第18話 等価交換
はっきり言って、神羅は馬鹿だ。
どうしようもないくらいのお馬鹿だ。
知能指数的にはなんとも言えないところだが、偏差値で示せば十もないんじゃないだろうかと思えるレベルだ。
神羅は先天性の【私乃世界】持ちで産まれてからずっと全人類に愛されて育ってきたお嬢様らしいので世間知らずという面は仕方ないにしても、まさかここまで学力が低いとは思わなかった。
中学校に不登校だった神羅の学力レベルは小学校低学年で停滞している。
さっき「百かける百は?」と聞いたら、指を折りながら一度悩んだ後にドヤ顔で「十万ね」と答えられた。俺はかけ算の概念を知っていたので褒めておいた。
そんなアホの子の神羅は、俺に愛させるためという名目で授業中に無駄にくっ付いて話しかけてくる。
可愛い女子にボディタッチされたり甘い香りが漂ってくると、いくら女子への免疫があっても集中できないものはできない。普通に興奮する。
でも無視すると騒ぐから雑談するしかなく、教師の話も頭に入ってこない。
そんなわけで一時間目終了後の休み時間。
俺は校舎一階の本屋で複数の教材を購入し、教室へ戻って神羅の机の上に叩きつけた。驚いた神羅が買ってきた教材の一冊を手に取り、目を細めてタイトルを読む。
「『小学校の算数を完全おさらい。猿でも分かる計算ドリル』……って、何これ?」
「神羅、はっきり言ってお前の学力はチンパンジー並みだ。理解できないから授業にも集中できないんだろ。授業中はこれで勉強して大人しくしていてくれ」
「なんで私がこんな物……。それに勉強したら話せないし、私を愛せないじゃない! なんのために学校に来てると思ってるのよ!」
それはこっちの台詞すぎる……。
「いいか、俺は神羅と違って将来は不安だらけで学歴が必要なんだ。だから勉強を邪魔されたら誰かを愛してる余裕なんてないんだよ。愛されたいならお前も静かに勉強しててくれ。分からないところは教えてやるから」
「う……。じゃ、じゃあ勉強するから、私を愛しなさい!」
――というわけで、今は数学の授業中。
俺は数式を解いていて、神羅は算数ドリルを解いていて、天使は一切微動だにせずに綺麗な姿勢で先生の板書を見つめている。
「見なさい結人、分数の足し算問題解けたわよ! 私って天才ね」
「あぁ。凄いな」
「でしょ!? 約分と通分についてなら何でも聞いてきていいわよ」
「あぁ。そうする」
「私を見直しなさい、そして私を愛しなさい!!」
定期的にドヤ顔で正解を報告してくる神羅が嬉しそうでなによりだ。このまま俺の知らない何処かへ行って勝手に幸せになってくれと切に思う。
俺は神羅の将来を思いやりながら黙々と問題を解いていたのだが、うっかり単純な計算ミスをしたことに気がついたので、消しゴムで数式を消していく。
右手で消しゴムを前後に動かす前後運動の途中。ふと、背後に気配を感じた。手を止めて肩越しに振り返ると、真後ろの零距離に全身黒白のメイドが立っていた。
「天使、いつの間に」
椅子を動かす音も足音も一切しなかった。
まさか分身しているのではないかと神羅の右方を覗き込むが、しっかり空席だ。瞬間移動でも使ったのだろうか。万能メイドを自称しているものの、やってることは忍者みたいだ。
と考えながら、幼げながら色気のある整った顔を見やる。
紫色の光沢ある大きな目が俺をジッと見つめている。神羅とはタイプの異なる美人。秀美だが感情が薄くて体は小さくて色素は薄くて、まさにドール人形そのもの。天使と言うよりは、叡智を現すソフィーとかの名が似合う印象。
そんな天使が、左腕で手刀を作った。
「何して――」
ドゴッ!!
問いかける寸前、天使は俺の右腕肘先端の関節部分――ファニーボーンへと全力でチョップを当ててきた。骨への打撃音が響き、一瞬にして燃えるような痛みが右腕を包み込む。
「ぐあああああああぁ!!」
俺は授業中だということを忘れて大声を上げた。
思わず右手で掴んでいた消しゴムを手放してしまい、教室をコロコロと転がっていってしまうが、そんな事は気にしている余裕も無く右腕を抱えて悶えた。
ジンジンとした痛みと痺れの波紋が広がり、机に額を叩きつけて歯を食いしばる。
だが当然、授業中に騒ぐ事など許されず――
「そこ、静かに!!」
「ぐっ……すみ……ません……」
眼鏡の中年男性教師に俺だけ怒られた。相変わらずの理不尽っぷりだ。
教師からの心証と右腕を傷つけられた俺は、後ろのメイドに小声で怒鳴りつけた。
「お前、いきなり何すんだよ!!」
声を抑えて半分キレ気味に問いかけたが、天使は答えなかった。それどころか俺を痛めてつけて楽しかったのか、フっと加虐的な笑みを浮かべて見下してくる。
それを見た俺は、腹部のあたりがキュンとして、なんとも言えない気持ちになった。
少し気持ち良い……のか……?
