第39話 幻影
「おい、大丈夫か……?」
「…………」
ゆっくりと上半身を起こした神羅は答えず、その場にペタンと座り込んでむくれた表情を見せた。何故か俺と目を合わせようとしない。連続ミスしたことが恥ずかしいのかもしれない。
そんないじらしい姿がなんだか可愛らしくて、俺は敢えて挑発してみることにした。
「まさかここまで超絶下手糞だったとはな。ボールに触れることすらできないのに、よく勝負なんて挑めたもんだ」
言うと、俺の思惑通り神羅は顔を真っ赤にしてキッと睨め付けてきた。
「う、うるさいわね!! 仕方ないでしょ、テニスなんて殆どやったことないんだから!! 他のスポーツだったら私が勝ってたのよ!!」
そう怒る神羅は、かつて公園で出会った金髪碧眼の少女にとてもよく似ていた。
「俺だって殆どやったことないんだ。条件は同じだし、俺は一ポイント取られたら負けなんだから神羅の方が有利だったろ」
「う…………」
あの時はこんな風にからかって、怒られて、コツを教えてあげながら遊んだんだっけ。
「そんなんじゃ試合にならなそうだし、勝負はコールドで俺の勝ちでいいな?」
「………………」
「じゃあ約束通り、言うことを一つ聞いてもらおうかな」
「………………好きにしなさいよ」
神羅が悲しそうに目を伏せた。
その姿は、欅の木の下で落ち込んでいた少女と瓜二つだった。神羅の後ろに、あの少女の幻影が見えた気がした。
だから、だろうか。
俺はあの時と同じ言葉を出してしまった。
「遊ぼうぜ、普通にさ」
「え……?」
勝負に勝ったら神羅の束縛から解放してもらおうと思っていたはずなのに、自然とそんなことを口にしていた。
「勝負とか抜きにして、ただ楽しむんだよ。基礎から教えるからさ。ボール打ち返せるようになったら、きっと気持ち良いぞ」
俺がエロい命令でもすると思っていたのだろうか。
提案に目を丸くした神羅は、静かに微笑んで頷いた。
「…………うん」
そうして俺は神羅と、何故か一緒に習おうとする天使に、ティーチングすることになり。「腕だけを振るんじゃなく上半身を一緒に動かすんだ」「力み過ぎないでリラックスして振り抜くんだ」なんて、聞き齧った知識を元に教えてあげた。
言っても全く理解してくれないので仕方なく身体に触れながら、文字通り手取り足取り。
本来なら逆の立場で俺が薫に教えてもらうはずが、どうしてこうなった。
神羅がなんとかフォアハンドでならボールを前に飛ばせるようになったら、緩くラリーを楽しむことに。天使は審判席が気に入ったらしく、またそこに収まっていた。
丁寧に教えた甲斐あって、神羅はふわっとした遅いボールでならコート内に打ち返してこられるようになった。
短時間で成長しているから、言うほど運動神経は悪くなさそうだ。
まったりラリーをしながら俺は向こう側にいる神羅へ言った。
「上手いじゃないか」
「当然でしょ、私を誰だと思ってるのよ! もっと強く打ってきなさい!」
自信を取り戻したのか、神羅はとても楽しそうにいつもの勝ち気な笑顔を見せていた。
「無理するなよ。また顔面に当たるぞ」
「当たらないわよ! 打ち返してあげるから、そしたら私を愛しなさい!!」
「……よし。じゃあ、少しずつ速くしていくぞ!」
相手の望み通りに、俺は一球毎に段々と打ち返す際の力を強めていった。すると意外にも神羅は食らい付いてきていた。
が、威力を上げていったが故に俺はコントロールを誤り、意図せずレフトサービスコートに打ち返してしまった。
それを見た神羅は慌てて左へと駆けて慣れないバックハンドで打ち返そうとしたが、足をもつれさせて転倒してしまった。
不幸中の幸いで顔から地面にダイブはしなかったみたいだが、膝を抑えている。
俺は条件反射的に審判席を見る。が、
「あいつ、どこ行った?」
気がつけば天使の姿がない。
ついさっきまで確かに審判席に座っていたはずだが。
何が起きても責任を取れと言っていたのはそういう意味か。
俺は天使の意向を汲み取り、再三倒れている神羅の元へ。
「ごめん神羅、わざとじゃないんだ。大丈夫か?」
跪き、返事をしない神羅の肩に手を置いて怪我がないか確認する。
右足膝に擦り傷があるが血は出ていないようだ。一安心だが、俺のせいで女子が怪我をしたとあっては軽傷といえども放っておくことはできない。いや神羅が勝手に転んだから俺のせいじゃないかもしれないけどさ。
「保健室行くぞ。歩けるか?」
神羅は俯いたまま無言で首を横に振った。
そんな泣きそうな目をするな。本当に申し訳なくて胃が痛くなってくる。
「おぶってってやろうか?」
また首を横に振られた。
どうすればいいんだ。
逡巡したが、一つしか解決策が思いつかなかった。
俺は片膝立ちし、神羅の左腕を取って俺の首にまわさせ、膝に座らせた。そのまま背中と両膝の裏に手を回して、力を込めて一気に持ち上げる。
そうして、呆然とする神羅を強く抱きかかえた。
まさかお姫様抱っこなんてする日がくるとは思わなかった。
恥ずかしくて死にそうだ。穴があったら入りたい。誰か俺の墓を掘って殺して埋めてくれ。
当の神羅は何が起きているのか分からないと言った様子で、俺の顔を見ている。
「保健室、行くぞ」
「…………うん」
放せと言われるかと思ったが、神羅は借りてきた猫みたいに大人しくて素直だった。俺の服をぎゅっと握りしめ頭を肩へ預けてくるので、身体の火照りが直に伝わる。
汗をかいているはずだが、良い匂いしかしてこないから不思議だ。
太股も腕も背中も押しつけられている胸も、全身が大福みたいに柔らかかった。




