真夏のシンデレラ
私は私を救えるのだろうか
■プロローグ
「この資料は何だ!こんなレベルの資料を出せるわけがないだろう!何を考えているんだ!」
徹夜で作った資料が会議室を舞い、怒号が響く。
「すみません」
私は消え入りそうな声で答える。
「これが貴様の本気か! これのどこに二日かかってるんだ!」
「……すみません」
「なんで出来ないんだ! 理由を言ってみろ!」
私は答える言葉を探していた。何を答えても結果は変わらない。私がここに配属された十ヶ月前から何百回と繰り返してきたことだ。
「…………すみません。……私の能力不足です」
本当は理由なんてない。いろんな権力争いの結果ツギハギだらけになっているシステムだから、どうしてこうなっているかなんて、誰にもわからない。
だから、ちょっとしたことも細かく調べないといけないし、それでも明確に言い切ることは出来なくて、歯切れの悪い冗長な資料にしかならない。ただそれだけ。
『貴様は一度たりも給料に見合った仕事ができたためしがない!』
『そんな事で、やっていけると思っているのか!』
『俺だって怒りたくて怒ってるんじゃない! 貴様のためを思って言ってるんだ!』
『くだらない言い訳ばかりしてると殴り飛ばすぞ! このクソデブ!』
『やる気がないのかと言われたら、百倍気合を入れてやる気を出すもんだろうが!』
『貴様には根性が足りない! 皇居の周りを百周くらい走ってこい!』
『大事な会議が台無しだ! 誰のせいでこうなったと思っている!』
『迷惑ばかり掛けやがってこの役立たず!』
眼の前の小柄で年下の浅黒い筋肉男はかれこれ一時間以上、私に向かって何かを怒鳴っている。私はすっかり焦点を失って曇った眼を、大きなガラス窓の外にむけていた。
遠くの空に入道雲が形を変えながら立ち上がっていくのが見えた。
結局数箇所直しただけの資料を抱えて、筋肉男が顧客の待つ会議室に消えていくのを見届けると、私は焼けるような酸っぱいものが食道を駆け昇って来るのを感じて、あわててトイレに駆け込んだ。
打ち合わせが終わればまた呼び出されて怒鳴られるのが分かっている。呼び出されればまた小一時間作業が止まるので、次の作業が更に遅れる。
私はひっきりなしに流れてくるメールを横目で流し読みしながら必死に次の資料を作る。一日に三度も四度も怒鳴られて、トイレに駆け込んで吐いていた。
そして、その度にコンビニに駆け込んでは、何の味も感じられない菓子パンを、空になった胃にドリンク剤で押し込んで、また、パソコンに向かう。
どうにかして終電で家にたどり着いた。身体中に筋肉男の怒鳴り声がまとわりついているような気がして、蜘蛛の巣を振り払うようにワイシャツを脱ぎ捨て、シャワーで身体を清める。
敷きっぱなしのせんべい布団の上にタオルケットを広げて横になると、何を見るわけでもなく、スマホの待受画面をじっと眺めていた。エアコンが低い音を立てて唸っている。
七月二十五日水曜日午前二時十五分。
青白い光が顔に反射して、ぼんやりと部屋を照らす。
待ち受け画面には誰からの通知もなく、メッセージアプリに至っては、もう一週間以上起動すらしていなかった。
海の日の三連休に、地獄のようなプロジェクトの最初の山場をなんとか切り抜けて、本当なら今頃はもう落ち着いているはずだった。それなのに、私の仕事は微塵も楽にならなかった。
心に霞がかかり、昼間の出来事が漆黒の闇となって襲ってくる。エアコンの風を浴びているにもかかわらず、額に大粒の冷や汗が浮かび、心臓が高鳴り、息が浅くなる。
ダメだ。眠れない。
薬袋から睡眠薬を一粒取り出して、机の上に残っていたチューハイの残りで流し込んだ。
9%のアルコールがじわじわと胃壁を焼き、薬とともに吸収されていくのを感じた。
全身に毒が回っていくのを待つ死刑囚のような気分で、私はゆっくりと目をつむった。
ああ、いっそ、このまま、消滅できたら、楽なのに。
■新しい朝
どのぐらい経ったのかわからない。なんとなく窓の外から差し込む日差しが明るいので目が覚めた。つけっぱなしだったはずのエアコンが止まっている。
寝起きの低血圧のせいなのか、体がだるい。
いったい何時なんだろうか。いつもよりやけに部屋が明るい気がする。枕元に置いていたスマホの目覚ましは鳴らなかったのだろうか?
うっすら目を開けてスマホを探すが見つからない。手の甲で目をこすりながら、壁の時計を探したが見当たらない。
身体を起こして辺りを見回す。視線がいつもより高い。
確か私は自分の布団で寝てたはずだった。だが、私はいまベッドの上にいるようだ。
目を見開いて見渡してみると、何かが違うどころじゃなかった。
私の知っている部屋とまるで違う、見たこともない光景が目に飛び込んできた。
そこはピンクとブラウンで統一されたコーディネートの明るい部屋だった。薄いベージュにピンクとブラウンのローズ柄のカーテン。布団もローズピンクのカバーがかかっている。
机の上にあるはずの飲み干したチューハイの空き缶はなく、床にはゴミひとつ落ちてない。
チェストの上の鏡に髪留めやイヤリング、ヘアブラシや化粧道具がある。
部屋の隅に大きな姿見鏡が目に入った。私はベッドから立ち上がると、鏡を覗き込んだ。
そこには見知らぬ女が映っていた。すぐさま後ろを振り返るが誰もいない。
つま先と指先から急激に血の気が引いて、痺れが全身に広がっていった。声がうまく出せない。
「誰……だ……?」
しばらくパクパクとしながらようやく絞り出した声は、裏返ったような、掠れたような、蚊の音のような弱々しい囁き声だった。
急に力が抜けてその場に座り込んでしまう。とりあえず落ち着けと自分に言い聞かせ、眉間に皺を寄せながら目をつむり深呼吸をすると、もう一度ゆっくりと目を開く。
私は混乱した。
寝ぼけて誰かの部屋で寝てしまったというよりは、私自身が女になっている。
もう一度姿見鏡を覗き込む。そこに居たのは、ピンクのパジャマを着た、ややつり目の女だった。
ダークブラウンの瞳にわずかに濃い茶色の艷のある髪。肌はきめ細かく、毛穴も目立たない。小顔って言うほどでもないが丸顔ってわけでもない。とびきりの美人顔というわけでもない。
ゲームのキャラクターみたいな胸はないし、ウエストもそこまで細くはない。背丈も高すぎず低すぎず、太っているわけでもなければ、ガリガリでもない。職場にいても気づかないくらいのごく平凡な容姿だ。
改めて手を見る。私の知っている自分の手より一回り以上小さいが、ちゃんと開いたり閉じたり思ったとおりに動く。立ったりしゃがんだり、その場でくるくる回ってみる。
身体が軽い。まるで体重が半分になったかのようだ。
しばらく鏡を覗き込んでポーズを取ったりして、他人事のように眺めていたが、ふとその身体が今の自分の制御下にあるということを意識したら、とても気恥ずかしくなった。
私は振り払うように何度か首を振って、邪な考えを頭の隅から追いやる。
どういう事情か全く分からないが、とにかく私は、この女の身体に乗り移った事を確信した。
これは『朝おん』ってやつだ。 『朝起きたら女の子になっていた』というシチュエーションは、割と私の好みのジャンルで、ネットの掲示板サイトでそんな小説などをよく見ていた。
大抵は朝起きたら胸の大きな美人の女の子になってて、興奮して自分の尻や胸を揉んだり、触ったり、鏡であちこち観察したりしながら、エロ展開に進むものだ。
でも、こうして現実の自分の身に起きてみると、思ったほど興奮しない。
