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君の世界を巡る旅  作者: 天崎 剣
【5】佑と紗良の昔の話

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2. 聡明な人

 季節は夏。

 紗良が佑の前に現れて二ヶ月以上が経過した。


『申請書類にもたくさん字を書いたし、疲れたでしょ?』


 大家のリビング。

 汗だくになりながら書類を完成させた紗良に、大家は労いの言葉を掛けた。


『はい。でも、頑張りました。漢字、難しくて。腕が痛くなりました』


 大家の孫、真穂に字や勉強を教わり、紗良は自分の名前や住所を漢字で書けるようになっていた。

 一文字一文字、こんなに丁寧に書くのかと言うくらい丁寧に書く紗良に、佑は尊敬の念すら覚えた。

 紗良が書類に記入していくのを、佑はそばで見守った。


『曽根崎君もありがとうね。毎日、練習に付き合ってくれたんだって?』


 大家に声を掛けられ、佑はハッとしてブンブン首を横に振った。


『いや、俺はただ、そこにいただけで。紗良が頑張ったんです。本当に、頑張り屋さんですよ。この書類が通ったら、紗良はちゃんと瀬名紗良として認められるってことですよね』

『そうみたいよ。時間は掛かるかも知れないけど、これで戸籍が出来たら、病院にかかったり、好きな人と結婚したり、いろんなことが出来るようになるんだって』


 難しいことは殆ど大家さんがやってくれた。

 本当に、大家さんには頭が上がらない。


『紗良さん、字を覚えるの早かったよ。本当は勉強、大得意でしょ?』


 大家の隣で真穂が言った。


『そ、そんなことないですよ! 真穂さんの教え方が上手だったんです』


 紗良の努力の賜物(たまもの)だと、佑は知っていた。

 最初は鉛筆の持ち方も危うかった紗良が、次第に綺麗に字を書けるようになった。

 貪欲に色んなものを吸収した。

 簡単な家事をこなしたり、本を読んたりするようになった。

 まるで彼女の元来の姿がそうだったかのように、出来ることが日に日に増えていった。






 ◇






「紗良は、学校には行ったことがないと言いました。出会った頃、紗良は十六で、義務教育はとっくに済んでいる年齢だったんですけど、流石にあのまま高校に通わす訳にもいかなくて。真穂が復習がてらにって、一緒に子ども用のドリルや練習問題で勉強、教えてくれたんですよね。勤勉で、頭が良かった。学校に行ったことがないのは嘘かなって、思うこともありましたけど、常識が通じないことが多かったから、やっぱり気のせいかと。王宮ではリディアさんが教えてたんですか?」


「そうだ。アラガルド王を支えるため、様々なことを教えていた。年齢にそぐわず、何でも出来る優秀な王女でな。王家には二百年以上仕えたが、あんなに聡明なお方は見たことがない」

「本当は、字も上手だったんでしょう? 日本語は独特だから、書きづらかったのかな」

「王女は、それはそれは美しい字を書いたのだぞ。スラスラと柔らかく、まるで絵を描くように文字を綴った。公文書も王女に書かせるべきではと言われるくらい、美しい文字をな」






 ◇






 毎日紗良と過ごすようになって変わったのは、佑の日常だけではなかった。

 大家の孫娘、真穂もまた、紗良に刺激された一人だった。


『学校行くと、紗良さんとの勉強時間、減っちゃうんだよね』


 夏休みの最後の日、佑の部屋に遊びに来ていた真穂は、佑と紗良に申し訳なさそうにそう零した。

 ずっと不登校だった真穂は、夏休み明けから意を決して学校に通うことにしたようだ。中学生活は半分近く過ぎていて、その間登校したのは数日という有様だったが、何かしら思うことがあったらしい。それこそ急に決めたようだった。


『大丈夫です。佑さんも手伝ってくれるし。私も、色々頑張ってみます』


 紗良はそう言って、真穂に笑顔を向けた。

 苦手だった書き取りや計算も、みるみる上達して、小学生用のドリルは殆ど書き終えていた。一部、中学生の問題集に手を付けているのを見て、佑はかなり驚いた。


『本当に、学校行ったこと、ないの? こんなに勉強好きなのに』

『ない、です。でも、新しいことを覚えるのは好き。知らないことばっかり。こんなにいろんなことを小さい頃から教わっていたら、私はもっと、強くなれたのかな……』






 ◇






「そういえば、あの頃の紗良、口癖のようにいつも言ってたんですよ。――『強くなりたい』って。可憐な彼女に似合わないセリフだったから、ずっと引っかかってたんですけど。ようやく意味が、分かりました。彼女は王女として、もっともっと強くならなくちゃならなかったってことだったんですね」

「王女らしい。あの方は常に高いところを見ていたからな」

「高いところ。……そうですね。俺の知らないずっとずっと高い空を、紗良は見ていたのかも知れませんね」






 ◇






 紗良がこれまでどんな生活を送ってきたのか、佑には分からない。

 コンビニやスーパーには行ったことがなく、レトルト食品の食べ方も分からなかった。かと言って、ご飯に漬物、味噌汁を出しても、最初は食べ辛そうにしていたし、そもそも箸の持ち方も分からなかった。

 だけど食べ方は綺麗で、上品で。

 教育を受けられないところにいたはずなのに、どこかちぐはぐで、不思議な感じがしたのだ。


 秋になっても、紗良は佑に自分のことを話さなかった。真穂にも、大家にも、戸籍取得に動いてくれた弁護士さん、警察、行政の職員にも、何も喋らなかったようだ。

 夜中、時折紗良はひとりで泣いていた。

 悪い夢を見ていたのか、うなされることも多かった。


『大丈夫?』


 佑が尋ねると、紗良は何も言わずに背中を向ける。

 誰にも、何も話せない。

 必死に生きようとする彼女に、一体どんな過去があるのだろうか。

 思ってはいたものの、掛ける言葉が見つからなかった。

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