失った記憶の存在?
私は一体、何時からここにいるのだろうか。幾度となく瞬きを繰り返しても、遥か遠くまで広がる常闇の世界。
それ以外、何も存在しない異空間を、私は当てもなくさまよい続けている。
何故、こんなことになったのだろう。考えること自体、とても億劫だわ。
どのくらいの間、漆黒の深海を漂っていたかしら。
「やあ。気がついたかい」
突然、私の耳元で幼子の声がささやく。少しずつだけど、周囲が白く揺らぎ始めた。
「貴方は」
声になるかならないか。
私の口がつむいだ音に対して、
「ボクは、黒百合の精霊キスキラさ」
その存在が、自ら名乗りをあげる。
「キューピッドさん?」
そう。唐突に羽を持つ赤ん坊が、私の目の前に現れた。
「私……どうしてここにいるの?」
大広間で殿下とワルツを踊った後、私の身に何が起きたのか。中々、思い出せない。
必死にことの成り行きを思い出そうと、頭を抱えた私の側で、
「『記憶封じ』の魔法をかけ直さないとね」
いたずらっ子のような、からかう声が響いた。
『記憶封じ』って何よ。ここへ落ちる直前、私の口をついて出た男性の名前と関係あるのかしら。
「ボクと彼の賭けだけど、勝敗が決まっていないから」
「賭け?」
「彼が、君との未来を築くこと」
「何で」
「今は、余計な記憶を思い出して欲しくない。だから、もう一度だけ、『さかのぼり』前の記憶を封じてあげる。瞳をしっかり閉じて」
キスキラに促されるがまま、その通りにするしかない。
「キミの愛するべき人は誰だい」
それは、殿下お一人。レオナルドさまだけだわ。
「アナベルーー」
愛しい方の声を受けて、私の意識が再浮上する。ゆっくりと、瞳を開けた先には、驚いた風情で目を見開く殿下の顔があった。
あれれ? 視線だけを左右に動かせば、緑の天蓋の帳が飛び込む。ここって、大広間ではなくて私の寝室だわ。大広間で殿下とワルツを踊った後、何が起きたのだろうか。
訳も分からず、首を横に向ける。
「あの。私は……今日って」
「昨日、大広間で倒れたのだよ。丸一昼夜、眠りについていたのだが。大丈夫かいアナベル」
「一昼夜……はははひ?」
「急に起きない方が賢明だ」
殿下の忠告などどこ吹く風で、私は上体を起こそうと試みる。でも、体に力が全く入らない。
「申し訳……ございません」
課題をクリアする前に、失神するなんてダメじゃない。
恥ずかしさのあまり、上がけにもぐり込む寸前で、
「これ以上、無理はしないで今日だけでもゆっくりするべきだ」
殿下が私に労いをかけて下さる。
「あ……り、がとうございます」
殿下のご好意に甘えるなんて、とても心苦しいわ。でも、体が思うように動かせないの。
私は殿下の言われた通りに、するしかなかった。