「ああ、確かに女も同じ生き物だったんだな」
当たり前といえば当たり前なのだが、つい数時間前まで男として生きてきた自分にとっては新鮮な感覚だった。
息をして、心臓が動いていて、手も足も指も男の身体の時と変わらずに動く。おそらく肉体的な性能限界は違うのだろうけど、基本的なスペックは同じだ。
「意外と声も、低いな」
もちろん子供っぽいアニメ声を期待していたわけじゃないが、ピンクとブラウンの花柄で部屋をコーディネートするタイプの女性にしては、地声は低かったと思ってしまうのは偏見だろうか。
おそらくだが、この音程の低さでしゃべると不機嫌に聞こえるかもしれない。
「あ、あー、あー、ぁー」
一応裏声にしなくても少し高めで話せば、そんなに不機嫌には聞こえなさそうだ。たぶん電話ならさらに高い声になるだろうが、何時間も話すわけではないだろうし何とかなるだろう。
「これが私の声か」
一度高さと出し方さえつかんでしまえば、声の印象にはそんなに違和感はなかった。日本人の女性は声が高いというが、こんな努力をしていたのかと改めて知った。
これで突如誰かが訪れてきても、なんとか対応はできそうだ。
それよりもここは『朝おん』掲示板で見てきた先人の知恵をフルに活用させるべき時だ。
身体の乗っ取りや入れ替わりが起きたのだとすれば、少なくとも数時間、下手すれば数年間はこの身体で生活せざるを得ないはずだ。こんな特殊なイベントがそう滅多に起こるとも思えないからだ。
ならば、この身体の持ち主の事が何もわからないままでは、社会生活に適合できずに苦労することになるのは明らかだ。
机の上を見るとスマホが充電器につながっていた。茶色とピンクの革張りのカバーに蝶のデザインで控えめにストーンがついている。
機種は私が使っていたものと同じだ。無意識に指を当て、ロック解除操作をしてみる。指紋認証で簡単に解除された。
どうやら私はこの電話の持ち主で間違いはないようだ。
「あれ? 日付が七月一〇日水曜日になってる」
日付が変わって寝る前にみたカレンダーは七月二十五日水曜日を示していた。スマホの時計は自動同期なので狂うはずがない。そうだとすれば、私は二週間前にタイムスリップしたのか。それにしても曜日が合わない。
すぐさまカレンダーアプリを開いて、今日の日付を確認する。二〇一九年七月一〇日水曜日だ。
性別が変わって、しかもタイムスリップしているときた。なかなかのハードモードだな。幸い戦国時代とか古代ローマとかではないようなので、全く右も左も分からない状況にはならないだろうけれど。
私はとりあえず通知やメッセージアプリなどを開いて、この身体の持ち主のプロファイルを把握することにした。ブログやメッセージアプリなどを見ると、 「私」は「外川夕夏」という名前で、三〇代前半で、スタッフ八人の小さな不動産屋で事務をやっているようだ。
朝は九時四〇分頃出社して、夜も八時半には帰路についている。毎日朝八時から終電まで働いていた私は、そんな仕事が実在したのかと小さくため息をついた。
今日は水曜日なので店は定休日で、特にやることもなく、昨日のブログには「明日は休み。あたしも映画見に行こうか
な」と書いていた。
休みなら好都合だ。もう少し状況を把握する時間が取れる。私は一日がかりで「私」のすべてを細かく調べて頭に叩き込むことにした。
■初出勤
ネットというものがあって良かったとこれほど思ったことはなかった。
公開してるブログの他にも、自分向けの非公開のブログや、職場のスタッフの一覧はもちろん、スキンケアの仕方、肌着の付け方、メイクの仕方、ランチのときの女子同士の会話など、ありとあらゆる興味深い情報がネットに転がっている。
明日からの仕事に差し支えない程度の知識を得ると、スマホの目覚ましを何度も確認して床に就いた。
「なんだかな。こんな状況でも仕事に行こうとしてるよ」
私は目をつむって明日の段取りを頭の中で追っているうちに眠ってしまった。
駅前のビルの裏の小道を通り抜けると、通りに面したビルに目的の不動産屋があった。そこが私の勤務先だ。店長はもう出勤している。時間は九時三十五分。
「おはようございます」
「お、早いね」
なんだ、早かったのかと思いながら更衣室のロッカーから制服を取り出して急いで着替える。
複合機に何枚かファックスで送られてきた間取り図などが溜まっている。パラパラとめくると、昨日調べたこの不動産屋のスタッフ紹介ページを思い浮かべながら、それぞれの机を探した。ちょうどすべてのファックスを担当の名前ごとに分類して置き終わった頃に、他のスタッフも出勤してきた。
私は自分の席につくとパソコンを立ち上げて、メールをチェックした。新着メールは数件で、メールの内容は賃貸物件オーナーとのごく事務的な内容ばかりだった。
送信履歴を見ながら、過去のメールを真似て返事を一通り書き終わった頃には、何組かのお客さんが来て、先輩たちが空室検索していた。
交代で食事をする客商売では、ランチの時間はそう長くはない。昼休みの電話番を担当する私は、十一時半になると急いで更衣室に向かい、ロッカーからお弁当を出していた。すると後ろから声をかけられた。
「あら、夕夏ちゃん、今日のお弁当は凝ってるわね」
「あ……はい。ちょっと早起きできたので」
一所懸命この人が誰なのか記憶をたぐった。そうだ、自分向けの非公開のブログの方にも書いてあったお弁当仲間のあの人だ。
「……えっと……ケンバイさん、今日はお弁当じゃないんですね」
「ええ、寝坊しちゃったの」
「それは、大変でしたね」
「そうなのよ。子供がいるとねぇ、ちょっと寝坊しちゃっただけで、全然他のことできなくてね。そういうときに限って、言うこと聞いてくれなかったりして、ホント可愛いんだけど大変よ。 」
「そうなんですねー」
「じゃ、コンビニ行ってくるね」
「あ、私も、飲み物が欲しいので一緒に行きます」
一瞬怪訝そうな顔をされたが、なんとか会話が成立してる。
犬吠と書いてケンバイと読む変わった名字だったから思い出せたけど、そうじゃなかったら危ないところだった。ここのスタッフについてはもう一度あとで復習しておこう。
午後にお茶を淹れに給湯室に行ったときに、また犬吠さんと会った。なんだか嫌な予感がする。
「おつかれさまです」
「夕夏ちゃん、なんか今日はよそよそしいのね。何かあったの?」
「えっ? 何もないですけど、なにか変ですか?」
「お昼のときもそうだったけど、いつも私達で話すときは、『私』とか言わないじゃない。なんか反応も鈍いし……」
背中を冷や汗が流れていく。周りの音が消え、時計の動きがゆっくりになる。
考えろ! 何が間違ってたんだ? ブログは隅から隅まで全部読んだ。書いて通りに振る舞ってるはずだし、言葉遣いも……ああ、 「あたし」か!
「あの、あたし、今日ちょっと体調が良くなくってぼーっとしちゃうんです」
「あら、そうなの?」
じっと目を見つめられて冷や汗が止まらない。多分、今本当に蒼い顔していると思う。
「無理しない方がいいよ? 無理していいことなんてないんだからね」
「はい。大丈夫です。すみません」
足元に水溜りができたんじゃないかと思うくらい滝のような汗が流れてる。 「あたし」は慌ててトイレに駆け込んで、パウダーシートで汗を押さえた。
一人称に限らず、細かい所作とかもきっと違和感だらけなんだろう。もっと思い切ってなりきらないとダメだ。首を振りながらトイレを出たら犬吠さんが横目でチラッとみてた。ひゃぁ!