可愛い天使にもっと嬲られたい……のかもしれない。
なんてマゾヒズムへの扉が開きかけたが、強引に扉を閉めて鍵を掛ける。
俺の新しい性癖を開拓しかけたことに満足したのか、天使は自分の席に戻って座った。
意味が分からない。
俺は別に天使に何もしていない。迷惑もかけていないし、変な目で見たこともない。それとも素直に神羅を愛そうとしない俺への怒りだとでも?
「なんなんだよ……」
全く心当たりがない不当な暴力を唐突に浴びせられた。
しかも愛用している消しゴムがどっかいっちゃったし。拾わないと。
腕を摩りながら立ち上がろうとしたら、神羅が俺に左手を出して制止してきた。
「……今度はなんだよ」
相手にするのが面倒くさくて邪険に扱うも、神羅は口端を柔らかくつり上げた。俺の右手を取り、暖かく柔らかい掌で包み込むように優しく覆い被せられる。
「はい、これ」
何かと思うと、さっき落とした消しゴムを渡された。
俺が痛みに悶えている間にコソコソと床を這って何かをしているのは見えていたが、どうやら消しゴムを拾ってきてくれたらしい。
意味が分からず疑問符を浮かべていると、神羅はうっとりとした笑みを浮かべて言った。
「拾ってあげたんだから、私を愛しなさい?」
「なんで!?」
「男は消しゴムを拾ってくれる女の子に惚れちゃうんでしょ?」
「惚れねぇよ!! どんな理屈だよ!!」
「はぁ!? だめだってよ、天使!!」
「何故でしょう。童貞男子高校生は誰しも授業中に落とした消しゴムを笑顔で拾ってくれる優しい女子に惚れてしまうというデータがあるのですが。おかしいですね」
「おかしいのはお前らの頭だ!!」
「静かにしろ式上!!」
「…………すみません」
どこの漫画の話をしてんだよ。今時ベタすぎてそんな展開あるわけねぇだろ。
そんな根も葉もない嘘を実証するためにファニーボーンへ容赦の無い一撃を食らわせてきたのか。自演にも程がある。まだ腕がヒリヒリするぞ。
もう相手にするだけ内申に響くだけだと思ったので、文句は休み時間に言うことにして気持ちを切り替えた。
マジで腕が痛い。
可愛い天使にやられたと思えばまだ我慢できるけど。
消しゴム拾得作戦に失敗した神羅は、天使と何やらヒソヒソ話をしている。また何かしょうもない愛される作戦を企んでいるのかもしれない。気になるが無視だ。
問題を解き直さなくちゃ……。
クソ、もう解説フェーズの後半だ……待ってくれ……。
追いつくために集中してノートを取る。
シャーペンを掴む腕が痛みで熱い。
そこで神羅が、ガタッと音を立てながら席をこちらへ動かして身を寄せてきた。
今度こそ冷静に対処しようと警戒すると、神羅は心配顔で耳打ちしてきた。
「さっきの、痛かった?」
「当たり前だろ。お前もやられてみたらどうだ」
「じゃあ……痛み、和らげてあげる」
そう言って、胸を俺の肘へ押し当ててきた。
「なっ……!!」
神羅が恥ずかしがりながら、患部を撫でるように胸をなすりつけてくる。
でかい。柔らかい。揉みたい。
宣言通り、柔和な感触により痛みを感じなくなった。これ以上ないほどに効果抜群な荒治療。痛覚は彼方へ飛んで消し去られていた。
心地良さから我を忘れかけたが、直ぐに理性が戻った。
露骨なアピールだが、これは神羅の作戦でしかない。
それを思うと、愛に執着する彼女への哀れさが込み上げてきた。好きでもない男にここまで体をはって色仕掛けをするなんて間違っている。
それに、このままでは利き腕を拘束されてノートも取れない。
高校生になったばかりで授業に置いて行かれるわけにはいかないんだ。少年時代を棒に振った俺は、勉強にも遊びにも全力で取り組んで、一ミリも悔いの無い高校生活を送ると心に誓ったから。
「も、もういいだろ。放してくれ」
「放してほしかったら、私を愛しなさい」
「嫌だ。どけ」
「胸まで当ててあげてるんだから、大人しく私を愛しなさい!」
更に強く押しつけられた。
あっ……もうね、好き。けど抗う。
「自分でやっといて偉そうに言うなバカ。邪魔だって言ってんだろ。鬱陶しいんだよマジで」
「なっ……なによその態度っ!! 私のおっぱいじゃ満足できないってわけっ!?」
「俺は授業に集中させてくれって言ってんだよ!!」
「ゴラアアアァ!! 静かにしろって言ってるだろ式上いいいぃ!!」
「…………すみません」
再び不条理なお叱りを受けた俺は、その後職員室に呼び出されて説教された。
腕は痛いし、消しゴムは落とすし、ノートは取れなかったし、先生には怒られるし。散々な思いをさせられた。
それらの代償として得られたのは、神羅の胸の感触。
…………等価交換、ということにしておいてやろう。




