第4話 万象神羅
「全員、私を愛しなさい!!」
その言葉を合図に、辺り一面から轟音が響いた。
「「「神羅様あああああああああああああああああああああぁ!!!!」」」
耳が劈かれて、俺は思わず身を縮めて両耳を塞いだ。
全員が立ち上がり、絶叫していた。
新入生と在校生を含めた全生徒だけじゃない。教員も、スタッフも、今この場にいる人間全員が――千を超える人々が狂喜乱舞で叫び声を上げている。
視線を左へ向けると、俺の隣にいる薫も正気を失ったかのようにステージ上の少女へ愛を叫んでいた。常日頃からテンションの高い薫だが、これは常軌を逸している。
「アイドル……か……?」
神羅様とやらへ視線を戻す。
ステージ上で歓声を浴びる彼女は、確かにそこらの芸能人と比較しても遜色の無い美少女だ。俺達と同学年のモデルなり俳優なりが実は入学していたというサプライズの線はある。
だが、万象神羅なんて名前は一度も聞いたことがないし、見たこともない。
それに、もしアイドルだったとしても普通ここまでなるか?
「…………異常だ」
声が振動になって身を貫き、気を抜いたら意識が飛びそうになる。
そう思うと同時、万象神羅はどこか嘆き呆れるような表情で「静かにしなさい」と告げた。瞬間、ミュートボタンを押したかのようにピタリと声が止んだ。
立ち上がっていた生徒達が何事も無かったかのように腰を下ろし、体育館内が急激に静寂に包まれるが、俺はまだ耳鳴りがキンキンと響いていた。当の神羅様はアリーナの俺達を見下ろして何かを確認しているようだ。
俺は頭痛に顔を歪めながら、薫に問いかけてみた。
「な、なんだったんだよ、今の」
すると薫は、普段と変わらない何食わぬ明るい表情で応えた。
「今のって?」
「だから、なんであんな大声を出したんだよ」
「だって神羅様が見られたから、つい」
「神羅様って……あいつ、そんなに有名人なのか? 初めて見たぞ」
「私も初めて見たよ。すっごく綺麗だよね」
「は!? 何言ってるんだお前」
「結人こそ、何言ってるの?」
「だから、あいつは誰なんだよ!!」
「神羅様だよ?」
「…………」
マジで意味が分からない。
支離滅裂で会話が成り立つ気がしないが、薫は決してふざけているわけではないようだし、真面目な話をする時とネタに走る時の分別くらいつけられる人間だ。
眉を顰めて訝しんでいると、肩を叩かれた。
「ほら、神羅様が何か説明してくれるみたいだよ」
前を向くよう促されて顔を上げる。
ステージ上で神羅がパチンと指を鳴らした。
それを合図に全ての高窓のカーテンが閉まり照明が落ちて、真紅のスポットライトが彼女を照らす。巨大なスクリーンが上から降ろされ、スライドが表示された。
赤が基調のスライドには柔らかいフォントでデカデカと『神羅様との愛に関するお約束』とタイトルが書かれており、右下には彼女自身をデフォルメ化した二頭身の可愛いイラストがぴょこぴょこ動いていた。
ご丁寧に『神羅様ちゃん』なんて名前の補足付きだ。様なのかちゃんなのかはっきりしろ。
呆気に取られていると、設置されていたマイクを手にした神羅が真剣な表情で告げた。
「注目! 今後私と接する際の注意事項よ。たまに空気を読めない変な奴がいるから、詳細なルールを説明しておくわ。これから言う事は絶対に守りなさい!」
スライドが入れ替わる。
「一つ目、私の全ての言動を受け入れなさい! 私が居る場所では私がルールよ。二つ目、私に干渉するのはやめなさい! 付いてきたり、挨拶してきたり、褒めてきたり、私の話をしたり――鬱陶しいのよ。三つ目、私を性の対象にするのはやめなさい! 私のことをエッチな目で見るのは禁止!! 絶っっっ対に禁止だから!! 小学生の時なんか、目が合った男子がいきなり目の前でズボンを脱ぎだして……うっ、思い出したら吐き気が……。と、ともかく変なことは全部禁止! 四つ目は――」
解説にあわせて、アニメーション付のデフォルメイラストと共に無駄に凝ったスライドへ文章と補足事項が次々と表示されていく。
俺はお約束の三つ目までしか頭に入ってこなかった。そこで思考が途切れた。
いや、ある考えが浮かび上がってきた。それも殆ど確信だ。
こんなにも無茶苦茶な状況だというのに、誰一人としてあの少女に異議を唱える者がいない。それどころか、誰もが無言で当然の如く彼女の言葉を受け入れている。
異常だ。普通じゃない。あり得ない。
そうだ。これはさっきバス内で懸念していた事象、【可能性】による洗脳行為だ。
それを理解した途端、激しく拍動するのを感じた。みるみる心臓の鼓動が早くなっていく。
ただそこに居るだけで千を超える人間に影響を及ぼして精神を支配できる【可能性】なんて今まで聞いたこともないが……しかし、彼女が判明者であることは間違いない。