色々あったものの全体的には午後は静かだった。犬吠さんもチラチラ気にしてたみたいだけど、お客さんが来たらサッと切り替えて対応していたし、あたしも少し落ち着いて挙動不審は収まったみたいで、その後は特に視線は感じなかった。
この日の午後はお客さんも少なかったし、先輩たちがサクサク対応してくれるので、私は過去のメールをほとんど読み終える事ができた。これだけ仕事の情報がわかれば、明日以降は多分なんとかうまくやれるだろう。
外はすっかり暗くなり、通りの車の音もまばらになってきた午後八時。あたしは店の前ののぼりをしまうとシャッターをおろした。仕事帰りのお客さんが閉店間際に契約で駆け込んで来ると、結構遅くまでの残業になる。けど、今は閑散期なのかあんまりそういうことはない。パソコンを落として手早く制服から着替えると八時十分。
「お先に失礼します」
「おう、おつかれー!」
私より遥かに勤務時間長いのに店長は元気だ。いや、正しくはこの身体の私よりだ。この身体だとあまりエネルギーが蓄えられず、すぐスタミナ切れになる。この時間に帰れるというのは本当に助かる。
私は癖で電車に乗ったらすぐにスマホを取り出して、メッセージアプリを開いて新着や通知を確認してしまう。ブログやメッセージ履歴などを見る限りでは、そこまで頻繁に遣り取りをする相手もいないようだ。
ふと思い当たり、メッセージアプリを起動すると、昔の自分のアカウントを探してみることにした。実際検索してみると、思いのほかすぐに見つけることができた。
アカウントはあるものの、他の人のメッセージをぽつりぽつりと転送拡散するばかりで、自分ではなにも発信していない。確かログも残していたはずだからと、同じアカウント名で過去のメッセージを探してみることにした。
最後のメッセージは七月十三日の金曜日、午後八時三十三分だった。
「なんか描きたくなってきたけど……終わるまでは我慢。 」
地獄のように忙しかった七月の嫌な記憶が、ねっとりとタールのように足元に絡みついて背筋を這い上がってきた。全身の血液が凍りついていくのがわかる。
私はピラミッド建築とも揶揄された巨大なプロジェクトの末端で、二十人ほどのチームの一員として仕事していた。そのプロジェクトはあの三連休で最初の山場を切り抜けはずだった。そのために四年間日課にしていたイラストを描くこともやめ、五年間続けてきた外国語学習もやめ、とにかくその仕事に人生のすべてを捧げた。
クズだ、無能だと罵られながらもなんとか山場を切り抜けたはずなのに、仕事は一向に楽にならなかった。どんなに怒鳴られても発破をかけられても、私の心はガス欠だった。
やがて何ヶ月も続いた長時間勤務から、何度も体調を崩すようになった。
そして連休明けから一週間後の火曜日の夜で、私の記憶は途切れている。
幸か不幸か、私はこの世界では外川夕夏という女になっている。もしこの世界に別の「私」が存在しているのであれば、あのときの私と今の私とのつながりはない。
私は自由なのだ。
その真偽をすぐにでも確かめたかった。アプリのプロファイルを開くと、コメント欄に「お絵描きはじめました」と書き加えた。続けざまに「私」が投稿した絵の一覧を開き、片っ端から「イイね!」ボタンを押して、最後に「フォロー」を押した。
フォローすると相手の書いたメッセージが、自分のメッセージと時系列に並んで表示されるようになる。相互にフォロー状態になると、他の人には見せずに直接一対一で、ダイレクトメッセージをやり取りできるようになる。
「イイね!」されたり「フォロー」されたりすると、通知される仕組みになっているので、私の行動パターンが変わっていなければ、帰りの電車の中で通知に気づいて、相手が絵を描く人なら必ず「フォロー」しかえしてくれるはずだ。
■出会い
その夜はなかなか寝付けなかった。時計はすでに深夜十二時を指している。私は自分に起きている事象が何なのか気になって、スマホを手繰っていた。
しばらく眺めていたら、今となっては見る人も少なくなった巨大掲示板サイトに『転生したら女になってたんだけど、質問ある?』という題された掲示板 ( スレッド ) を見つけた。
もちろん、書かれていることは妄想に過ぎないものが殆どなのだけど、その中で気になったのは、私が「朝おん」した日時を予言していた書き込みがあった事だった。
『こうした突然の転生は二〇一五年頃から確認され、現在では発生周期が一〇五〇時間ごとで有ることが判明している。例えば二〇一八年であれば、一月三十一日六時、三月十六日〇時、四月二十八日十八時、六月十一日十二時、七月二十五日六時、九月七日〇時、十月二十日十八時、十二月三日十二時である。この決まった時間に、別の周期の、別の誰かに意識が転生する。このときに転生する先の人物性別が女性であれば【朝おん】が達成されるのだ』
一〇五〇時間といえば、ふた月くらいだ。 『別の周期の』ということは、私の場合、八周期先の人に転生したことになる。ずいぶんとリアルな話で、私はその後はどうなるのかが気になった。
続きを読もうとしたところで、突然スマホが震えて通知音がした。確認するとメッセージアプリのフォロー通知だった。
この世界の「私」からフォローされたようだ。
これで周りの人に見られることなく色々聞くことができるし、もしかしたら転生の原因とか何かつかめるかもしれない。
ふとタイムマシン・パラドックスという言葉が頭をよぎった。
タイムマシン・パラドックスとはSF用語で、違う時代の自分と出会うなど、歴史を改変してしまうことで発生する矛盾の事だ。
そもそも何が起きているのかわからないから、どういう行動がどういうリスクにつながるのかもわからない。ただ、自分の場合は未来に転生してきたので、矛盾を引き起こす可能性は低いと思った。
とりあえず少しずつでも情報を集めようと思い、私はさっきの掲示板をブックマークに入れると、途端にどっと疲れが出て眠気が襲ってきた。
私はスマホをロックすると枕元に置いた。
あたしの勤務体系は週休二日制で、お店がお休みの水曜日ともう一日休みがとれる。もっとも繁忙期は全然休みの取れない週もあるけど、今はそんなに忙しい時期じゃないので、平日だったらいつでも休みが取れるし、多分来客の減る雨の日なら週末も休める。今週は週末にかけて天気が悪くなる予報で、今朝も朝から重たく湿った雲が空を覆い、いつ雨が降ってきてもおかしくない。そういうときはたいてい来客も多くないので早退できるかもしれない。
いつもより少し早めに店につくと、店長に今日は急な用事ができてしまったので早めに帰りたいと伝えた。
「おおっ?ほー!へぇ!外川さんがねぇ。ほー!」
と言いながら快諾してくれた。もう一言なにか言いたそうだったけど、声に出さずに口パクで「セクハラ」と言ったら、あわてて飲み込んだようだ。
その日、六時に店を出た私は昔の仕事場に向かった。
ベタベタとした嫌な湿り気が体にまとわりつく。この身体で誰かに会ったとしても誰も気づかない。だから、あたしは、ただの通りすがりの女性にしか過ぎない。頭では分かっていてもあの仕事場に向かうということだけで、世の中の色が失われていき、心を黒い霧が包み始めたのを感じていた。
多分、今から仕事場近くのあのコンビニに行けばこの世界での「私」を見る事ができるはずだ。この世界の「私」が昔と同じ仕事をしている保証も何もないのに、私には妙な確信があった。
