幼馴染がいつもと違うらしい
足元で、ほんの小さな『ぱき』というような音が聞こえた―――気がした。
「……あ」
僅かな希望を胸に足裏を確認してみると、コンタクトレンズがきれいに二つに割れていた。
「あー。やっぱり割れてやがる」
どうしたもんかな。確か予備がこの辺に……無いぞ? 買いに行かないと。
「むぅ。とりあえず明日は」
眼鏡で行くかー。と、俺はそう決めた。
〇-〇
「おはよう」
「おはよ。ん? あ、眼鏡になってるじゃん」
「朝割っちまってなー。予備もなくてさぁ」
こいつは俺の一番の親友? っていうとなんか違うが、最も仲のいい男友達の如月諒だ。中学からの縁で、友人の中では最も付き合いが長い。
諒は腹を抱えて笑い始めた。
「くくく……それにしても、似合わねえなあ! ぷ、はははっ」
「て、てめえ……」
そんなに似合わねえか。一応家出る前に確認してきたときは、大して変でもなかったけどな。
「おっはよー!」
「おは――」
教室に来るなり高らかに声を上げたのは、俺の幼馴染である夢咲紅葉だ。彼女はいわゆる眼鏡っ子というやつで、俺からすればかなり可愛いと思うんだが、諒いわく『付き合えないという程ではないが、特に可愛いという程でもない』らしい。失礼なやつだ。
入ってきた紅葉は、眼鏡を付けていなかった。いやはやなんといいますか、素顔も可愛いなあと思う次第でありまして。
途端、挨拶に呼応するように、教室が騒がしくなった。
「お、夢咲さん眼鏡じゃない」「おはよー。紅葉ちゃんかわいいねー」「コンタクトにしたのー?」
などなど、その風貌についてクラスメイトも関心を寄せている。
ただ、なぜかクラスの大半の男子は絶句というのかなんなのか、一瞬だけ、大層驚いた表情で固まった。
「そそ。朝に眼鏡壊しちゃってー、スペアもこないだ無くしたばっかりでねー」
「そうなんだ。災難だねぇ」
「ほんとにねー。今日は親の使い捨てコンタクト借りてきたんだけど、微妙に度が弱くて見にくいんだよね」
紅葉はそう言うと俺の方を見た。
「弘、おっはよー。あれ? 弘は眼鏡だぁ」
弘というのは俺の名前だ。
彼女は挨拶しながら、俺の席のすぐそばまでやってきた。
「紅葉おはよ。朝コンタクト割っちゃって眼鏡で来たんだ。紅葉も眼鏡壊すとは、今日は厄日なのかねぇ」
「だね。今日ついてないよ……。これ度が合わないせいで、鮮明には見えないんだ。だから弘の顔も、すこーしだけぼやけてるし……ほら、このくらいまで寄らないと」
と言って紅葉は顔を近づけてきた。俺と紅葉の距離はもう20センチもない。お互いの息がかかる距離というか。
「うわっ」
俺はその出来事に驚いたあまり、椅子から転げ落ちた。
敢えて漫画的表現で擬音語を使うとしたら『どんがらがっしゃーん』という感じだろうか。
「わわ。だいじょうぶ?」
「あ、ああ、大丈夫。急なことでびっくりしただけだ」
さすがに、『紅葉の可愛い顔が近くにあって驚いた』とは言えない。そんなこと言ってしまえば、俺は羞恥で死んだ最初の人類として歴史に名を遺すに違いない。
「ふふ……それにしても弘、似合わないねー。ぷ、ふふふっ」
俺はずっこけた。
「諒とおんなじリアクションじゃねえかッ」
「え、そうなの?」
「ほとんど同じ……」
「諒くん、気が合いますな」
「紅葉さん、気が合うね」
紅葉は決め顔をした後に、にへら、と表情を崩した。やっぱ可愛い。
(諒はどうでもいい)
「僕の幼馴染はなんて可愛いんだ、とか考えてるだろ」
囁かれたその言葉にビクッとして、後ろを見た。諒がすげぇニヤついて俺を見ている。
「うるさい。絶交するぞ。そもそも俺の一人称は『僕』じゃないんだなこれが」
「おっと、可愛いっていうくだりは否定しないのか?」
「しまった…………」
諒のニヤニヤ笑いは止まらない。
顔面殴ってやりたい。いいかな。
「どうしたの?」
「え⁉ あ、いや、なんでもないよ」
「……。ふーん。まあいいよ、じゃあまた後でね」
「ああうんまた後で」
紅葉は、ちょっと不満そうな顔をしたあとに、数人の女子が集まって話しているところに混ざりに行った。
「いやー、紅葉さん、眼鏡取るとあんなに可愛いんだなー。どう思う? 弘は」
「否定はしない、けど……」
「けど……?」
「別にいつもの紅葉と大きくは変わらないんじゃないかなーって」
「全然変わるぜ? 天変地異レベルで違う」
「全然変わるのか……その例えはよく分からんが」
天変地異レベルで違うってどういうことだよ。
隕石でも降ってくるのか。
「まー、お前がどう感じているかはともかく」
「ともかく」
「男子連中からの印象は結構変わったっぽいよ」
「印象って?」
「紅葉さんが入ってきたとき、男子連中は黙ってるやつ多かっただろ? あれだよ、あれ」
確かに、一瞬だけ仰天して絶句していた。
黙ってるやつが多かった、というか俺も含めて八割くらいそんな感じだった気もする。
そりゃあ驚いたとは思うが、印象が変わったとはどういうことだ?
