私のお母さまは。
窓から見える暗雲に、閃光が何度も迸る。机の奥に座る父は私をほっといて、手にした本のページをめくるばかりだ。
随分とお会いしない間に、おぐしに白い筋が増したみたい。
無言で立ち尽くす私に向けて、
「そこに座りなさい」
穏やかな口調で促して下さった。
「はい」
ようやく口を開いてくれた相手に応じて、私は背もたれのない椅子の上に腰を落ちつける。革張りの肌触りが少し硬いけど、我慢出来なくはないわね。
うーん。緊張感が全くほぐれないな。気心の知れた親子の間柄だったなら、私からお話するべきだろうけど。『元祖塩対応』な険しい面持ちを前に黙り込むしか出来なかった。
時折、遠雷がとどろく他は、何かが起こりそうな……ってことはないか。
一帯を漂う重苦しい空気に、私は相手に悟られないようにふるまった。
そんな状況を終わらせたいだろうか、
「そなたが抱く、パメラへの誤解を説く必要があるか」
父が独り言のようにささやく。
待って、この名前は確か。相手の口からついて出た名前が、『アナベル・ウィンクス』の生みの母親だと認識するまで時間を要してしまう。
それくらい、私の心には全く響かなかった。
「何処から話すべきかな。フロワサール伯爵家において、パメラだけが良識をわきまえていた」
想定外の人物評価に、私は呆気に囚われる。つまり、世間で言われる『悪妻』ではないってこと?
さらなる続きを聞こうと、私は姿勢を正した。
「実家を見切ったパメラが平民の音楽家と結婚した頃か。私は婚約者のセシル・エドナとの婚礼を控えていた。今の妻が当時の婚約者だ」
父と義母が婚約を交わしていた仲だと聞いた瞬間、ああやっぱりそうなのかと。
あれ、何だかおかしいような。
「お父さま、よろしいでしょうか」
「ん」
「夫がいたのであれば、母はどのようにしてここに嫁いだのでしょうか」
「夫を殺すと脅された挙句、教会にも手を回されたのだよ」
うわわわー。フロワサールってアコギな一門だわ。金の力で教会を脅して、母の婚姻記録を抹消させるなんて。
さらに、『反フロワサール』の旗頭の善良なエドナ伯爵家を罠にはめて追い落とす。何とけしからん輩ではないか。
お家断絶、ざまあ味噌漬けやったね!
私が生まれる前に、この王国で何が起きたのか、おおよそのあらましは理解した。
沈痛な表情の父の方から、
「そなた、パメラに会いたいか」
意外な言葉を投げかける。
突然の質問に対して、私は答えを持ち合わせていなかった。
何だか、ピンと来ないのよね。
話の経緯から父と離縁した後、母は最初の夫と再婚している。本当に愛する相手とその間に生まれた娘を、やっとの思いで取り戻したってこと。
他人同様の私が、母の幸せを邪魔する訳にはいかないわ。
「お会いしなくても、私に不都合はございません」
「本当にいいのか」
「はい」
だってもう、『お母さま』を恋しがる年ではないもの。
「そうか」
短くつぶやく父の表情が、ほんのりと切なさをかもし出す。普段と違う父の姿に戸惑いつつも、私は音を立てずに書斎を離れた。
うん。お母さまに会えなくても大丈夫……だけど、鼻の奥が疼くのはどうしてかしら。
私は無意識のうちに、母への思慕を封印した。