そして、私はこの世界にの「私」が昔よりマシな人生を送っている事を期待していた。
それは私自身があの暗い過去と決別するための祈りだった。
駅を降りると外はすっかり暗くなっていた。雨はまだ降り出していない。ビルに囲まれた木々が風にそよいでいる。
もう少しすれば「私」がコンビニに現れるはず。私はずっと毎日、五時からの長い打ち合わせが終わった後、そのコンビニでなにか食べていたのだから。私はイートイン席でコーヒーを飲みながら待つことにした。
あたしの勘はあたった。七時半頃になって、 「私」が現れた。
あれが「私」なのか。
なにかに怯えるように、俯いて辺りを伺いながら現れたその男は、顔つきや動きから見て間違いなく「私」だった。
肌は血の気がなく黄色がかった土色をしていて、背中は丸まり、顎はブヨブヨとたるみ、唇は黒く、目は虚ろで血走り、髭も剃り残し、髪は乱れ、ポッコリと出た腹や垂れた胸は以前に増して大きくなっていた。
それは、まるで、地獄から這い出てきた醜い餓鬼のようだった。
「私」は二つ隣の席に座り大きなメロンパンを無表情に食べ始めた。親の仇かのように口の中にパンを無理やりねじ込む。一噛み二噛みすると大きな塊が喉を通っていくのが見えるほどだった。それは食べるというより丸呑みするだけの作業だった。そして三〇秒もしないうちにすべてを食べきると、ドリンク剤を一息に流し込み、一瞬だけ目を細めてごく僅かな喜びを目元に表すと小さく首を振り、再び怯えた表情に戻り、そのまま席を立って出ていった。
一日中叱責され続ける会議の辛い記憶が蘇ってきた。長い勤務時間の中のごく僅かな時間、心のバランスを取るために会議の合間を縫ってコンビニに来て、大きなメロンパンを口に押し込む。
あんなになるまで心と身体を痛めつけてもなお、あの仕事がやめられないなんて。目を覆いたかった。認めたくなかった。あれが自分自身だという事実から目を背けたかった。
特に健康に気をつけていたわけでもないし、ダイエットするつもりもないただのデブだったけど、それでも健康診断のたびに太っている割には健康と言われて、少しばかり身体に自信はあったんだろう。
でもそれは心と身体の悲鳴を押し殺した欺瞞に過ぎなかった。その生活を一年続けた姿が、あの「私」なのだ。
いつの間にか雨が振り始めていた。人々が濡れた傘を振りながら階段を降りてくる。
あたしは地下鉄の駅のホームで俯いていた。まださほど混んでいない電車がホームに入ってきた。
扉にもたれながら真っ暗な外を眺めて、懸命に歯を食いしばっていた。目頭がどんどん熱くなる。ハンドバッグからハンカチを取り出して目頭を押さえた。熱い涙がじわりじわりとハンカチを濡らした。
ダメだ。止まらない。あたしは声を押し殺して顔を見られないように外を向くと、ただ流れる涙をひたすらハンカチで隠してた。
地下鉄がもう暗くなり始めた外に出た途端、窓にも水滴がポツリポツリと付いて、窓の外を流れる街灯を滲ませた。
■決意
家に帰った私は未だショックから立ち直れなかった。灯りもつけないまま脱いだ靴もそのままに玄関に座り込んでしまった。
外は雨が本降りになっていた。時折濡れたアスファルトを走り抜ける車の音がする。ドアに立てかけた雨傘からぽたりぽたりと水が滴っている。
何度頭を振っても瞼から離れない。深いタールのような暗闇の中で、ただ誰に助けを求める事もできず、自分だけを責め続けながら、苦しみ、藻掻き、潰れていった姿。以前だって自分の姿を鏡で見ることはあったが、今日ほど哀れに見えたことはなかった。
この身体に転生してからたった二日しか経っていないけど、それでも世間一般の普通の仕事とはどういうものなのかを知ることが出来たし、男性としての人生から少し離れた視線で仕事というものを見つめ直すと、自分が今まで身をおいてきた世界がどれだけ異常なのかがわかった。
彼――この世界での私――は、その異常な世界の中で溺れ続けているのだ。自分が自分をどれだけ痛めつけていたのかをやっと今理解したのだ。
彼を助けることができるかどうかはわからない。
これは「私」が犯した罪。……彼は紛れもなく「私」なのだ。
なんとかして助けたい。自分の人生の主人公であってほしい。
この二日間であたしが経験したような優しい世界が、ごく普通に存在することを知ってほしい。それがせめて今の私にできる償いなのだ。
雨音は一層強くなった。あたしの頬を温かい滴がとうとうと流れて顎を伝っていた。そういえば「私」は社会人になってからこんなに泣いたことはなかったかもしれない。
あたしは泣いた。彼の分まで思いっきり声を上げて泣いた。
雨音があたしの泣き声を美しく包んでくれる。自分の心を包んでいた黒い霧を、すべて洗い流してしまうまで、あたしは泣き続けた。
それは自分がしてきた罪を許し、彼を助けることで償おうと決めた決意の涙だった。
雨樋を伝う水の音が聞こえる。雨は小降りになり、線路脇の草むらの虫の声が涼しげに響いていた。
どれくらい泣いたのだろう。あたしは冷水で真っ赤に腫れた目元を冷やしていた。
昨日調べていた掲示板によると、転生者は約一年先の別人の身体に転生して、そこで一〇五〇時間が過ぎるとその期間のある程度の記憶を残したまま消滅していき、その身体の元々の意識が戻るのだそうだ。
つまり、この身体で今の「私」の記憶を持った状態でいられるのはあと四〇日程だということ。
一応、普段の行動には気をつけているし、このまま私の意識が消滅しても、この身体の持ち主に不利がないように気をつけて振る舞っているつもりだ。
だけど、細かいところでなんだか変とか思われていることはあるだろうし、なんと言っても元々なんのつながりもなかった、この世界の「私」と接触してしまっている。
あと四〇日しかないけど、なんとか辻褄を合わせながら、彼を救いたい。あまり時間の余裕があるとは言えない。
間に合わなかったとしても、彼の救済は彼女――この身体の持ち主――に託さないといけない。
そう考えてあたしは自分自身向けの非公開のブログに、自分の身に起きていることを少しずつ書き残していくことにした。
彼を救うためにはまず、きちんとコミュニケーションを取れる関係を作らないといけない。
あたしはすぐさまスマホのメッセージアプリを開くと、彼にダイレクトメッセージを書いていた。
『フォローバックありがとうございます。絵うまいですね!一二八〇枚も描いてるなんてすごいです! よろしくおねがいします!』
彼がこのメッセージを見るのは終電の中だと思うけど、返事が返ってくるか、少しだけドキドキする。
あたしはサッとシャワーを浴びてパジャマを羽織ると、リビングに差し込む月明かりを眺めながら、冷蔵庫から取り出した缶入りハイボールを開けた。
雨がコンクリートの熱を洗い流し、網戸越しにそよそよと吹き込む風が心地よく感じられた。焦っても仕方ない。静かに虫の音を聞きながらミックスナッツをつまんで、ハイボールを一口飲む。
「ホントこういうところが、おっさん臭いのよ」
おもわず笑ってしまう。
冷蔵庫に何本もストックしてある缶入りハイボール、ベランダを望む位置にある籐椅子とサイドテーブル。小袋のミックスナッツが盛られた籠。どう見たってあたしも立派におっさんだ。それなのに自然と口をついて出てきた言葉は女性のそれであり、やっぱりあたしは女なのだ。