「よくわかんないな」
「ホントかよ。つまりだな、男子連中が絶句したのは、紅葉さんがいつもと比べて『可愛すぎ』て……んー、なんて言うんだろうな…………」
「なんていうんだよ。焦らすなって」
「待ってくれよ。俺もいま合う表現を探してるが見つかんねぇんだよな」
長めの間を置いて、諒はなんとか絞り出すように言った。
「好きになりそうな状態、ってことだ」
「そうなのか」
「そうだ。それで、俺が言いたいのは、お前への忠告だ。お前以外の皆にとって、今まで、紅葉さんは友人枠だったんだが、今日、皆の中で好意を寄せる対象になった。うん、上手く言えないけど、要は恋敵が増えるんだよ」
俺の幼馴染にモテ期が来たってことかい。
全く以て想像できな……いやできるぞ。あんなハイクラスの美少女だ。むしろこれまで誰も言い寄ってこなかったのが嘘みたいな可愛さを持っている。
成績は全教科を満遍なくこなす万能の秀才・努力家で、その上親しみやすくコミュ力に溢れる。透き通るようなその肌に、顔のパーツも世に存在する中で最上の配置であるし、海よりも深い綺麗な蒼の瞳はまるで天使の物だ。
話すときは、その天使の瞳で相手を見つめ、話は真剣に聞き、相談にも乗ってくれる。常識人であり、人の心中を察するのも、それから心を支えるのも、誰より上手い。
少々(婉曲表現)ドジっ娘だというのもチャームポイントである。
幼馴染として十数年を共に過ごしてきた俺であっても、一対一で話せば、その可愛さに次第にくらくらしてくる。冗談じゃないぞ。体験談だ。
風邪でも何でもなく体温が0.8度くらい上がったんだからな。
「モテ期かあ、ううむ」
「お前以外も紅葉さんの可愛さに気づいちゃったみたいだな。もう弘はうかうかしてらんないねー。かく言う俺も……」
「あ"あ"?」
「ごめんなさいなんでもないです」
睨みつけてやったら、諒はハッとして口をつぐんだ。よしよし良い子だ。
「危うく殺人を犯してしまうところだった。危ない危ない」
「そこまで!?」
諒はひどく怯えた表情で、ぶるぶる震える。まあ、ここまでは、冗談めいた震えも混じっているだろうが。
なんとなく、嗜虐心がうずく。
「―――ッ!」
諒が恐怖の色を目に浮かべる。
なんでかって?