きっと万象神羅は、他人へ命令を下せる類いの【可能性】なのだろう。
先程から「愛」というワードを頻繁に使用しているから、その単語を聞かせることが条件の発動型かもしれない。
困惑した俺は、薫に視線を移した。
薫は食い入るように神羅のスライドを凝視し、彼女の言葉に耳を傾けている。
「薫……?」
「…………」
声を掛けても一切俺に反応を示さなかったので、両肩を思い切り揺さぶった。
「おい、しっかりしろ薫!!」
それでも薫はこちらを見向きもしない。目に光は宿っているし呼吸や瞬きもしているが、意識を釘付けにされたようにスライドに見入っている。最初に神羅が言った「注目」という言葉に従っているのだろう。
精神が錯乱しているのは明らかだった。
強いデジャヴを感じた。
小学生時代、そして中学生時代――あの【可能性】の影響で本来の意思を、感情を、自分を失ってしまっていた彼女達の姿が脳裏を過った。
「ッ…………!!」
急激に動悸が高まり、怒りと吐き気が込み上げてくる。
万象神羅が何を目的に何故この学校へ来たのかは知らないが、俺はもう他人の心が【可能性】で捻じ曲げられてしまうことに耐えられなかった。
スライドには約束の九個目『私と関わる際は崇め過ぎないようにしなさい! 逆に気分が悪いので注意。適度な尊敬と忖度を忘れずに!』なんてふざけた命令が記されている。
舐めてんじゃねぇぞ。
俺はその場で立ち上がり、ステージに立つ少女へ激情のままに怒鳴りつけた。
「いい加減にしろ、お前!!」
「…………へ?」
スクリーンを見上げて傲然と約束事を語っていた神羅が、振り返ってこちらを見た。
天から白いスポットライトが俺に降り注ぐ。あまりの眩しさに一瞬目が眩み、腕で目元を隠した。いったい誰が操作しているんだ。
目を細める俺に浴びせられたのは光だけではなかった。
神羅の視線に合わせるように、体育館内に居る全員の注目が俺に集まっていた。まるで神羅の指示を待つかのようだ。
とんでもない無言の圧力がかかり体が竦みかけるが、その現象こそが俺の行動が間違っていないことを証明している。
「お前が【可能性】で皆のことを操っているんだろう!! 今すぐやめろ!!」
「あ……あんた……なんで……」
神羅が溶鉱炉のように朱く燃える瞳を丸くして、唖然と俺を見据える。
そして僅かな間を置いて、焦りを露わに命じた。
「そ、そいつを、こっちに連れてきなさい!!」
「なに……!?」
その言葉と同時、体育教師と思わしき魁偉な体格の厳つい男性教師が二人、俺の席へと全力で走って来た。
二人は一切の躊躇なく全力で俺の両腕を拘束するように掴み、俺は抵抗むなしく引き摺られアリーナ最前の空けたスペースへと放り出された。
体育教師達が元の位置へと戻っていくのを横目に俺は立ち上がり体勢を立て直す。
一体何をするつもりなのかと壇上に立つ神羅を強く睨みつけると、彼女は地球外生命体にでも遭遇したかのような目で、食い入るようにジッと俺のことを見下ろしていた。
すると一瞬、神羅が心から嬉しそうな笑みを浮かべた。留守番をしていて飼い主が帰ってきた時の犬のように、それはとても純粋な笑顔に見えた。
かと思うと、神羅は直ぐに元の自信満々で嘲るような表情へと戻った。
「い、居眠りでもしていたようね……! いいわ、もう一度直接命じてあげる!」
スウッと息を吸い込み、俺の目を見て告げた。
「私を、愛しなさい!!」
言葉と同時、神羅の虹彩が一際強い光条のような輝きを発したように見えた。
愛しなさい――。
やはり万象神羅の【可能性】は、他人に彼女への愛を強制し、命令に従う愛の虜と化す力のようだ。常人であれば決して抗うことのできない言葉なのだろう。
周囲の人々は、あの少女への愛を以て俺達の動向を無言で見守らされている。
だが、どれ程恐ろしい精神支配の【可能性】であろうとも、俺には効力をなさない。
「…………俺はもう誰も愛さないと決めたんだ」
強い意志で答えると、神羅の表情から高慢しきっていたような不敵な笑みが消えた。
呆気にとられた表情でたじろぎ、微かに身を引いて震える声で問いかけてくる。
「な、なんで……なんで私の【可能性】が効かないの……!?」
納得できないと目で語り、その虹彩が怒りを表現するかのように真紅の輝きを増す。
そんな彼女の問いへ、俺は凛然と答えた。
「俺の【可能性】は【絶対拒否】。他人の【可能性】の影響を一切受けないんだよ」
「ぜ、絶対、拒否……!?」
「そうだ。だからお前の【可能性】も俺には効かない。愛だかなんだか知らないが、俺の心は絶対に操れないぞ。分かったら直ぐに皆の洗脳を解け!!」
神羅は俺のようなイレギュラーの存在は予想していなかったのだろう。困惑に満ちた表情で冷や汗を流しながら、ぐぬぬと俺を睨み付けてくる。
のはいいが……どうする……?
