疑念を抱きながらの調印式。
控えの間に漂う残り香に、いつも夢に見る光景を思い起こす。顔の見えない女性が口ずさむ、優しいハミングのメロディー。
「お母さま」
あれは幻影ではなくて、『アナベル』としての記憶だと確信する。
あの方が自ら、私に会いに来て下さるなんて。本当は今すぐにも、追いかけたかった。それが叶わないことくらい、分かっているけれど。
許されるのであれば、もう少しここにいたい。私は余韻を惜しむように、その場に立ち尽くした。
――コンコン……。
扉を叩く音に、ハッと我に返れば、
「お待たせ致しました」
口ひげをたくわえた家令が姿を現す。
彼は怪訝そうな面持ちで、私を見つめた。
あら、私としたらいやだわ。国母を目指さんとする者が、涙を見られてはいけないのに。
「今、参りますわ」
すれ違いざまの邂逅を振り払うべく、私は控えの間を後にした。
大理石造りの廊下を、靴音だけが木霊する。近衛の兵が守る扉口で、私達は歩みを止めた。
鈍い音を立てながら、扉が左右に引き裂かれていく。私の視線の先では、おぼろげな輪郭が玉座にあった。
「アナベルよ」
「はい」
呼ぶ声に応じて、私は楚々と前に出る。国王陛下から目をそらすことなく、淑女の礼を示した。
玉座の脇に立つ宰相が、粛々と勅書を読み上げる。すぐ隣には、殿下も立ち会っているのだから、何も恐れることはない。
「ウィンクス侯爵家が以前に負担した持参金だが、期日までには王家が償還する。これで、よろしいかな」
「厚く、御礼申し上げます」
正面に座す陛下に代わり、宰相がことの次第を説明して下さる。陛下の投げやりな態度を見るにつけ、私の不安はつのるばかりだ。
宰相の咳払いが一つ、響いた直後だった。
「これに加えて、貴殿のフロワサール領は、王家から代官を派遣した上で治めるとする。異存はないな」
「ございません」
規定事項に対して、私が異議を唱える立場ではない。私の答えに満足したのか、宰相の表情からこわばりが失せた。
うん。きっと、私の気のせいではないわよね。
「それでは」
宰相から家令へと、勅書が手渡される。真ん前からジト目光線を、あびまくるなんて。
緊張で手がこわばりながらも、私は勅書にファーストネームをつづった。
「これを持ちまして、調印の儀式を終了とさせていただきます」
宰相の宣誓を受けて、陛下が玉座を退く。殿下との婚約以前に拝謁した際は、あのような風体ではなかったはずなのに。
「アナベル」
「殿下」
玉座の脇から宰相が離れてすぐ、殿下が私の側へと歩み寄る。
少し間合いをあけてから、
「気を遣わせてすまない」
殿下は申し訳なさそうにおしゃった。