結局、男と女の違いなんて大した差じゃなくって、四十四年男として生きてきた「私」だって、見た目さえ女性なら、多分なんとか女としてやっていけるのだ。そう思うと気が楽になった。
マナーモードにしていたスマホがサイドテーブルの上で震える。メッセージアプリの通知が来ていた。
『最近はあまり絵を描いていないんですが、こちらこそよろしくお願いします』
まだ終電の時間ではないので、会議の合間に書いたのだろう。
『私も最近絵を描き始めたばかりでアップできるようなものはないんですが、あのくらい描けたらすごいのになぁと思いました』
『大丈夫ですよ。とにかく描いて流してイイねされるときっと楽しくなります。がんばりましょう』
意外と返信は早かった。
『ありがとうございますっ!がんばります!』
顔文字付きで返信を送ると、なんだかホッとした。緊張が解けたこともあるけど、彼の反応はあたしが思っていたほどネガティブじゃなかった事が、何よりも嬉しかった。
■日常
翌日は土曜日。不動産業は土日が忙しい。平日に仕事をしている人が週末に部屋探しをしたりするから。内覧希望も多くて、営業スタッフは入れ替わり立ち代わりお客さんを物件に案内して回る。
あたしは事務職なのでお店を離れることはないけど、駐車場から車を出してきたり、電話番をしたり、お茶を淹れたり、物件検索の手伝いをしたり、間取り図を出してきたりと割と忙しい。
そんな中でも、あたしはちょっとの時間ができるとすぐに彼との事を考えていた。あたしって絵を描いたりってできるのかなとか、帰りに画材屋さんでスケッチブック買ってこうとか、どうやって話したらいいかなとか、思わず口元が緩んじゃう。
「あれ、夕夏ちゃん、なんかいいことあったの? 今日は随分と元気じゃないの」
なんかニコニコしてるなぁと思ってたけど、さすが犬吠さん、目敏く気づくね。
「あ、いえ。別に……」
「ふーん?そぉーなんだー」
いたずらっぽく微笑みながらも疑いの眼差しだ。確かにいいことかもしれないけど、表情に出ちゃうのは、いろいろ勘繰られて面倒だ。気をつけよう。
帰り道、あたしは駅の反対側にある大きめの画材屋さんでスケッチブックと、ホールド感のいい太めの芯のシャーペンを買った。
「私」は、仕事が忙しいことを理由に、絵を描くことをやめたんだ。日課にしていたくらい、辛い日も楽しい日も絵を描いていた。一度描くのをやめてからは、もう描けなかった。
描くのをやめた自分が許せなかったからだ。
「あたし」の方は絵を描いたりしないみたいだ。小さいときはチラシの裏に漫画の絵を真似したりしていたみたいだが、そんなに興味はないようだった。
今の私はどっちだろう。
家についたらすぐにメッセージアプリを開いて、写真をアップした。
『スケッチブックとシャーペン買ってきましたー』
土曜日なので夜の会議はないから、リアルタイムで見てくれてるかもしれない。
案の定、真っ先にイイねしてくれたのは彼だった。すぐさまこのメッセージに返信を付ける。
『何を描いたらいいか悩む。何を描こうかな』
すぐに彼からが返信がついた。
『描きたいものを描くのが長続きするし、続けることが上達への一番の近道ですよ』
『ありがとうございます! 似顔絵とか、デッサンの練習から始めたいと思います』
あたしは思い切って返信をダイレクトメッセージに切り替えて、彼に返事を書いた。
『デッサンの本とかおすすめありますか?』
すぐに何冊かおすすめの本を教えてくれた。それぞれに丁寧な説明付きだった。
絵の話なら食いついてくると思っていたので、正直答えは何でもいいと思っていた。ただ話すきっかけがほしかっただけだった。だけど、意外と親身に自分の経験や考え方を交えながら説明してくれるので、なんだか本当に絵を描いてみたくなってきた。
「私」ってこんなにいいヤツだったかな。それともあたしが女だから良くしてくれるのかな? とか思いながら返信内容を考えていた。誰かに親切にしてもらえるというのは新鮮な体験だった。
もちろん店長も他のスタッフも親切だし優しいけど、そういうのとはなにか違う、あたし自身もポジティブになれるそういう優しさ。
最初はどうして親切にしてくれてるのかわからなったけれど、それは彼が求めているものでもあるんだろうと気づいた。
他に話す相手もいない彼が、女性と思われる人に突然フォローされたら、ちょっと浮かれるだろう。しかもダイレクトメッセージで直接コンタクトしてきたら、脈アリと思うだろう。
男ってそんなもんだろうなぁと思う。
彼の場合は「自分」だから安心してるって言うのを差し引いても、紳士的に親切に接してくれる分には悪いことはない。
お店の男性スタッフを見ていても、男だからってみんな獣だとは思わないし、下心があろうがなかろうが、こうして何かしらのきっかけで繋がって行くのは良い事なんじゃないかと思えた。
日曜日は曇りだった。涼しかったためか、意外とお客さんが多くて、お店はバタバタと忙しかった。
それでも八時には閉店できたし、八時十五分には駅北側のデパートにある大きめの書店で、彼におすすめされたデッサンの本を買って、九時前には家についていた。
あたしはスケッチブックを開くとすぐにデッサンの本から模写をしてみた。この身体で思う通りに絵が描けるのか心配だったし、逆にあまりに自分=彼の絵柄そのものでも、怪訝に思われるだろうから。
結果はと言うと、散々だった。メイクだってネイルだって普通にできるのに、絵を描くとなると酷いものだった。
「ま、いっか。これはこれで変に疑われなくて済むし」
あたしはスマホのカメラで撮って、メッセージアプリの送信ボタンを押した。
数分も経たないうちにスマホの通知音がした。彼からのイイねとダイレクトメッセージだった。
『線を選ぶセンスがいいです。初めての絵とは思えないです』
あたしはくすりと笑う。それは、あなた譲りのセンスなんだから間違いないわよ。返事を書く間もなく次の通知音が鳴る。
『私も久しぶりに絵を描いてみたくなったな』
『ありがとうございます!過去のイラストが素敵だったのでフォローさせて頂きました。絵、楽しみにしています!!』
絵文字取り入れながら手早く返信を打つと、なんだかとても嬉しくなった。一年間絵も描いていない、他の人のメッセージを拡散するだけだった彼が、あたしの絵を見て、絵を描いてみたくなったって。
スマホを抱えてベッドの上を転がりまわるあたしは、まるで中学生だった。
■進展
月曜日のお店には普段見かけないようなちょっとこだわりのある人たちがくる。
駅から遠くてもゆっくり本が読めるすごく静かな部屋がいいとか、周りが賑やかでもいいから夜遅くても大丈夫なところがいいとか。
営業スタッフみんな朝から難しい顔をして検索画面に見入っている中、あたしはくるくるとペンを回しては、メモ用紙にいたずら書きをしていた。
お昼になったので更衣室に行って、お弁当とスマホを取り出し、すぐにメッセージアプリを開く。彼が公開メッセージでつぶやいてた。
『ああ、お絵描きしたいなぁ……』
一年ぶりの彼の公開メッセージにあたしは即座にイイねボタンを押す。もう、なんでこのボタン連打出来ないんだろう。イイね二十個くらいつけさせてよ!