衝動的に動いてしまったが、俺以外の人々が神羅に心を操られているのは間違いない。もし「その男を殺しなさい!」なんて命令されたら、俺はマジで殺されるんじゃないか……?
非常口と逃走経路を横目で確認して逃げるための心の準備をしていると、神羅は俺を指さし、顔を真っ赤に染めて言い放った。
「お……覚えていなさい……!! 絶対に、私を愛させてやるんだからっ!!」
自分の【可能性】を否定されたのが余程悔しかったのか、目を潤わせた神羅は焦りを露わに壇上から駆け下りると、キョロキョロと辺りを見回して一番近い出口へと走った。
かと思えば、途中で足を躓かせて勢いよくすっ転んだ。
「ギャッ……!!」
間抜けな声を出したが、怪我はしなかったようで直ぐに起き上がり、俺と目が合う。すると神羅は何かいいたげな表情で俺を見つめた後、猛ダッシュで姿を消した。
神羅の姿が見えなくなった一瞬後、静まり返っていた体育館内の空気が一変した。
止まっていた時計の秒針が再び時を刻み始めた感覚。
皆が正気に戻ったみたいで、ざわざわと辺りから声が聞こえてきて、俺は強張っていた全身の筋肉が弛緩していくのを感じた。
のも束の間、
「お前、そんな所で何をしてる!!」
「……はい?」
立ち尽くす俺の元へ、先程のゴツい体育教師の二人が再び駆け足でやってきた。
「今は入学式の最中だぞ!! 勝手に席を立っていいと思っているのか!!」
「いや、あんたらに無理矢理連れてこられたんだが!?」
「言い訳をするな!! その反抗的な目はなんだ!!」
「目つきは元からだよ!! 痛っ! わ、分かったから引っ張らないでください!」
――そして俺は体育館の脇へと再び力尽くで引き摺られ、学生証を確認され、叱られた。
俺は万象神羅の存在と教師の行動を咎めたが、それは無駄だった。
どうやら、神羅に関する出来事は全て当然のように受け入れられ、マインドコントロールされているという事実は理解不能らしい。
彼女の存在自体が愛によって保護され、彼女の命令による行動は愛を以ての正当な行いだと、そういう風に認識している。
神羅の【可能性】は世界を掌握してもおかしくない程に強力な力だった。
それを理解した俺は、大人しく謝罪して反省の意思を示すことで解放してもらえた。
神羅の出現など無かったかのように壇上のスクリーンは収納され、入学式の進行に戻って来賓の祝辞が行われる中、俺は薫の隣へと戻った。
「結人、どうしちゃったの? 大丈夫?」
「ああ……良かった、薫も元に戻ったか」
安心し、ホッと安堵の息をついて椅子に腰掛ける。
「愛しの神羅様に怒鳴りつけるなんて、おかしくなっちゃったのかと思ったよ」
愛しの神羅様……。
俺は薫の心へ訴えかけるため、彼女の肩へ手を置いて正面から見つめて言った。
「いいか、よく聞け薫。さっきスクールバスで話していた事態が起きているんだ。お前達全員、万象神羅の【可能性】の影響を受けているんだよ。そもそも神羅様っておかしいだろ? 初めて見た他人だろ? お前は人の事を様呼ばわりするような人間じゃないだろ?」
「だって、そうしてほしいって神羅様が……。結人も結人様って呼ばれた方が嬉しい?」
「いや、そうじゃなくてだな……」
「結人、さっきから変だよ? 大丈夫? おっぱい揉む?」
「揉まねぇよ!! もういいよ!!」
自分の胸を掬い上げるように揉む薫を見て、ドッと力が抜けた。本当は全て忘れて胸でも揉んでいたい。薫なら土下座して頼めば本当に揉ませてくれそうだし。
にしても、神羅も新入生のようだし、「覚えていなさい」などと捨て台詞を残していたし、きっと今後も学内で出会う機会があるだろう。一体彼女は何を企んでいるのだろうか。
彼女の力を俺はどうしても許せず、見過ごすことができなかった。
「万象神羅、か……」
こうして俺は出会った。
全人類に愛される力を持ちながら、どうしようもなく愛に飢えた少女に。




