幕間 本物の『英雄殿下』は愛しい婚約者のために、『聖星節の攪乱』から時をさかのぼります。 前編
『英雄殿下』が、『不遇の真ん中令嬢』を選んだ発端になります。
押し寄せるかつての同胞らを、私は力任せになぎ倒す。
恐怖におののく彼らの目に私は、悪鬼そのものに映るだろう。
「マーシャル卿よ。ご乱心なされるではない」
「くどい!」
『聖ベネディクト騎士団』の精鋭の騎士の太刀筋が、目前にまで迫り来る。彼らの哀願に構うことなく、怒りに身を任せるがままに。私は、大剣をふるい続けた。
ことの起こりは、二十年前に遡る。乳兄弟のジュリオとは、母后ユージェニーと私への暗殺未遂がきっかけに互いの身分を入れ替えていた。
忠臣で知られるジュリオの祖父、チャールズ・ロングウッド伯爵の提言に基づいた結果に過ぎない。
『成人の儀』を終えるまで、私達の身分は入れ替えたまま。直前に元に戻す約束は、父王と母后の死で違えられてしまう。
暗殺未遂の真犯人こそ、ロングウッド伯爵なれば至極当然だろう。
ジュリオによる『武に秀でた王弟殿下』を演出するべく、私はひたすら影武者に徹するしかなかった。
紆余曲折を経て、ジュリオがロクサーヌ嬢と婚約した一方で、私は彼女の妹アナベルと婚約を果たす。
でも、女たらしのジュリオには、ロクサーヌ嬢の預かり知らない愛人の存在が。
ルネ・シャンティ、元は子爵家の後妻だった。
偽殿下の愛人を監視するためとは言え、愛するアナベルをだまし続ける。彼女の楚々とした笑顔を思い出すたびに、私の良心はむごく疼いた。
あれは、聖星節を目前にした夜会でのこと。
いつも通り、私は婚約者を置き去りにして、ルネをエスコートしてそれに臨んだ。
あの場所にキンバリエ大公夫妻の随行人として、アナベルがいるとも知らずに。
ファーストダンスから戻るや否や、ジュリオがロクサーヌ嬢の手を放す。それが合図だと言わんばかり、私の隣にいる女が前に出ようとした。
「殿下と大事な話がある」
「あら」
ジュリオに釘を刺すべく、私は玉座のある場所へと急ぐ。見かねた宰相がジュリオを諫めるうちに、私は人の波間を避けながら走った。
玉座に留め置かれたジュリオは、宰相の真っ当な訴えに耳を傾けようともしない。
顔を背けるばかりのジュリオが、場所をわきまえずに間延びした途端、
「嫌よ。アナベル」
ロクサーヌ嬢の悲鳴が木霊する。
彼女の泣き叫ぶ声に、私はそちらに目を向けた。
うそだ。うそだ。うそだ。
あろうことか、あの女狐はロクサーヌ嬢を亡き者とせんがため、シャンパンのグラスに毒をしかける。警戒心の薄いロクサーヌ嬢がこれを受け取り、グラスに口をつける。
その刹那だ。
姉の手からグラスを横取りしたアナベルが、中身を飲み干した。
「誰か。その女を捕まえなさい」
気丈なエヴァンジェリンの声と、
「私の変わりに貴女が犠牲になるなんて」
悲痛なまでのロクサーヌ嬢の哀願が錯綜する。
宮殿の大広間の中央に群がる人を掻き分けるまで、どれくらいの時間を要しただろうか。
「ウソだ。アナベル」
「汚らわしい手で触らないで」
エヴァンジェリンの大声に、私はあと一歩が踏み出せない。その合間に彼女の体は、キンバリエ大公が抱き上げてしまい、遠くへと運び去る。
大公とこれに続く夫人と姉に、彼らの背中を呆然と見つめるだけの私。互いを思いやることもなく、アナベルと永遠の別離を迎えた。
もしも、私が本当の身分を復していたのであれば、彼女を不遇なままにしなかったのに。
浮気相手に入れあげた私が、婚約者の葬儀への参列を許されず、時間だけが無情にも過ぎ行く。
「そうだ。私はやるべきことがあるではないか」
自室の窓に映る私に、躊躇はなかった。狂気がなすままに、私は『聖星節の攪乱』を企てる。
アナベルとやり直したい。それだけのために……。