第59話 疾走
遊びに行ったあの日の記憶を頼りに走りながら、以前京子さんに連絡先を教えてもらったことを思い出し、電話を掛けた。
彼女は無干渉の命令対象外だった。だから今でも俺との連絡を絶つ命令は下されていないかもしれない。
すると思惑通り、通話が繋がった。
その瞬間、挨拶を抜きにして本題へ入る。
「神羅は、神羅はまだ家にいますか!?」
「はい。しかし、やがて転居の準備が終わるので、もう間もなく――」
想像が現実に変わる単語が耳に入ったところで、俺は大声で告げた。
「なるべく長く、神羅をそこに引き留めてください!! どうしても必要なことなんです!! だから、お願いします!!」
「…………かしこましました」
心強い協力を得て、少し気が楽になる。
それでも俺は速度を落とさずに走った。
不幸中の幸いで曇ってはいるものの雨は降っていない。――かと思えば、小さな水滴が顔に当たり始めた。間もなく小雨に変わり、全身を濡らしてくる。
ペース配分なんて無視して全力で走った。
千切れそうな程に腕を振った。
神羅のことだ。引っ越すとなれば何処に行くか見当もつかない。日本を離れるかもしれないし、また世界旅行を始めるかもしれない。
なんなら、今すぐにでも他人の居ない月面や海底に行くと言い出すかもしれない。あいつの【可能性】ならどんな我が儘な願いだって自由に叶えられる。一人で行くなんてずるいんだよ。俺も連れてってくれるって約束しただろうが。
だから、絶対にここで見失うわけには行かない。
走りながら神羅に電話をかける。
だが繋がらない。天使にもかけるが、こちらもだ。
「あのアホ……」
どうせ神羅は引っ越し準備も天使や他のメイドさんに全て任せて、自分はあの豪華なベッドで布団に包まっているのだろう。簡単に想像できる。そういう奴だよ、あいつは。
雨が強くなってきた。
しとしとした春雨が、憤るような勢いの土砂降りになっていく。
まるで近寄って来るなと神羅が言っているようで、彼女を愛する神様が邪魔をしてきているようで――それでも、俺は我武者羅に走り続けた。
髪がへばりつく。
ワイシャツが肌にひっついて、靴の中もぐちゃぐちゃで気持ち悪い。
雨の匂いは嫌いじゃない。薫は他人が悲しんでいると雨の匂いがするって言っていたな。確かに悲しい気分にさせられるけど、そんな感情は置き去りにして走り続けた。
信号で停められたところで、俺は息を切らしながらもう一度スマホを取り出して神羅に電話をかけた。全力で走ったのは久々で横腹が死ぬほど痛いっていうのに、神羅は出ない。
「クソ……!!」
雨が鬱陶しい。スマホもびしょびしょだ。防水加工付きの機種で良かった。神羅は俺と同じ機種だったな、そういえば。わざわざ俺に合わせて買い換えたって言っていたっけ。
いい加減に出ろよ。そっちから連絡先を聞いたくせに。俺が初めてのコネクト友達だったくせに。毎晩通話して他愛ない話で笑い合ったくせに。
嫌々だったわけがないだろうが。俺も毎日の楽しみだったんだぞ。だから無視して逃げようとするな。せめて本当の気持ちくらい聞け。
頼むから、俺に同じ過ちを繰りかえさせないでくれ。
時にマップを確認しながら、電話を掛けながら、俺は走り続けた。
住宅街を抜けて、他の民家が殆どない緩やかな坂道を抜けて丘の上へ。
すると漸く、見覚えのある真っ白な高い外壁が目に入った。その向こう側には趣のある洋館が聳えている。多分三十分も経っていないはずだ。思ったよりもかなり早く着けた。
思わず力が抜けて頬が緩む。だが、まだ安心できない。
気を引き締め直して、外壁に沿って黒いゲートまで走った。横幅五メートル高さ二メートル程の電動式ゲートを攀じ登り、敷地内へと入った。
中は人の気配を感じずに、とても閑静だった。もう行ってしまったのではないかいう絶望感が頭をよぎるが、それを言葉で否定する。
「いや、まだいるはずだ……」
そう信じ、庭園の道を駆け抜けて家の方へと向かった。
果たして――。
視界の先、門と玄関を繋ぐ石畳の道を歩いてくる数人のシルエットが見えた。神羅だ。
大人しい紺色のワンピースを着た陰鬱な表情の神羅が、傘をさす執事服の京子さんに先導され、メイド服の天使に相合い傘をしてもらいながら歩いている。
…………間に合った。
神羅達は俺に気付かぬまま、車庫へと続く分かれ道の方に進んで行った。
微かな躊躇いが生まれたが、俺はぐっと拳を握り込んで迷いを断ち切り、駆け寄った。