つい……
愛情たっぷりの殺気を込めて、
また、睨みつけちゃった☆
「ひぃぃぃぃ〜〜〜。ごめんよ弘ぉぉ〜〜」
あらあら、なぜか逃げて行っちゃった。可哀想に、きっとなにか嫌なことでもあったんだろう。
幾人かのクラスメイトから、『なにやってんの』的な呆れたような視線が投げかけられる。
俺はなんにもしてないよー。
〇-〇
チャイムがなり、帰りの合図を知らせる。
担任がそれを聴き告げる。
「はい、終礼を終わります。あとで、今日の学級当番、えっと夢咲、荷物を持ってくのを手伝ってくれ。じゃあ学級長、挨拶して」
「起立、礼」
『ありがとうございました』
号令でクラスメイトが帰り始める。その中、紅葉は一人担任の元へ。
「夢咲、悪いがこの教材を数学の石森先生まで届けてくれないか」
「はい、わかりましたー」
「頼んだぞ」
と言って担任は職員室に向かった。
紅葉が運ぶよう頼まれた教材は、どちらかというと教材群と形容した方が当てはまるもので、とても重そうだ。
おそらく担任は、俺が手伝うことを想定して紅葉に頼んだ側面もあるのだろう。
しょうがない、手伝ってやるか。
「おい紅葉、手つだ……」
「夢咲さん、手伝いましょうか」
「僕も手伝いますよー」
「ほんとー? ありがとー。だったら、佐藤くんがこのくらいで、掛川くんがこのくらいかな。よろしくねー」
「はい。では行きましょう」
割り込んできやがって。
佐藤と掛川だ。両方とも男子だから、諒が言っていたことは本当だったということだ。即ち紅葉のモテ期。
佐藤は眼鏡をかけた秀才然とした奴で、掛川は陸上部のエースらしい。
三人が教室を出た。俺は、何もできなった。
教室を出た直後、佐藤が俺をチラッと見て得意そうな表情をした。くそう、あいつ、俺が呼び止めようとしたのを分かってて邪魔したのか。
掛川は掛川で、紅葉にすり寄って楽しげに話しかけている。紅葉も応じているが、多分、多分しつこく話しかけられて仕方なく、返事をしてやっているんだろう。多分。紅葉は優しいからな。
「おーい。弘〜、帰ろうぜー」
「……」
「どうしたんだ? そんな険しい顔して。もしかして、朝のことまだ怒ってる? ごめんよ、冗談だからさ、許してくれよ」
「いや、もう怒ってない。別にいいよ。てか、俺そんなに険しい顔してるか?」
「してる。人を殺しそうな」
人を殺しそう、か。意識してみると、確かにそういう感じだ。
佐藤と掛川へのイライラが原因だ。諒は許したが彼奴らは許さん。
「紅葉さんがあの二人と行ったことが嫌なんだろ?」
「諒、お前気づいてたのか」
「あんだけハッキリ態度に出してて気づかないわけないでしょ。嫌なら無理にでも話しかけてこればいいじゃん」
「いいんだよ、俺は」
「もう時間ないぜ? 急いだらどうだ?」
そう言われて俺は時計を見た。まだ三時半。時間は十分あると思うが、諒は早く帰りたいのかもしれない。
「わかったわかった。早く帰ろう」
すると、珍しく、諒が気分を害したような、なにか叱りつけたいような―――そんな表情をした。
「どうしたんだよ、なんかイライラしてるのか?」
「分かんないかなー。俺が言ってるのは、その時間じゃないんだよ! 紅葉さんからのアプローチを待つ時間はない。お前がなにかしないと、手遅れになるんだ」
困惑する。なんだどうした。急に怒鳴って。
「……あ。すまん、怒鳴って。お前が、あまりにも動かないから」
「動かないとはどういう意味だ」
「もう、紅葉さんを好きなのは弘だけじゃない。ぼーっとしてるようなら、今度は冗談じゃなく俺がかっさらうぞ」
「あ"あ"?」
「俺は本気だ」
俺が睨みつけたら、諒は覚悟した眼差しで睨み返した。気圧されそうだ。
「くっ。わかったよ。勝手にしろ」
「…………弘……お前には失望した」
諒は心底軽蔑したような目で俺を見た。俺が何も言えない内に、扉を勢いよく閉じて出ていった。
「ちくしょう。俺に勇気出せってのか? 無茶言いやがる」
乾いた笑いすら喉に張り付いて。
それ以上、俺の言葉は引っかかって出てこなかった。
〇-〇
「紅葉さーん。一人?」
「おー、諒くんじゃん。一人だけどー、どしたの?」
「いや、俺も一人なんで誰かと帰りたいな、と思って」
「そうなんだ。でも弘は?」
「なんか勝手に帰っちゃったんだよね」
よくもぬけぬけと。
諒は平然と嘘を吐き、紅葉も信じてしまっている。
つい先程、用事を終えた紅葉が帰ろうとしているところに諒が現れ、話し始めた。(佐藤と掛川の野郎は、案外臆病者だったらしく、帰りには誘わなかった)
俺が物陰からみている限りだと、これは二人っきりで帰りそう、というか帰るだろう。どうしたものか。なんとかして邪魔できないものか。
「それと、大事な話があるから、帰る途中で話させてくれない?」
