表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/15

蓮人君の過去とトレーニング

 迷えるだけの選択肢があることを喜べ。

 秀男さんからの言葉を受けてから、私はずっと考えていた。私には迷うだけの、戻れるだけの場所があるんだ。お父さんを許し、自分の心の有り様をなんとか確立出来れば、私はまた大学に通い普通に生活していけるかもしれない。

 一方で、この町に溶け込み、このまま生きていきたいと思う自分もいる。ただ、秀男さんはこの町は毎日が日曜日だと言った。お祭りの止まない町はどこか幻想めいていて、世界から現実味を奪っていく。

 それがしあわせなことなのはわかる。ただ、それがゴールなのだと秀男さんは言う。

 ゴールの先には、何もない――とも言った。

「この町でゴールしちゃ、いけないのかな。毎日が日曜日では、おかしくなってしまうのかな。だけど、ここにだってキチンと暮らしはある。それは未来じゃないの?」

 わからなかった。でも、この町で暮らす以上、この町を越える何かが起きることはない。

 それだけは分かった。現実から、切り離された町。私は今、そんな世界に生きている。

「オレは今日から三日間、昼間は親方のとこで働くから留守にするぞ!」

 いつもと変わらぬ朝食の間に、秀男さんが言った。

「あら、秀男さんお仕事ですか?」

「おう、たまにゃあ飲みに行きてぇし、家賃だってあるからな。しっかり稼がないと! 親方んとこでガツンと稼げば五日もありゃあ充分だ! そんじゃ、ごっそさん! 行ってくる!」

「いってらっしゃーい……。秀男さん、あっという間に行っちゃった」

 ゆっくりとご飯を食べていた蓮人くんが、お茶碗を置いて言った。

「秀男さんは、この町の大工の親方と仲が良いんだよ。よく日雇いで雇って貰ってるんだ。秀男さんはバカ力でな、普通ふたり掛かりで持つような重いものもひとりで担いでドンドン動くから、親方も気に入ってな。給料も相当良いらしいぜ」

「へぇ、蓮人くん詳しいのね」

「たまたま外出したときに、秀男さんが働いてるとこを見たんでな。まぁ、いろいろ聞いてみたってワケ。こうやって金に困ったら働くのが秀男さんのスタイルってことだな」

「この間、秀男さんが自分のことを風来坊って言ってたけど、ホントそんな感じなんだね」

 食器を片づけて、洗い物を済ませる。蓮人くんはさっさと部屋に戻って行った、きっとネットゲームが忙しいのだろう。

 今日は増宮米店でのアルバイトもお休みだ。私は秀男さんに言われたことを頭の中で整理しようと、中央公園に向かった。

 中央公園では、正午から始まるお祭りの準備に忙しかった。彼らも皆、もうゴールしてしまったひとたちなのだろうか。でも、その先にある生活は紛れもない現実だ。楽しいけど、代わり映えしない、お祭りの日々。

 楽しいが詰め込まれたようなこの町を、秀男さんは毎日が日曜日だと言った。

「なんとなく、わかる気もするんだけど……」

 出舞台を見つめる。あそこで太鼓を叩いた日々が、遠い昔のように感じられた。

 私がもとの暮らしに戻れば家族、大学、いずれは社会人になって働いて、恋愛もして結婚もするかもしれない。だけどそれが、ここでは出来ないのだろうか。出来たとしても、未来はないのか。この町は、この社会は、ここで途切れてしまっている。

