第58話 焦燥感
結局、天使が帰った後も今朝は眠れなかった。
薬を盛られたせいだろうが、身体の痛みや怠さが抜けきっていない。昨晩のやりとりで興奮状態にあったことも影響しているのかもしれないが。
一階に下りて洗面所で洗顔を済ませ、鏡の中の水が滴る自分の顔を見つめた。
気を改めて、昨日の事を思い出す。
今一度考えた。
神羅と天使の関係。
俺と彼女達の関係。
俺達の過去と、俺達の未来。
時刻になり家に出ると、俺の不安を忠実に模したかのような曇り空だった。朝一人でトーストを食べながら見た天気予報では降水確率三十パーセント。降らないといいが。
入学から一月も経って慣れていると、考え事をしていても無意識に学校へ着けていた。
校舎に入り、階段を上り、教室の引き戸を開ける。
薫を始めとするクラスメート達は、教室に入ってきたのが俺だと認識すると、昨日の一件などなかったかのように顔を逸らした。やはり無干渉の命令は解除されていないようだ。
当の神羅は居ないが、それはいつも通りだ。神羅と天使は毎日、始業時刻の予鈴が鳴る直前に登校して来る。
俺の方が早く学校に来て、教室窓側一番後ろの三連結された机、一番左の席に着いて呆然と過ごしていると、煌びやかな制服の神羅とメイド服の天使が教室に入ってきて、彼女達とだけ挨拶を交わす。
その繰り返しが、俺にとっての日常。
そうだ。
俺にとって既に二人は日常に欠かせない存在になっている。
だからこそ今日は、隣の二席が埋まっていないことが嫌に気になる。
教室後方の戸が開く度、それが神羅ではないかと思って目をやってしまう。
いつ来るんだ。
学生の本分を無視して、いつも自由奔放すぎるんだよ、あいつらは。
焦れったい気持ちになり、人差し指で机をトントンと叩いて貧乏ゆすりしながら待っていると、やがて予鈴が鳴って吉田先生が教室に入ってきた。
神羅は当然のように遅刻はするが学校を休んだことは一度もない。だから、昨日あんな事があったけれど、今日もきっと天使が上手く説得して連れてきてくれるはず。
そう信じて、待つことにした。
そして一時間目の日本史の授業が開始するも、神羅はまだ来ない。
段々と不安と苛立ちが募って、自然と机を叩く貧乏ゆすりが早くなる。
そこで頭の中にふと嫌な予感が過って、俺は目を見開いた。
――もし神羅が、もう俺と会う気がなかったら?
俺は言った。消えてくれと。
神羅は俺に愛されるために高校へ入学してきた。なら、俺に拒絶された以上、高校に通う意味も、苦い思い出の残る地元に残る意味も無くしたことになる。
あの性格の神羅だ。きっと決断したら、一刻も早く、二度と俺の顔を見ないですむ場所に姿をくらますことだろう。もしそうなれば全て終わりだ。
世界から無視されるこの現状は、屑な俺に相応しい罰として受け入れられる。
でも、それでも、神羅に謝れないまま別れるのだけは、絶対に嫌だ。
そこでスマホが震えた。
画面を見ると、神羅からのコネクトメッセージだった。
『さようなら』
その一言を見た瞬間、空模様のように濁りが渦巻いていた意識が急速に明瞭になり、肌が粟立っていく。
すかさず音声通話を掛けるが、繋がらない。
俺は迷いなく立ち上がり、そのまま教室を飛び出た。
全力で廊下を猛ダッシュした。階段を踊り場から踊り場へと飛びながら一気に降りて、昇降口から弾丸のように一心不乱に外へ出た。
天使にもコネクト通話をかけるが繋がらない。
その事実が、より一層俺の不安を駆り立てた。
神羅家の住所は以前遊びに行った時に調べていたから、高校からの道順も理解している。距離は約八キロ。そこそこの遠さだ。
だがタクシーには乗れないし、バスは方角が違うし、自転車を借りることもできない。なによりも、悩んでいる時間がない。だから、走るしかない。
俺は迷いを振り切って全力で駆けだした。
八キロ。休まずに全力疾走すれば三十分もあれば着くはず。
「きっと間に合う……!!」
自分へ信じ込ませるために言葉を口にしながら校門を出た。