「うん? いいよ」
紅葉がそう言ったとき、俺と諒の目がばっちり合った。やばい、バレた。草むらの中に、完璧に隠れた、とそう思ったんだが見つかってしまった。
ところが、
諒は無表情を装って、ふいと目線を外した。
「さ、帰ろうよ」
「そうだね。じゃ、行こ」
ちょっ、待てよ。大事な話だぁ? まずい。このままでは紅葉が遠ざかっていく。俺の前からいなくなる。
俺に微笑む紅葉も、俺を見つめる紅葉も、俺を励ます紅葉も、俺に頼る紅葉も、俺と楽しそうに遊ぶも、なにもかも。
――消え去ってしまう予感がした。
妙な確信を含んだ予感は、俺を奮い立たせた。なけなしの勇気を振り絞った。
「諒ッ! そこをどけ」
「弘、どうしたんだ?」
「俺は紅葉に話さなきゃいけない。どいてくれ」
「嫌だと言ったら?」
「無理矢理紅葉を連れ去ってでも、俺の想いを告げる」
諒は降参したように両手を挙げ、微妙な笑顔を浮かべた。
「それでこそ、だな」
「それでこそ?」
俺が、諒のセリフを理解できないでいると、諒は俺に近づいてきて
「俺の芝居が無駄にならないように、失敗すんじゃねえぞ」
と、誰に言うでもなく呟いた。
「―――っと、じゃあなー。紅葉さんもごめんね。たぶん弘から説明あるはずだから」
「待てよ諒! そういうことか⁉」
俺が止めようとするも、諒は走り去っていった。
「さぁてねー。どういうことでしょうー。ばいばいーい」
俺は呆然と、諒の後ろ姿を見送った。
あいつ、やってくれたな。本当に、諒ってやつは……格好いい男だ。俺は良い友を持った。
と感慨に浸っていると、俺の肩がちょんちょんと二回たたかれた。
「弘、どーゆーことなの?」
あっ。
紅葉のこと忘れてた。思い出したことで、急に、緊張がぶり返してきた。必死で抑えてはいるが、足が小刻みに震えてしまう。
俺は、今から……
「俺は、ずっと想ってた」
「弘?」
口は意図せずとも動き出した。俺はまだ、紅葉に向き直っていない。口の滑らかさとは正反対に、身体は硬直している。
「紅葉にあったときから、小さな子供の頃から、ずっと」
想いが、言葉として紡がれる。想いの丈を吐露する。
「今思えば、あれは一目惚れだった。紅葉はそれから、変わらない可愛さを保ち続けてさ」
「弘っ。こっち見て言ってよ……」
その声で俺は正気に戻った。昔語りしている場合ではない。背を向けて語るなんて、変な話だ。紅葉を不安にさせてしまった。
俺は、ようやく紅葉の方を向いた。
紅葉は、その可愛い顔を僅かに紅く染め、迷っているような目で俺を見上げた。
俺は奮起し、さっきとは違って、自らの意志で口を開いた。
「俺は、紅葉が好きだ。ずっと、ずっと前から。付き合ってほしい」
頭を精一杯下げて、誠心誠意込めて、俺の願いを言葉に表した。陳腐な台詞でも、俺の想いで溢れ、『特別な』場面に似合う、『特別な』台詞となる。
「弘、顔を上げて」
断られるのか。俺は一欠片の絶望を抱えながら、紅葉を見つめ直す。
紅葉は、とても、とても、嬉しそうに。とても、喜ばしいというように。大輪の華が咲くような、光り輝く笑顔を顔いっぱいに表した。
「――はい。私も、ずっと、弘が好きです。これからは、『恋人』として、よろしく、ね」
「あ、ああ。よろしくお願い、します」
本当に。俺が紅葉と付き合えるのか。幼馴染とはいえ、こんな美少女が俺の彼女になるとはなぁ、夢かなにかか?
「ほっぺなんかつねってどうしたの?」
紅葉がふふっと笑って、楽しげに言う。
「紅葉が俺なんかを好きだったなんて夢みたいで」
「そこ、俺なんかって言わない。弘は、私にとってはちっちゃい頃からの好きな人だよ? そんなに卑下したら、弘を好きになった私の趣味が悪いみたいじゃん」
恥ずかしいことを言ってくれる。照れてしまうじゃないか。
―――不意に、目が合う。吸い込まれるような蒼の瞳に、俺は魅入られる。
俺は、紅葉の肩を優しくつかみ、引き寄せる。
そっと顔を近づける。
数瞬見つめ合うと、紅葉が目を瞑った。
俺も目を瞑り、彼女にキスを…………
こつん。と、何かが俺たちの口づけを邪魔したのか。
目を開けて見てみると、俺の眼鏡のフレームが、彼女の額に当たっていた。
彼女も驚いた様子で、俺と視線を交わす。
「ぷふふっ。こんな時に、眼鏡って……ふふ、ごめん、笑っちゃう」
「く、くくく。確かに。こんなことって……面白いな」
俺たちは互いの笑顔を見て、また笑った。
「どうやら、神様は『まだまだ急ぐな』って言ってるみたいだぜ?」
「ゆーっくり、二人で進んでけってことだろうね」
「そろそろ、帰りますか」
「そうしよー。一緒に、ね?」
俺たちは手を繋いで、夕方色に染まった空を背に、『家』に帰った。
俺たちは、前を見て歩いていく。いつまでも、共に。