 裏御神楽町から先はない――。

 だけど、裏御神楽町の日々はある――。

 社会から切り離されたこの町は楽園なのか、それとも――。

「私はまだ、ここに来るのは早すぎたのかな……秀男さん」

 わからない。わからない。迷いばかりが募る。

 迷えるだけの選択肢があることはしあわせなことなのか、私には判別出来なかった。

「いっそ、何もかも捨ててしまえば。楽しい毎日に、溺れてしまえば……」

 お父さんはどうなるのだろう。お母さんだってどうするだろう。

 ふたりをここに呼ぶことが出来たならどんなに良いか。

 ふと、公園の外れにいつもの輪投げ屋さんを見つけた。相変わらず、店のおじさんは帽子を目深に被っていて顔が見えない。

「おじさん、輪投げ一回」

「はいよ、五十円ね」

 今日こそ、真ん中の当たりに輪を通してやる。

 狙いすまして投げた輪っかは、しかし真ん中より一個上の棒に引っ掛かってしまった。

「はい、ハズレはキャンディーだよ。どうぞ」

「ありがとうございます」

 懐かしい味がするいつものキャンディー。私はどこかでこれを舐めた記憶がある。

 私の意識を現実に引き戻すような味。小さなころ、お祭りでこうして輪投げをして――。

「海、見たいな」

 蓮人くんのくれた地図によれば、運動公園のそばには海もあったはずだ。

 私は迷いが晴れないまま、海を目指して運動公園に向かった。

 運動公園は中央公園から増宮米店を通り過ぎて、さらに奥まったところにあった。

 そばまでいくと、波の音が聞こえてくる。やはり海が近いのだ。

「いいなぁ、波の音。いっつもお囃子聞いてるから、なんだか新鮮!」

 私の迷った気持ちまで洗い流してくれそうな音に、私は運動公園に入っていった。

 中にはアスレチックやタイヤを地面に埋めて半分だけだした遊具、懸垂に使う棒など運動公園という名前にピッタリの物がそろっていた。

 海のそばは砂浜になっていて、砂遊びやバーベキューも出来そうな広い場所。

 私は靴に砂が入らないように注意しながら、波打ち際まで向かう。

「海、懐かしいなぁ。どこかゆっくり出来るところがあると良いんだけど」

 砂浜に直に座ったら服が汚れちゃうし……運動公園には来たけれど、私の服装は運動にはまったく向かないワンピースなのだ。

 しばらく浜辺を歩いた後、運動公園のタイヤに腰掛けた。

 ぼうっと海を眺めていると、悩み事まで流してくれそうで良い気持ち。

 と、そこに若い男のひとがふたり、ニヤニヤしながら私に近づいて来た。

「ねぇ、キミひとり? オレらヒマしてるんだよ、一緒に遊ばない?」

 ――ナンパだ、最悪!