鼻歌交じりに食べ終わったお弁当箱を給湯室で洗っていると、一服して灰皿を持って戻ってきた営業の葦樫さんが声をかけてきた。
「夕夏ちゃん、彼氏できたんだって?」
「え? ないですよー ふふふ」
どうもあたしは隠し事が下手らしくて、犬吠さんや葦樫さんだけじゃなくて、ほぼ皆から「彼氏できたでしょう!」って詰め寄られる。そのたびにすっとぼけるんだけど、内心はそれを言われるたびにもう嬉しくて仕方なかった。
その日は家に帰ってから、二枚程デッサンの模写をしてアップしたら、数分後に彼からイイねがついた。タイミングよく打ち合わせの合間だったようだ。すぐにダイレクトメッセージが飛んできた。
『昨日より迷い線が減りましたね。ほんと成長が早い!』
『ありがとうございます! すごく嬉しい! 私も絵を楽しみにしています!』
『あ、はい。下絵が終わったところです。今夜帰ったらペン入れしようかと』
『がんばってください!』
嬉しかった。絵文字だらけの返信を入力しながら、こうやって褒められて、応援して、そうして仲良くなって行くんだと思って。一緒にドキドキしたり、笑ったり、そうして人を好きになっていく。そんな人生もいいなって思えた。
日差しもどんどん強くなって、蝉の鳴き声がちらほら聞こえるようになってきた。夕方になってもしっとりと汗ばむくらいの気温だ。
もうすぐ転生してから一週間になる。彼とのダイレクトメッセージのやり取りは、昼休みと夜の二回に加えて、朝晩の短い挨拶が加わった。
彼もポツリポツリと公開メッセージでつぶやくようになり、ついに描いてた絵も無事アップした。あたしは即座にイイねしたけど、あっという間に何十ものイイねがついて、た。
フォロワーさん結構いるし、一年ぶりの絵となると、驚きのレスポンスメッセージがたくさんぶら下がってる。すごいなぁ。
あたしもだいぶ絵を描くことに慣れてきた。少し気になったのは、どうやっても昔の自分の絵柄にならない事だ。
字を書いても自分の書いていた文字よりは丸っこいけど綺麗に揃った字体だし、どうも身体が覚えている癖みたいなものがあるみたいだ。
今夜は教本からバレエのようなポーズの絵を模写して、少し花を描き足してアップする。しばらくすると彼からイイねとダイレクトメッセージが飛んでくる。
『本当にうまくなるの早いね!』
『ありがとうございます! 明日はお店が定休日なので、ちょっと練習量を増やしてみようと思います』
『そうなんだ…… 明日はお休みなんだ。あの、もし近くなら、さっきアップした絵を見せるよ。お昼とかどうかな?』
びっくりした。彼からそんな言葉が出てくることを想像してなかった。ドキドキする。答えはもちろんオッケーなのだけど。 「私」ってそんな性格だったっけ?『えっ! はい! ぜひ見たいです! どの辺りですか?』
勿論、場所は知ってるけど、知ってるとおかしいよね。
『それじゃ、あした十一時半すぎに地下鉄の駅出たところで』
こうして彼とのランチデートすることになった。
でも、服とかメイクとか、どうしたらいいの? ナチュラルな感じにするにしたって、あんまりひらひらしたのもどうかって感じだし、仕事は制服があるからなんかテキトーな服しかないよ!
どうにかこうにか、ウンウンうなりながら、来ていく服と靴を決めた。持っていくものをショルダーバッグに詰めて、ベッドに横になって、メイクをどうするか考えてたらそのまま眠りに落ちていた。
■逢瀬
翌朝、遠足前の小学生みたいに目覚ましが鳴る前に目が覚めてしまった私は、昨晩用意した白のワンピに麦わら帽子を見て、あざとすぎるだろうという感想しか出てこなかった。
けど、実際着てみると可愛いから許す。かわいいは正義なのだ。
調べていた時間どおりの電車に乗り、計算どおりに駅につき、予定どおりに待ち合わせの場所に待ち合わせの時間の十五分前についた。
午前中の会議がそろそろ終わる頃なので、多分待ち合わせの時間より早めに出てくると思う。案の定、程なく彼がやってきた。
それはもうびっくりするほどに身なりも整って顔色も良くなっていた。ちゃんとアイロンのかかったワイシャツにサスペンダーで吊ったピンストライプのスラックス。こざっぱりと短く整った髪。相変わらずの体型だけど、背筋も伸びてキビキビと歩く姿はまるで別人のようだった。
キョロキョロと当たりを見回している。そうか、向こうはあたしのことを知らないんだった。
「あのーすみませーん!」手を振ってみると、こっちに気づいたようだ。
「あー こんにちわー」小さく手を振りかえして、小動物のように小走りに走ってくる。
「少し早いですが、混む店なので早めに行きましょう。お肉とか大丈夫ですか?」
あたしはかなり驚いた。
世の中のすべてが灰色で日々生きていくことだけで精一杯だった「私」が、何かを計画したり、段取りを考えたり、相手のことを気遣ったりできている。
彼は「私」に出来なかったことをサラリとやってのけているのだ。
お肉とか大丈夫ですかと聞かれた時点で、地下街にある手頃なランチの丸鶏ローストチキンの店か、ちょっと高級な西海岸風ハンバーガーの店のどちらかと思ったけど、案内されたのは後者。
「いや、ここってお昼だと行列でなかなか入れなくてね。一度入ってみたかったんだ」
「あたし、こんなお店初めてですよ。西の方ってこんなオシャレなお店ないんで」
実際、彼の言う通り、行列でなかなか入れないし、一人で来るような店でもないので本当に初めてだった。
あたしがランチメニューを眺めながら決めかねていると、これがおすすめみたいだよと言って、彼が選んだサーロインステーキのランチは、炭火で炙られた香ばしい香りと、脂っこくなく、しっかりとした肉の旨味が広がる完璧な一皿だった。もちろん、値段もそれなりではあったんだけど、彼のおごりということにしてくれた。
それ、あたしの一週間分の食費より高いかも。
その後、隣の珈琲店に移動して、お互いの絵を見せ合いながら喋っていた。
あっという間に一時間がすぎてしまった。彼は午後の打ち合わせがあるからと言って、連絡先を交換すると、慌ただしく仕事場に戻って行った。
初めて会って会話したのに、久しぶりに会った友達のような感じだった。まあ、私が散々悩んだ服とかに何もコメントしない辺り、やっぱり「私」だとちょっと安心したり、残念だったり。あたしはどっちの気持ちで接すればいいのか混乱したりもしたけど。
でも別れる頃にはすっかり打ち解けた。彼はごく自然に同性の友人と変わらないように接してくれて、あたしも同じように自然に接することができた。
帰りの電車で交換した連絡先にお礼のショートメッセージを送る頃には、もう次いつ会おうか考え始めていた。
この週の週末は海の日の三連休で、不動産業はスタッフフル稼働で営業する。そんな中でも他の人の目を盗んでは、彼とショートメッセージで仕事の愚痴を交換したり、絵のアドバイスをもらったりしていた。
彼はあの日の晩、どう見てもそれはあたしって感じのワンピース姿の女の子の絵をアップして、三桁のイイねをもらってた。あたしはそれを見て嬉しくて、恥ずかしくて、顔を火照らせながらスマホを抱えて転げ回ってた。
あたしも毎日欠かさず絵を描いていたけど、彼も毎晩三十分で描いたラクガキとか言いながら、バンバン絵をアップしてはイイねもらって自信を取り戻して来たみたい。
あたしの表情が明るくなり、毎日鼻歌交じりだものだから、もう職場のみんなにはバレバレで、火曜日帰るときには「明日のランチデート頑張っといでー」と、からかわれるくらいになった。
頑張っといでもなにも、もう水曜日の午後帰りの電車でもう彼と会えない時間が切なくなってるって言うのに。全くどうしてくれるのさ!
そうこうしているうちに、もう転生してから三週間が経っていた。あと三週間でタイムアップだ。
あたしは来週、八月の第一金曜日をターゲットにお泊りを目論んだデートの約束を取り付けていた。
■雨の土曜日
不動産屋というのは割とお天気商売だ。天気の良い土日はそれはもう内覧だの検索だので、お店はごった返すけど、雨が降れば契約とかそういった落ち着いた業務があるくらいでそんなに忙しくはならない。加えて猛暑の八月は内覧希望も少ないのでスタッフが出払う心配が少ない。だから月に一度の任意休日を雨の予報が出ている八月の第一土曜日にしてもらったのだ。
八月の第一金曜日。あたしは八時十五分に上がって都心に向かう。
不動産業の終業時間は割と遅いのだけど、彼の仕事の都合や店の空き具合を考えると、むしろちょうどいいくらいだった。
しかも、翌日休みとわかっていれば少しぐらい飲みすぎたって大丈夫。
待ち合わせの時間までデパートや書店で時間を潰す。予報では夜から雨となっていた。バッグの中の折り畳み傘、メイク道具、ポーチに小さく畳んだ肌着の替え。準備はバッチリだ。
あたしは待ち合わせの場所に向かう。
今夜のために相当頑張って仕事を片付けたであろう彼が現れる。
疲れた素振りこそ見せないものの、なんだか落ち着かない様子だ。さっきからちらちらと私を見ては目をそらしているし、何か話題はないかとくるくると目を回している。
いつもどおり、仕事の話でもなんでもしてくれていいのになぁと思いながら、あたしもあたしで髪の毛の先を指でくるくると弄んでいた。三分にも五分にも感じられた沈黙が流れる。
「……えと、このあと、どうしよっか……」
ちょっと! なにその四十五にもなって、初デートの高校生みたいな言葉! ランチデートのときはあんなに準備万端だったのに何?
