ほんのりと、哀しい記憶が。
主人公は、異世界転生者ではなくて『出戻り転生者』です。
貴婦人が窓辺の椅子に座り、まったりと紅茶を口に運ぶ。手に取る詩集には、騎士と貴婦人の禁断の愛がつづられている。
なーんて大嘘も、たいがいにして。
こじゃれた洋風の机の上に、どっさりと置かれた紙束を見て、私は重いため息をつく。
「妃殿下。早く封蝋を」
「……」
トレーシーが整えた返礼だけど、どれくらいあるのか見当もつかない。上位貴族に加えて、商家の組合や王立芸術院の教授方などなど。
めまいのせいか、先ほどから身震いしていれば、
「ショールをどうぞ」
年長のメイドがそっと手渡してくれた。
ほんのりと肌寒いけど、暖炉に火をくべるほどではないわね。朝は晴れていた空が、にわかに暗がり始めている。
「ありがとう」
彼女に身づくろいをゆだねていれば、トレーシーの咳払いが響いた。
「それでは、参りますわよ」
返礼の束と格闘すること、小一時間くらいかしら。
「それを執事どのに渡しなさい」
「かしこまりました」
謹厳な礼を取るとすぐに、メイド達は去って行った。
この重労働を文句一つ言わずに、捌き続けたエヴァさまはエライ。私なんて到底、足元にもおよばないわ。
目の前の道具を片づける側で、
「お疲れね」
トレーシーの労いを受ける。
まともに返事が出来なくてゴメン。ジト目モードの私は、心の奥でトレーシーに謝った。
ワゴンの車輪の音とともに、甘い香りが部屋に立ち込める。みなさん、お待ちかねのティータイムの時間よ。ああ、今日のおやつは何かしら。
固唾を飲んで身構えた女子二人を前に、
「ベリージャムのマーブルレアチーズケーキです」
給仕役の一人が説明する。
そして、見覚えのあるパフォーマンス。これって、あの高視聴率ドラマの『警視どの』がやっているシチュだわ。
うん。この香り最高よ。トレーシーも目が潤んでいる。
「ところで、妃殿下は紋章を用意するべきかと」
そこにお出ででしたか、執事さん。
そうだ。私ったらフロワサール女伯爵になるから、それ相応の紋章を用意するべきなのよね。
「既定の意匠を、決めておくべきですわね」
「ごもっともです」
でも、お取り潰しの貴族の紋章は忌避される。そんな話を聞いたことがあるような。
深く悩む私を他所に、執事が手を叩くと、
「失礼致します」
若い従卒が部屋に入り込む。
執事の白い手が、従卒から分厚い本を受け取り、
「これをご参考になさって下さいませ」
トレーシーに差し出した。
「これって」
「紋章の由来本だと思う」
トレーシーから本を受け取り、私は表紙の文字を指先でなぞる。目次にはトリスタニアの文字列に沿って、各貴族の家名の頭文字が並んでいた。
「黒百合の紋章は」
私のさりげない一言に、
「白や紫に比べると、忌避してしかるべきでしょう」
案の定と言うか、トレーシーが諫める。
はい。その通りよね。
ぱらりとページをめくるうちに、ある家名で思わず手を止めてしまう。
「ロングウッド伯爵家?」
何だか聞き覚えが……そして、とても切なくて悲しい。あふれ出る涙で、文字が読めそうにない。
「アナベルさま」
トレーシーの声でようやく、私の意識は現実に舞い戻る。
「な……何でもないわ」
まばたきを数度ばかり。どうにか涙を堪えて、私は次のページをめくった。