 私が無視していると、もうひとりの男がすぐ横に立って言った。

「この辺で見ない子だね。最近来たの? オレたちが町を案内してやるよ」

 ふたりが私を囲むように立つ。さすがに怖くなって、私はこの場を離れようとした。

「あの、私帰りますから」

「そう言うなよ、楽しませてやっからさ」

「そうそう、カワイイのに遊ばないなんてもったいないぜ?」

 男たちが私に立ちふさがるようにして並ぶ。

 いっそ走って逃げだそうか――そんなことを思ったときに後ろから聞き覚えのある声がした。

「悪いけど、オレの連れに声かけんのやめてくれる?」

 振り返ると、そこには蓮人くんが立っていた。蓮人くんがにらみつけてくる男たちを気にした様子もなく私の横に立った。

「なんだぁ、てめぇは!?」

「今良いとこなんだよ、邪魔すんな!」

 男たちは歯をむいて威嚇するが、蓮人くんはまったく動じない。

「聞こえなかった? こいつはオレの連れなの。手を出すのはやめろ、っていうかうざったいから声もかけるな」

「うるせぇ! 横から入ってきて偉そうなこと言ってんじゃねぇ! この!」

 男のひとりが激昂して蓮人くんに掴みかかる。しかし蓮人くんはひらりと身をかわした。

 前のめりになった男が、顔色を変えた。

「この野郎、なめてんのか!?」

「まぁ、猿みたいなやつらだなと思ってるから、そうなるかもね」

「なんだと!?」

 男たちが蓮人くんに掴みかかっていく。しかし、蓮人くんは素早い身のこなしでそれらをすべてかわしてしまう。

 まるで風に舞う羽のようにヒラヒラと動く蓮人くんに、男たちは翻弄されていく。

「もう勘弁ならねぇ! ぶん殴ってやる!」

「ちょっと! 暴力はやめてよ!」

 私の制止を無視して、男のひとりが蓮人くんに思い切り殴りかかった。

 しかし蓮人くんはそれを見事にかわし、足をかけて男を転ばせる。

「なぁ、お前ら傍から見てめっちゃだせぇから、消えろよ」

「ふざけ……っ!?」

 転んだ男の目の前に、蓮人くんの拳が飛ぶ。

 顔面直前で止められた手に、男は言葉を失っていた。

「まぁ、面倒は嫌いなんだ。とっとと帰ってくれ」

「くっそ! 覚えてやがれ!」

「こんなやつら関わっててもしょうがねぇ! 行こうぜ!」

 男たちが退散していく。それを見届けると蓮人くんが面倒くさそうにため息をついてタイヤのうえに腰掛けた。

「響子、お前ちょっとは気を付けろよ。この町だって良い人間ばっかりじゃねーんだ」

「こんな目に合うの、初めてで……ちょっと震えてる……」

 私はタイヤのうえに座りなおして深呼吸をして、蓮人くんに向かい合う。

「蓮人くん、すごく強いんだね」

「べつに、普通。あいつらが弱いだけだ」

「でも、凄い動きだった。ヒラヒラと羽みたいに」

「まぁ、むかしボクシングかじってたんで。オレ天才だし」

 自分で言うかな普通……。まぁそこが蓮人くんらしくもあるけど。

「でも外出なんて珍しいのね。ネットゲームは?」

「ネトゲはメンテナンス中。そんで海でも見るかと思ったらあの場面だったって感じ」

「この町にも、嫌なひとはいるんだね……」

「そりゃあ、な。良い人間だけが絶望するワケじゃないだろ、嫌なやつでも絶望することくらいある。そんで、こんな風に混じってくるワケだ。やれやれ」

 確かに、裏御神楽町が絶望した人間がたどり着く場所だったとして、良いひとばかりが集まるとは限らない。私が今まで、ひとに恵まれていただけか……。

 蓮人くんがとなりのタイヤに座ると、ふうっともう一度ため息をついた。

「波の音はいいな、いつもネトゲの電子音しか聞いてねぇから自然の音は落ち着くよ」

「それでここに来ていたんだ。偶然とはいえ助かった。ありがとう」

「まぁ、今後は気を付けるってことで」

 相変わらずの口癖だ。でも、これは良い機会かも。

 蓮人くんも珍しくヒマしているみたいだし、蓮人くんにも話を聞いてみたかった。

 この町をどう思っているのかとか、私がここに来た理由も話したい。なんというか、彩花荘にいっしょに住んでいるのに秀男さんだけ知っているっていう状態は落ち着かないし。

 何より蓮人くんなら、冷静な目で意見を出してくれそうだった。

「あのさ、蓮人くん。ちょっと長くなっちゃうけど、話を聞いて欲しいんだけど……」

「話ね……どうせこの間秀男さんと何か話してきたんだろ?」

「えっ、どうしてわかるの!?」

「秀男さんの誘い方。普段なら、オレたちの部屋の真ん中で『おい、飲み行くぞ!』とか言いそうだろ。けど、あの日はまずお前を誘い、念のためオレも誘っておいたって感じだった。らしくないなって思ってたんだよ」