この緊張ぶりからして、ぽっちゃりしたケダモノは何かを企んでいるに違いない! と頭ではわかっているのに、なんだかそれでもいいかなって思ってる。微妙にあたしも挙動不審だ。
あたしも人のこと言えたもんじゃなかった。あたしの心臓も、いつもより少し早いリズムを刻んでいることに気づいて、急に頬が熱くなる。きっと今あたし顔真っ赤。なんとなくそれを見られるのが恥ずかしくて俯いてしまった。少し夜風で頭を冷やしたい。
「ちょっと外を歩いてもいいかも」
「じゃあ、歩いて隣の駅の方に行ってみる?」
「うん」
一度降った雨で、もうしっとり濡れてる石畳がキラキラとイルミネーションを反射している。
あたしたちは表通りを少し歩いて、ビルの地下街に降りてすぐのイタリアンレストランで、白身魚のカルパッチョとパスタと、白ワインで軽めの夕食を済ませた。
表通りに戻ると、もうすっかり暗くなって、街明かりがガラスの砂のようにきらめいていた。歩道の石畳は夕方に降った雨に濡れて、街路樹のライトアップを映していた。さっと吹く夜風が心地よく感じられた。彼は付かず離れずの距離であたしの隣を歩いている。
どう見たってデートなんだからもっと近くに来てくれてもいいのにと思いながら、半歩近くに寄ってみた。少し上目遣いで顔を覗き込んでみると困惑と葛藤の色が見える。なんだかちょっと面白かった。
レストランから隣の駅までの十五分の散歩で、少し酔いをさますつもりだったのに、今日の夜風はちっともあたしの酔いを醒ましてくれない。私たちのことを冷やかしているかのように金曜日の喧騒が響いている。
「ここんとこ休日出勤続いてたけど、明日は久しぶりの休みなんだ。 だから、もう一杯飲んでっていいんだけど、どうかな?」
「んー。いいよ。 あたしも休みだから」
通りの中程にある雑居ビルの狭い階段を地下に降りていくとちょっとしたバーがあった。煙くないように気を使ってくれたのか入口近くの二人席に案内される。
スツールに浅く腰掛けてドリンクメニューを眺める。
「シングルモルト、どうかな。まえウイスキーも飲むって言ってたから」
「あは。あたしそんなこと言ったっけ?」
言った。あれはメッセージアプリの方だ。角ハイボールぐらいしか飲んだことないのに。ウイスキー興味あるとか言っちゃった。覚えててくれたんだ。
「言ってたよー。普段はハイボールって言ってたけど、せっかくだからと思って」
「ありがと。どういうのがいいのかな」
「うん。初めてならそんなに香りのきつくないのがいいかな。
グレンフィデックとかどうかな」
「どんな感じのやつ?」
「蜂蜜とかカスタードっていわれる」
「ん。じゃそれ」
「オッケー。すみませーん。グレンフィデックとボウモア」
「ぼうもあ?」
「うん。こっちはダークチョコみたいな感じ。産地が違うんだ」
うん。多分今のあたしには違いがわからない。
運ばれてきた琥珀色の液体を揺らして嗅いでみる。
「うん。ウイスキーって匂いがする」
「あはは。そりゃそうだ」
確かに薄くレンゲの蜂蜜みたいな香りがする。甘い香り。
「こっちも試してみる?」
「ぼうもあー。なんか名前が可愛い」
だめだ。あたし酔ってる。
「んーチョコっていうかコーヒー?」
「お、いいね。そう。そんな感じかも」
嬉しそう。よかった。
あいらーとか、すぺいさいどーとか、よくわからない言葉があたしの耳をかすめていく。段々いつものペースを取り戻して、楽しそうにしゃべる彼を見ているとなんだかほっとする。
チェイサーのミネラルウォーターを空にすると、ふっと音が消えて世界がゆっくり揺蕩った。ほんの数十秒だと思う。
気づいたら彼の肩に寄りかかってた。
「ごめん、大丈夫? お水、もう少し飲んで」
冷たい水を口に含んでゆっくり飲み込む。ウイスキーが焼いていった食道を冷水が優しく撫でていく。
「ありがとぅ……」
次の言葉が出てこない。パクパクと金魚みたいに口を動かす。ばくばくと音が聞こえそうなくらい心臓がうるさい。
「ごめん……今日、泊めて……もらえる……かな」
これって確信犯だよね。もう、酔っぱらってぐるぐる回って彼の言葉もよく聞こえないけど、タクシーに乗って彼の肩にもたれたとき、なんだかとっても心地よく温かかったのは覚えてる。
北部の方ってもっとなんか、こう、古い公団住宅が並んでて、あちこちに落書きがしてあるってワイルドなイメージだったけど、こうして来てみるとなんだかあたしが住んでる西部の方とたいして変わらない感じだった。
古びた中華料理店の裏手の狭い階段を登ると、廊下の一番奥が彼の部屋だった。
ドアを開けるとムワッと蒸した空気に混じって、新しい家具と彼の匂いがした。
ふらふらと促されるままに部屋に上がり、真新しい革張りのソファーに座り込むと、彼はぱたぱたと歩き回りながらコップと冷蔵庫からミネラルウォーターを出してくれるのを眺めていた。
タオルと新しい歯ブラシと、どこかのホテルでもらったようなヘアブラシが机の上に並んでいく。
「よかったら、大丈夫そうなら、シャワーつかって。歯ブラシとタオルはこれ」
「あんがと」
ツキツキと頭が痛いけど、それ以上にあたしは酔ってた。
お酒だけじゃなくて色々なことに。
鞄に入ってた洗顔ウエットティッシュでメイクをふき取るとシャワールームで石鹸を泡立てて顔を洗う。生意気にオリーブオイル石鹸じゃん。ワシワシと頭を洗ってリンスして、身体洗って、タオルで身体を拭いた。乳液の小さいパックを開けてぴちゃぴちゃやってたら、気づいた。クリーム持ってくるの忘れたー。洗面所から頭だけ突き出して声をかけてみる。
「ごめーん、なんか、クリームとかある?」
「あー、洗面台の鏡のところにあるの使ってー」
ハンドクリームか、ちょっと強すぎるけどこれでいいや。顔が乾かないうちに急いでクリームを擦り込む。
「あ、ごめん、パジャマ男物しかないけど、そこにあるの、洗濯してあるから使って」
だぼだぼ。そりゃそうか。身体、あたしの倍くらいあるもんね。ウエストのあたりでくるくるとお団子作って縛ると何とか止まった。パジャマにきられた子供みたいになってリビングに向かう。あちこち片づけてたみたい。
「ちょっと汗かいたから、急いでシャワーしてくるね。横になっててもいいし。ゆっくりしてて」
なんだ、ずいぶんてきぱき動くじゃん。もう初デートの高校生じゃない。
あたしはソファーに座ってひじ掛けにもたれると、脚をぶらぶらさせながら、無意識にパジャマのにおいを嗅いでいた。
あ、彼のワイシャツのにおいとおなじ。えへ。
えへってなんだよと酔った頭で自分に突っ込みを入れて、バスタオルに顔を埋めてニヤニヤしてた。
そうこうしているうちに彼はほんとうにすぐにシャワーからでてきた。Tシャツにスエットパンツ姿で頭をわしわしと拭きながらこっちに来る。
「大丈夫かい?」
「うん……だいじょうぶ」
彼はすっくと立ちあがると、まだ手を付けていなかったミネラルウォーターを、ガラスのコップに注いでこっちによこした。
