9. 好き
森の中を、スキアは風のように駆け抜けた。
午前中までに降り積もった雪は軽く、スキアが通る度に枝から落ちて、佑達の上にも落ちてきた。雪の粒が頬に当たると、フワッと溶けて消えていく。
大狼になったスキアの吐息が耳に響く。
リディアはまた、紗良の話をせがんだ。
軽快に上下するスキアの背中で、佑は戻りようのない昔のことを思い出していた。
◇
手芸屋の片隅に陳列された紗良の縫い物は、町でちょっとした噂になった。
とてもセンスのいい品物だと、店頭に並ぶと直ぐに売り切れてしまう。入荷待ちの札がかけられるほどの人気に、真穂も大家も手芸屋も、目を丸くした。
『お金……、これで稼いでいくって、アリだと思う』
『立派な売り物になるもんね』
紗良の刺繍は独特なのだそうだ。レース模様、動物と植物の図柄、色合い……、どれも日本人の感覚とは少し違っていて、異国情緒溢れるのが客に喜ばれているらしい。
紗良は出自を口にしない。言えないのか、言わないのか。
やはり、どこか外国人の血が混じっていて、秘密裏に育てられて来たからだと、佑は変わらず、そう信じていた。
紗良との日々は緩やかだった。
何も知らない彼女のために、佑は多くの時間を割いた。
美術館、博物館や映画館にも足を運んだ。
一緒に図書館で本を借り、文字の読めない彼女のために何時間も読み聞かせた。
『曽根崎、今度の休み、みんなでボーリング行く予定だけど、来る?』
『あ、いや……。休みの日は、ちょっと色々あって』
職場で誘われることもあったが、紗良のことを思うと、なかなか応じることも出来ず。
『記憶喪失の子、まだ面倒見てるんだっけ』
女性の先輩に声を掛けられ、佑はそうですと返事した。
『引き籠もらせてばかりじゃ可哀想だから、一緒に来たら? 身体動かして、ストレス発散させたら良いよ』
先輩からの強い勧めもあって、佑は初めて紗良を職場の同僚らに紹介した。
清楚で礼儀正しい紗良の評判は上々で、佑は少し誇らしかった。
『曽根崎には勿体ないくらい良い子じゃん!』
『可愛い! お姫様みたい!!』
ボーリングが何かも分からないまま連れて来られた紗良は、始めこそ酷く困惑していたが、女性陣がチヤホヤ可愛がり、少しずつ場に馴染んでいった。手取り足取り教えてくれたお陰で、上手く球を投げ、幾つかピンも倒せるようになった。
初めてのハイタッチに赤面するのを見て、こんな顔もするんだなと、佑はニヤニヤが止まらなかった。
『曽根崎は紗良ちゃんと付き合ってんの?』
女子の輪からは慣れた場所で観戦していた佑に、同僚の一人が聞いた。
『いや、付き合ってるわけでは……ないですけど』
『でもずっと一緒に暮らしてるんだろ? 同棲してるってことは、付き合ってるってことじゃん』
『違いますよ。保護してるんです。彼女が、独り立ち出来るまでの、繋ぎです』
『へぇ。じゃあ、俺が付き合ってって言っても大丈夫なわけだ』
『はぁ? 何言って』
佑が変な声を上げたのを、皆が一斉に注目する。
『紗良ちゃんも曽根崎のこと、大好きみたいだぜ。ずっと曽根崎の方チラチラ見てる。ここで付き合ってます宣言しちゃえよ~!』
ボーリングの球が転がる音だけが室内にやたらと響いた。
続いてカコンッとピンの跳ねる音。
『ここここの場で、ですか?』
佑がオロオロしていると、今度は女子達が紗良に迫った。
『曽根崎君のこと、紗良ちゃんはどう思ってるの?』
『優しいし、良い人だよね。気が利くし』
『顔はそこそこだけど、性格は文句なしだもんね』
女子達に迫られると、紗良は徐々に顔を赤くした。顔だけじゃなくて、身体中真っ赤になったところで、両手で顔を隠し、
『す……、好きです……』
消え入りそうな声で、紗良は言った。
しばしの沈黙。
店内BGMと余所の客の『ストライク!! いえぇ~い!!』の歓声がその場に響く。
『好きだって!! 曽根崎!! 両思いじゃん!!』
『え、あ? えええ???』
『いやあの、好きというのは、とても、人間として素晴らしくて好きという意味で』
紗良は慌てて妙な弁明を始めるが、周囲はやたらと沸き立った。
『胴上げしよう! 胴上げ胴上げ!!』
『え? 意味わかんなくないですか?! なんで胴上げ?!』
気が付くと佑は同僚や先輩ら、屈強な男達に担がれ、宙を舞っていた。
『た、佑さん?!』
紗良が慌てて止めようとするのを、女子達が制止する。
『いいのいいの。みんな、曽根崎君が苦労人なの知ってるからさ。幸せになって欲しくて胴上げしてんの!』
その日は、途中からボーリングのゲームどころではなくなって、終わったあとに皆で居酒屋になだれ込んだ。
まだ未成年の佑と紗良の代わりに、大人達が変な酔い方をしていた。
◇
「紗良の気持ちを聞いたのは、それが多分初めてだったと思います。それから、二人でお金を貯めて、結婚したいなって言い合うようになったんです。若くて……、無謀で。何にも知らない二人でしたけど、いつか幸せになれたら良いなと、そればかり願っていました」
佑はひとしきり言い終えると、長いため息をついた。
リディアは頷くような仕草をして、しばらく佑の話の余韻に浸っている。
「幸せになれたから、リュウが生まれたんだろう?」
「そうです。だから、どうして命を絶ってしまったのか、未だ理解出来なくて。ルミールに来たからには、何かが分かるんじゃないかと期待していましたが、まだ、何も分かりません。俺は前向きに頑張っていた紗良が絶望するようなことは、恐らく何もなかったんじゃないかと……思うんですけど……」
「私も早くリュウに会いたい。きっと知っているはずだ。全てを」
数時間ごとに休みを挟みながら、スキアはどんどん進んだ。
森の中、大狼は獣を寄せ付けることなく、雪の中を駆けてゆく。
恐らく竜樹は一定間隔で設置されたビバーク用の小屋で休みながら進んだのではないかとリディアは言った。天気が良ければ休まずに次の小屋まで進めただろうが、あの雪だ、一カ所に留まっていた時間も相当だったと仮定した。
竜樹に遅れること半日から一日程度。晴れ間を縫って進めば追いつくに違いない。
佑もリディアもスキアも、ただ前だけを見て、森を抜けていった。