「はぁ……察しが良いというか、勘が鋭いというか……」

 蓮人くんはいつもネットゲームをしているようで、ちゃんと彩花荘にいっしょに住んでいるひとたちのことをよく見ているんだな。

「うん、蓮人くんの言う通り、いろいろ話してきた。それを蓮人くんにも聞いて欲しくて」

「まぁ、今はネトゲがメンテナンス中だからヒマだし、別にいいけど。どうせ聞くならいっしょに飲みに行ってりゃ良かったか。いやでもあのときはネトゲが……」

 あごに手を当ててそんなことを真剣に考えている蓮人くん。

 私は「じゃあ、話から良かったら聞いてね」と前置きして話し出した。

 お父さんの失業と暴力のこと。蓮人くんは、私の顔をじっと見て言った。

「傷跡、消えてよかったな。さすがにほほに傷残ってるなんて女としてつらいもんな。それに傷が消えれば少しは父親も許しやすくなるか」

 ちょっと皮肉な口調でそう言ったが、傷跡のことを考えていてくれたことが嬉しい。

 それに、確かに傷跡が消えることは、お父さんとのあの日の記憶を薄める役割を担っているように思えた。いつまでも傷が残っていたら、私の気持ちも穏やかじゃないだろう。

「で、お前はお前を殴った父親を許せそうなのか?」

「……わからない。お父さんもいろいろ大変だったんだろうなとは思う。多分、許したいんだと思っている、って気がする……っていうまだ曖昧な気持ち」

「まぁ、そんな簡単に割り切れる問題なら、ここには来てないか」

「そのことなんだけどね……。ここに来た理由、もう一個心当たりがあって」

 蓮人くんが顔をしかめた。

「もう一個? お前どんだけ人生に難題抱えてるんだよ」

「それも、聞いて欲しくて。いいかな?」

「まぁ、乗り掛かった舟ってやつ? 最後まで聞くとしましょーかね」

 蓮人くんが伸びをして言った。

 私にとって、どうしても彩花荘でいっしょに過ごしたふたりには聞いて欲しかった事。

 私にはひとの心の色が見えることを、蓮人くんに話した。

 波の音が響く海岸で、蓮人くんは静かに、口を挟むことなく最後まで私の話を聞いてくれた。

「だから、ひとの心の色が見えちゃうから、ずっとおまじないをしてて……。そういうのも、良くなかったのかなって今は思うんだ」

「まじないは呪いのようなもんだからな。それにしても、なるほどな」

 蓮人くんは納得したようにうなずいた。

「蓮人くん、なるほどってどういうこと?」

「お前のクセ、前からちょっと気になってたんだ。お前、ひとと話す時、顔じゃなくてもう少し下の方を見て、うつむきながら喋ってるなって前から思ってた。それは、相手の心の色を見ていたんだな」

「やだ! 私、そんなクセあった!? 気付かなかった……」

 たしかに、私はひとと話すとき相手の心の色を見る。

 それは普通のひとから見たら、うつむいて喋っているように見えるのかもしれない。

「ああ。だから内気なやつなのかと思っていた。けど、台所で飯食うときは秀男さんといっしょに大騒ぎして食ったりしてる。奇妙だなって思ってたが、納得だ」

 指摘されなきゃずっと気付かなかっただろうなってクセを言い当てられて、私は自分がずっとうつむいてしゃべっていたのかと反省する。確かに、しっかりと相手の顔を見て会話したという記憶は少ない。

「普通の人間は顔……表情から相手の気持ちを察するもんだが、お前はそんなことをせずとも心の色でわかってしまうってワケか。便利なんだかしんどいんだか」

「しんどいよ、こんな力、欲しくなかった。ひとの心の色が見える必要なんて何もない。相手が隠したいことやウソまで透けて見えちゃうのは、とっても辛いよ」

「まぁ、そうだな。生きにくくもなるわな。そういやぁ、オレの心の色はどうなんだ。響子にはどう見えている? どんな風に映ってるんだ?」

 蓮人くんに言われて、私はじっと蓮人くんの心の色を見る。いつもと変わらない、よく磨かれた石のようなグレー。ただ、以前より霧のようなモヤが減った気がする。

「蓮人くんの心はね、よく磨かれた石みたいなグレーの色に輝いているよ。とっても洗練されている雰囲気。でもね、そこに霧というかモヤというか、霞がかかった感じ。なにかを覆い隠しているような……心を閉ざしているような。でも、前よりもその霧は薄くなったと感じるの」

「オレの心の色が洗練されてるとは、皮肉だねぇ。そんでもって霞がかかった感じか、なるほど。自分でも思い当たる節はある。……本当に、見えてしまうんだな」

 蓮人くんの目が一瞬、悲しそうな色を宿した。それが自分の心の色を言われたことに対するものなのか、私への同情なのか、判断がつかなかった。ずっと心の色ばかり見ていた私は、ひとの表情からなにかをくみ取るのが下手なのかもしれない。

「……秀男さんは、自分がどうしてここに来たか語ったのか?」

「うん。とっても繊細なんだなって思った。いろんなことが見え過ぎちゃうというか」

「まぁな。あのひとも生きにくさなら響子に並ぶだろうよ」

 そういって口を結んだ蓮人くんが、その隙間からゆっくり息を吐きだした。

 蓮人くんの様子を察するに、秀男さんと蓮人くんは、お互いにこの町に来た理由を話し合っているような雰囲気だった。確かにふたりにはどこかわかり合っている空気を感じることが多々ある。