あたしは少し体を起こしてコップに口をつける。冷たい刺激が身体にしみわたっていくのがわかる。
彼はソファーの隣に座る。石鹸の臭いが広がる。あたしはコップをサイドテーブルに置くと、彼の腕をたぐって肩に頬を寄せた。
なんだか暖かくてふにふにしている。よく知っているはずの「自分」だった身体。こうしているとなんだかクマのぬいぐるみみたいだ。
「あの、よかったら新しいベッド使って。私は布団で寝るから」
彼はあたしの背中に恐る恐る手を回して身体を起こすと、ベッドの方にゆっくりと引っ張る。あたしはフラフラと立ち上がると、手を引かれるままに歩く。
突然視界がぐるんと回ると足元がふらついた。
「おっと…」
とっさに彼の温かい手があたしの背中を支える。なんだかふわふわした気分のままベッドに腰掛けると、横になる。
彼が静かにタオルケットを掛けてくれる。優しいんだな。
でも……。
「おやすみ」彼がリモコンで明かりを消して立とうとする。
いやだ。離れたくない。無意識に反射的に彼の腕をつかんで引き留める。
「……もうすこし……そばにいて」
だめ。離さない。
酔っぱらってたかもしれないけど、あたしだってそれなりの覚悟でここに来たんだもん。
彼は一瞬とまどったように見えたけど、すぐに言葉の真意を探ろうとしてあたしの目を覗き込む。
薄暗い部屋に外を走る車の音が響く。
あたしの心が時計の針の音より大きいんじゃないかと心配になるくらいバクバク言ってる。
近い。
瞳がどんどん近づいてくる。彼の熱があたしの顔に近づく。
あたしは瞳を閉じて弾力のある唇が重なるのを感じた。震えてた。
あたしはゆっくりと腕を伸ばし、彼の首に巻き付ける。
離したくない。離れたくない。
五感がものすごく鋭利になって、百分の一秒も漏らさずに、すべての感覚をあたしの脳に刻んでいく。
襟首の短い髪があたしの腕にちくちくとあたるのも、温かい息が甘い霧となってあたしを包んでいくのも、すべてがあたしの熱量とともに体中を巡っていく。
あたしは彼の唇を繰り返しついばみながら、首に回した手をゆっくりと緩め、Tシャツの裾から手を滑り込ませる。
どれだけ経ったのかわからない。何度したのかもわからない。酔いも冷めて二人で丸まってベッドの上で抱き合っていた。体中の汗がスッと冷たくなった頃、二人でクスクス笑いながら裸のままペタペタとお風呂場に行って、熱いシャワーを浴びながら何度もキスをした。そしてまた裸のままベッドに戻り抱き合って泥のように眠った。
■エピローグ
蝉の声もいつの間にかアブラゼミからヒグラシに変わり、ススキの穂が膨らむ頃になると、夜にはスズムシやマツムシの大合唱が聞こえてくるようになっていた。
彼はあたしたち二人の仕事場の間くらいにある駅のすぐ近くのマンションに引っ越した。なんか自然な流れであたしも合鍵を持つようになったので、もう自分のアパートの家賃払うのがもったいないくらい、彼の部屋に泊まることの方が多くなっていた。
彼と会ってからもうすぐ六週間。彼と過ごしてきた時間が濃密すぎて、あたしの人生は彼なしでは存在できないんじゃないかと思うくらいになってきた。
日記代わりにしていた非公開ブログには七月一〇日から突然変なことがいっぱい書いてある。
あたしは一年前の彼の分身として転生してきたとか、六週間後にあたしが消滅するとか、非公開だからいいけど、この内容は痛すぎるよ。
でも、なんとなく気になって、その六週間後って日を迎えて何もなければ消しちゃおうと思って残してた。地震予知とかノストラダムスの大予言とかそんなレベルの話。
確かにこの六週間であたしたちはお互いに吸い込まれるかのように急激に近づいた。
あたしはもう、彼の人生のすべてを知ったかのような気がしていた。
どんな人間だって、他人の人生のすべてを知ることなんてあるわけないのに、いろんなことがあったから記憶が入り混じってそんな風に感じていたのかもしれない。
もちろん、あたしと彼も別の人間だから、どうやってもすべてを知ることはできない。頭ではわかっているつもりでも、それを実感することはできなかった。
彼の仕事の話も、聞いたことあるようなないようなそんな感じ。あたしは大学出てからずっと不動産屋の事務しかやってないし、大会社の仕事がどんな感じとかドラマの中で見たようなところしか知らないはずだった。
でも、彼に会ってすぐの頃から、それはとても身近で、なんだか自分がまるでその場にいて見てきたかのように感じてた。彼に近づこうと思うあまりに色々わかったつもりで思い込んでたのかな。多分。
あたしは駅ビルで買い物をした後、彼の部屋で夕食の支度をしてた。
ふと、台所の窓から差し込む夕日を見てたら、今日がその、あたしが消滅するとか書いてあった日だってことを思い出した。
なんだか涙が止まらなかった。私がいた世界では私は多分もう死んでいる。多分このまま私の戻るところはない。あの世界で私は死にこの世界で残りの思いを彼女に託した。
私は彼を救えただろうか。私は彼女にきちんと託せただろうか。私は、自分を愛せるようになっただろうか。
「多分、もう大丈夫」
あたしは我に返って、こぼれた言葉の意味を理解しようとぐるぐると考えたけど、こぽこぽと湧き始めた煮物の火加減をみてたら、それは頭から離れてしまった。
食器をテーブルに並べると、一足先にシャワーを浴びて部屋着に着替える。
テレビドラマを見てたらもう十一時だった。そろそろ彼が帰ってくるかなと思った矢先にショートメッセージの通知が鳴る。会社出たみたいだ。
煮物を盛り付けて、サラダのラップを外して、味噌汁を少し温める。
「ただいまー」
彼はあたしがこの部屋にいるときは割と早く帰ってくる。
と言っても夜十一時半は過ぎているから、決して早いわけではないんだけど。
彼の「ただいま」を日付が変わってからのショートメッセージで見るのと、直接その声を聴けるのでは、天と地の開きがある。あたしはパタパタと玄関に駆け寄る。
二十三時四十五分。
シンデレラは城を離れなければいけない時間だ。
この世界を離れる前に一瞬だけ、彼女の瞳を通して自分自身を眺める事ができた。
玄関の眼の前には、微かに上気して瞳を輝かせながら、ニコニコとほほ笑んでいる小太りの男がいる。
いい男になったじゃないか。自信を取り戻したな。悪くないぞ。がんばれよ。
あと、もう少し運動した方がいいな。ラーメンすこし控えような。
彼女を大切にするんだぞ。たくさん思い出を作って、人を愛して、そして何より自分を大切にしろよ。
私自身の罪滅ぼしの為に過ごしてきた六週間なのに、むしろこの男に励まされ、愛し愛される喜びに、私はもう一度感謝したかった。
「ありがとう」
あたしはまた、自分の唇からこぼれた言葉に驚いた。
でもなんだかすごく温かい気持ちになって、うれしくて涙がこぼれた。そして思いっきり抱きしめてつぶやいた。
「生きててくれて……ありがとう」
また、今日も長い夜になりそうだ。