだ怖いだなんて。
「その時何か……言われたの?」
と、ロザリー。
佑はこくりと深く頭を落とした。
「紗良に向かって、『何だこの女は』……と」
◇
畳に擦り付けた頭を、佑は上げられなかった。
祖父の言葉が紗良に向けられていると知っていながら、恐怖で身体が動かないのだ。大切な人を守らなければという気持ちを、恐怖が上回っている。
季節は春。肌寒い外の風を浴びてきたはずなのに、身体中嫌な汗でびっしょりだった。
『瀬名紗良と申します。佑さんが何故頑なに御家族を紹介してくれなかったのか、……よく、分かりました』
頭の上で、紗良の凛とした声が響いた。
『チャラチャラした髪、青い目。外人と結婚する気か? 銀行員が、随分遊び歩いてんだねぇ』
祖父が呵呵と笑う声。
『佑さんは、真面目な方です』
『真面目なもんか。家も継がねぇで。銀行員なんて、ただの金貸しでねぇのが』
不気味なくらいに、二人の声だけが飛び交っている。
身動きの取れない佑は、震えながら、頭の中でごめんなさいを繰り返した。
『第一……、何処の馬の骨とも分がんねぇ外人連れて来て、結婚しますだの家は継ぎませんだの。一体……誰が許すと思ってんだァ!! 佑ゥ!!』
祖父の怒号に、佑はガタガタと大きく震え出した。
幼い日、許して貰えるまで謝り続けたトラウマが、佑をどんどん追い詰めていく。
『勝手に家出て、勝手に就職して……!! 跡取りに逃げられたんでねェのって、こっちァ村の笑いモンだ!! ァア゛ァ?! まだ二十そこいらで、世間も知らねぇ若造がァ……!! よぐもまァ、結婚だなんてよォ!! そんなもん、誰ェが許すがァア!!』
幼少の頃から頭にこびり付いて離れない、祖父の怒声。
こんなものを……、紗良に聞かせてしまうなんて。
それがとても辛くて、苦しくて。
『……私、知ってます。これは、奴隷の反応です』
紗良は変わらず、高い位置から真っ直ぐと声を出している。
静かな声に怒りが含まれているのに気づいて、佑は僅かに顔を上げた。
『虐げられた奴隷はよく言うことを聞きます。……でもそれは、主人が怖くて抵抗出来ないから。大きな声に怯えて、……こうして、震えるんです』
紗良の柔らかな手が、佑の背中をゆっくりと擦り出すと、佑はもう、我慢が出来なくなって、声を上げて泣き始めた。
『何? 佑が奴隷だって言ってんのが?』
『この怯え方は異常です。あなた方が、どうやって佑を育てて来たのか、この反応で全部分かりました。佑は、私と幸せになります。あなた方とは恐らくもう、会うことはないでしょう』
『……ァんだってェ?! こンのアマァア!!!!』
ダンッと、祖父の拳が、畳に思い切り叩き付けられた。
『――うわぁぁッ!!』
佑は慌てて頭を抱え、身体を丸めた。
目の前にいる祖父は佑より小さかった。……けれど、佑はそれさえ忘れて怯えている。
後ろに座る祖母や父は、そんな佑を無表情に眺めているだけで、なんの言葉もかけようとしなかった。それがまた、恐怖に拍車をかけた。
『小さい犬程良く吠えるのだそうですね』
抑揚なく、紗良は言った。
『――ンだと?! もういっぺん言ってみろ!!』
再び、祖父の怒号。
怖い。……けれど、隣に座る紗良の気配は乱れない。
何が起きているのか……、佑は恐る恐る、頭を上げた。
紗良の真ん前に祖父が立ち塞がっている。
紗良は微動だにせず、綺麗に正座したまま、祖父の顔を見上げていた。
『この世界に、奴隷は存在しないと聞きました。そして、この国には自由がある。結婚も、個人の自由です。佑は私と幸せになります。あなた方に、佑の自由を制限する権限はありませんよね』
『そういうのを身勝手だって言うんだァ〜。世間も知らねぇ小娘が、何を口ごたえしやがって』
『――少なくとも、私も佑も、あなたよりずっと、社会の厳しさを知っています』
気丈に答える紗良の手が、膝の上で僅かに震えているのが見えた。
『――佑、行きましょう』
呆然とする佑の肩に手を回し、耳元で『ごめんなさい』と紗良は言った。
覚束無い足で立ち上がり、紗良に手を引かれて玄関に向かった。
『佑!』
玄関先に、母がいた。
紗良は全てを察したように、
『安心してください。私達、きっと幸せになりますから』
と、佑の母に言ったのだった。
◇
「とても……、酷い言葉をたくさん投げ付けられたのに、紗良は気丈で、俺はすっかり助けられました。いつの間にか、紗良を支えるつもりが、支えられていたんです」
何度思い出しても、苦しくなる。
佑の目からはいつの間にか、涙が溢れていた。
紗良のそれば、生きづらさを知っていたからこその言葉だったと思うと、あまりにも重い。
「逃げるように家を出て……、それから、河川敷に向かいました。桜並木が満開で、とても心地よい風が吹いていました」