 数度うなずいてから、蓮人くんが顔をあげる。

「秀男さんが話して、響子も話してくれちゃったんなら、オレがこの町に来た理由も話さなきゃフェアじゃないな」

「そんな……話してくれたら、それは確かに嬉しいけど。無理に話してくれなくても、私ぜんぜん平気だよ!」

「まぁ、オレが一番たいしたことない理由だからな。別にいいよ」

 蓮人くんが座っていたタイヤを指で数度弾いてから、語り始めた。

「自慢にしか聞こえないかもしれないけど、オレは何事においても天才だったんだ」

「たしかに、蓮人くんは栽培も上手だしさっきも強かったね」

「それだけじゃない。勉強でも、スポーツでも、仕事でも、なんでもさ。なんでも簡単にこなせて、なんでも誰よりも上手に出来た」

 ふうっとひとつ息を吐く。私は出来るだけ心の色を見ないで顔をみるように努めた。蓮人くんの表情はうんざりしているというか、諦念に満ちている。

「最初はな、そういう人間はちやほやされるんだ。まぁ、スゴイっていう純粋な感動もあるだろうし、仕事ならこいつは使えるってなるし、当然なんだけど」

「蓮人くんなら、なんでもテキパキこなせそうだね」

「そう、こなせたんだよ。でもな、周囲の人間にとってそれは時間が経つにつれて、不気味に映ったり妬みや恨みの対象になるんだ。自分はこんなに頑張っているのに、なぜロクに努力もしていないアイツがなんでも出来るんだってな」

「そんな!?」

 近くにそんなにスゴイひとがいたら、皆憧れるんじゃないだろうか?

 だけど、蓮人くんは苦々しい表情で言葉を続けた。

「どこに行ってもそうだったよ。学校でも妬まれ、仕事でも直属の上司や同僚に疎まれ、次第にまわりからひとはいなくなっていく。ずっと遠巻きに見ていて、嫌みを言ったり嫌がらせをするだけだ。ただ、ひとより何倍もなんでも出来るってだけでな」

 出る杭は打たれる、というものであろうか。でも、決して蓮人くんの性格からして出しゃばったりはしないばずだ。淡々と仕事をこなしていく様は容易に想像出来る。

「小学校のころから社会人生活まで、オレはそんな周囲の理不尽にさらされた。いや、あるいはそれは理不尽じゃなくて、普通の反応だったのかもしれないけどさ。まぁ、要は出来過ぎるやつってのは奇異の目で見られ続けるんだ」

 もしも私の周囲にそんな天才がいたら、私はどう見るだろう。自分でもわからない。純粋にスゴイと思える、と信じたいけれど――。

「あらゆることを誰よりも簡単にこなせる。ロクに努力もせずにな。それが、周囲からはさぞ不気味に見えたんだろうな。要領が良い、なんて言葉じゃ追い付かないくらいなんでもやったし、なんでもこなした。オレ自身にとっては、それが当たり前だったから」

「だけど、まわりから見たらそれが当たり前じゃなかったってこと?」

「まぁ、そういうこと。特に社会人になってからはきつくてな。さっきも言ったが上司の嫌がらせに同僚の妬みに、ひどいもんだった。仕事をこなせばこなすだけそれはひどくなる。いくつか職場を転々としたけど、どこも同じようなもんだったな」

 ふうっとため息をついて、蓮人くんが続ける。

「それで、いい加減嫌気が差したある日、思いっきり酒を飲んで電車を寝過ごして……気が付いたらこの町に流れ着いていたってワケ」

「そうだったんだ。……大変だったんだね、そんなに思いつめるまでずっと」

「個人的にはそこまで思いつめていた気はしないんだけどね。まぁ、無意識のうちにってヤツなんだろう。それからオレはここでネトゲ三昧。自由気ままな毎日だよ」

 おどけるように肩をすくめて、蓮人くんが言った。

「ネトゲは良い。どんなにスゴイことをしたって誰よりもゲームがうまくたって、皆は純粋にほめたり羨ましがったりするだけだ。嫌がらせも妬みもない。いや、妬みはあるのかもしれないけど、そんなもん聞こえてこなけりゃ何も関係ないだろ?」

 それで、蓮人くんは日々ネットゲームに没頭していたのか。

 彼にとってはもしかしたらこの裏御神楽町以上に、ネットゲームの世界が居場所なのかもしれない。

「まぁ、裏御神楽町に同じゲームをしてる人間――しかも同じギルドのメンバーがいるとは、思いもしなかったけどさ。灯里が良い人間で良かったよ、ここに来てまで絶望なんてしたくないもんな」

 話は終わりだ、とでも言わんがばかりに蓮人くんが立ち上がった。

 私は、もう少し話していたかった。何より、秀男さんや蓮人くんの話を聞いていたら、私の抱えた問題なんてものすごくちっぽけなことに思えてきて仕方なかった。

「秀男さんや蓮人くんはそんなに苦労して……私、ちょっと爪でほほを切られたくらいでここに来ちゃっていいのかなって思う」

 下を向いたまま、素直に自分の心情を吐露した。だけど、蓮人くんがそれを否定する。

「お前だって、親父さんからの暴力以外にも心の色が見えるとかいろいろ苦労があるんだろ。変なとこで自分を卑下するな」

「だけどさ、皆はもっと大きな問題のなかで葛藤していて――私の絶望は、あんまりにも小さいというか、家庭の事情でしかないというか」

「あのな、絶望することに大きいも小さいもない。そうだろ? お前、小さな子供が百円で買えるオモチャを壊してしまって絶望していたとしたら、それを小さなことだって言えるのか?」

「それは、言えないけど……」

「そうだろう。何が大きい問題で何が小さな問題なのかは、その人間次第だ。あのひとは……とか誰かと比べるものじゃない。さて、メンテナンスもそろそろ終わったかな。オレはそろそろ行くぞ。お前はもう少しここにいるのか?」

 蓮人くんの言葉に、私は小さくうなずいた。

 皆、様々な問題に直面してここに来ている。私は問題解決に向けて何かしただろうか?

 心の色が見えてしまう問題は消えないにしても、家の事はもっとうまく出来たのではないだろうか。そうはいっても、殴りかかってきたお父さんを思い出すと今でも震えがくるほどに怖い。

 このままじゃ、いけない。そんな気がした。

「あ、ねぇ! 蓮人くん!」

 彩花荘に向けて歩き出していた蓮人くんを呼び止める。

「何? まだなんかあるのか?」

「あの、さっきの……ボクシング? 私にも教えてよ!」

「はぁ!? いきなりなんだよそれ、何を考えてんだ?」

 お父さんとの問題を解決するには――まずはお父さんから振るわれた暴力に対する恐怖心をなんとかしなくてはいけないと思った。

 そう考えたとき、さっきの蓮人くんの流麗な動きが脳裏をよぎった。私もあんな風に出来たら、酔ったお父さんに殴られても簡単にかわせるだろう。少なくとも、暴力への恐怖は軽減されるはずだ。

「私、今はまだお父さんが怖い。酔っていつ殴りかかってくるかわからないもの。でも、蓮人くんがさっき見せてくれたみたいにキレイに動けたら、私暴力への恐怖が減ると思うの。それに私も戦えるんだって思ったら、心強いし」

「あのなぁ、お前は親父さんと殴り合うつもりか? そんなことしてどうする。もしもうまいことやって親父さんを殴り倒しても、余計に気まずくなるだけだ」

「それは、そうだけど……今の何も出来ない私じゃあまりにも心細くて」

 頭を左右に振った蓮人くんが「はぁ……」と息を吐いた。

「しょーがねーな。殴る方法は教えない。だけど、避ける方法だけは教えてやる」

「蓮人くん、ほんとに!?」

「まぁ、貴重なネトゲの時間を削られるのは痛いけど……殴られても避けられるって思えばお前の言う恐怖ってのも軽減出来るだろ。ちょっとは協力してやるよ。お前運動には不適切な恰好だけど、まぁいいか」

 私のワンピース姿を見た蓮人くんが口をへの字に曲げた。

「とりあえず準備運動しろ。いきなり身体は柔軟に動かないぞ」

 さっそく教えてくれるみたいで嬉しくなった私は、急いで身体をほぐしていく。

 周囲は少しずつ夕暮れに包まれていった。

「蓮人くん、準備出来たよ!」

「よし、それじゃあまずその棒立ちをやめろ。膝を柔らかく、下半身をリラックスだ」

「下半身を、リラックス?」

「ボクシングや格闘技の試合、いやスポーツでも良いけど、テレビかなんかで観戦したことあるか? 彼らは皆棒立ちで相手の反応を待っていないだろう。相手の動きにすぐに対処できるように、身体を臨戦態勢に整えているんだ」

 確かに、スポーツ選手が競技の最中棒立ちになっているのなんて見た事ない。

 私は見よう見まねで膝を曲げて、構えて見せる。

「こ、こんな感じ?」

「それじゃあただ膝を曲げているだけだ。しっかりと腰を落として重心を下半身に預けるんだ。まずは姿勢をきちんと整えて、上半身が動かしやすくなる感覚を覚えろ」

 腰を落とす……私は高校のときの授業のバレーボールを思い出しながら、少し大げさに腰を落としてみた。

「まぁ、それはやり過ぎだが……イメージとしてはそんなもんだ。まずは身体を動かしやすい姿勢を無意識のうちに出来るようにしろ。増宮米店でのバイトでも、重いものをもつときは姿勢を整えるだろ。そのイメージに近い」

 なるほどと思いながら、ちょっとずつ姿勢を矯正していく。蓮人くんはそれを見ながら「まずはこんなもんか」とちょっと諦めた口調で言った。

「よし、じゃあ次はオレがお前の顔にパンチする。っといってももちろんゆっくりな。お前はそれを避けろ。こういうのは反復練習が大切だ」

「よ、よろしくお願いします!」

「よし、じゃあいくぞ。いいか、オレのパンチから目をそらすなよ。どんなに動きが軽快になったところで、びびって目をつぶったら避けられるワケないからな」

 そう言って、蓮人くんがゆっくり私の顔目掛けて拳を伸ばしてきた。

 私はその動きをしっかり見据えながら、首を後ろに持っていく。だけど、蓮人くんの手は私の鼻先にちょこんと触れた。どうしてあんなゆっくりの動作が避けられなかったんだろう。

「首だけで避けようとするな。それじゃかわせない。下半身をリラックスさせるのは、上半身を自由に動かせるようになるためでもあるんだ。上半身全体を使って避けろ。もう一度いくぞ」

 もう一回、蓮人くんのゆっくりと動く拳が私に迫ってくる。

(上半身全体を使う――)

 私は首から背筋を意識して、ぐいっと後ろに下がった。今度は、蓮人くんの手をきちんと避けることが出来た。

「そうだ、その感覚だ。相手のパンチがどんなに速くても慌てるな。今の感覚で避ければ当たりはしない。もう何回かいくぞ。こういうのは身体に覚え込ませるのが一番だ」

「はい!」

 蓮人くんのゆっくりパンチを、身体全体を使って避けていく。

 いい感じにパンチを避けられるようになってきた。

 何度もそれを繰り返したとき、蓮人くんが拳を止めて空を見上げる。

「今日はこんなもんにしとくか。またヒマなときに教えてやるよ」

「えっ、いいの!? ありがとう蓮人くん! これからよろしくお願いします!」

 ネットゲームの都合もあるだろうに、蓮人くんはまた練習に付き合ってくれるらしい。彼は彼なりに私の境遇を気にかけてくれているのかもしれない。

 ふたりで運動公園から彩花荘に帰る道すがら、私はふと思い立って蓮人くんに尋ねた。

「蓮人くんっていっつもおうちにいるよね。それなのに大家さんの集金も、お米の買い出しも困っているとこぜんぜん見ないけど、どうやって生計立てているの?」

「言っただろ、オレは天才なんだよ。今はネット越しにイラストの依頼や文章の仕事をこなして収入を得ている。最近じゃネットでやりとりが当たり前だから、不自由なく稼げるんだよ」

 なるほど、蓮人くんの才能は絵や文章にまで及ぶのか。ほとんど部屋から出てこないのに生活が成り立っているのも納得である。なにせ彩花荘の家賃は破格の安さだ。

「本当になんでも出来るんだねぇ。蓮人くん、今日はありがとう。またよろしくね」

「はいはい。時間のあるときだけだからな。それと今度からは動きやすい恰好でやるぞ。そのほうが練習も捗るからな」

 彩花荘につくと、蓮人くんはさっさと部屋に戻っていった。きっとまたネットゲームを再開するのであろう。

 裏御神楽町とネットゲームの世界。それが彼の救いとなっているんだろうなと思う。

 私は思わぬトレーニングが受けられるようになったことが嬉しくて、自分の部屋に戻っていったあとも、今日教わったことの反復練習をしていた。

 それから、私と蓮人くんの運動公園での練習の日々が始まった。お互いネットゲームに増宮米店でのアルバイトに、時間は限られるけど、私の日々に心強いイベントが増えた事には間違いない。

「おーい! 蓮人、響子! 夕飯だぞー!」

 今日の夕飯当番の秀男さんの声が廊下に響く。

 ナンパ騒ぎから運動と疲れて腹ペコの私はその日、夕飯をおかわりしたのであった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